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完❕❔センサー

エネルギーについて感じていて、ずっと馳せています。まったく果てがなく、おわりがありません。
お札や硬貨という物質で売り買いする。仕事をして、対価を得る。交流、循環する手応えが目に見える形で感じる。
「お金が回らなくなったら、どうしよう」、「貯めていたものが果ててしまったら、どうしよう」というのが、やっぱり顔をちらちら出してくる。と同時に「そもそも、あるものはなくなるのか。」というのも、ずっとある。
物質は壊れたり、どこかが機能しなくなったりして目に見えるものはなくなるかもしれないけれど、エネルギーや意識は、一体どこに行くのでしょうか…。(ここは、宇宙…)
呼吸を吸って吐く、食べたら排泄する。生まれてから身体は、誰から教えてもらわなくとも自動的にしてくれる。仕事して遊んで、食べて、お風呂はいって、寝て起きて…。地球には人の数だけさまざまな環境、状況、状態、生活様式がある中、それぞれがそれぞれにすごしていて、それで巡り巡っているこの日常…。
引いて眺めていると「生み出せることを知っている。なのに、それを信じ切れないのは、なんなん…」というのが、出てきました。エネルギーや意識は、目に見えないからでしょうか。(やれやれ…)

3年ぶりに実家で五日過ごしたのですが。言葉でのやりとりは程々に、感覚的に交流、コミュニケーションをはかっているな、と感じることがありました。
車の運転ひとつとっても、初めて行く所なのに「こっちなきがする」とナビ無視して感覚的に運転する母。
中途半端にかかわってもそれは、本人のためにならないという一貫した見守り。一見冷徹に感じましたが淡々と自分のことだけに集中する父。
周りの雰囲気、空気など目に見えないものを敏感に感じすぎるくらい感じている、きょうだい。
宇宙の子、トータル感しかないもう一人のきょうだい。
それぞれがそれぞれ過ぎて、会話が会話にならないことも多々というかほとんど。しかしそれでなぜか、辻褄があって歯車が回っている。カオス…!!「これよこれ!」、「なんかちがうきがする…」、そういう肌で感じるもの、それではかる距離感。家族はそうやって暮らしていて、動物的、原始的、生きてるだけでアートだな、そう感じました。
神社仏閣、博物館など行きたいところはあったはずなのに、面白可笑しいことが日常的にあるので家にいるだけでこと足りてしまいました。
感覚で感じるとき、わたしの体感として身体でいえば肌がチクチク、さわさわ、ザワザワ、鳥肌が立ったり、寒くなったりぐわぁっと奥の奥から熱くなる。全身が目となり鼻となり口となり手となっている。心は足元より下の根の方から込み上げてくる、眼から流れるものがある。今、未来からのもの。
ものごとをさまざまな視点観点で感じている時、邪推していることもあって、それをしているときは、距離感の偏り、アンバランスさがあるなと感じています。




お読みいただき、ありがとうございます。 とても励みになります! みなさまから頂いたエネルギーを巡らせていけるよう、精進してまいります!