見出し画像

【小説】ボツカット

「ほんっとむかつく、あー」
 すっかり泡がなくなってしまった生ビールは、なかなか喉に進んでくれない。店員を甲高い声で呼び、アヤちゃんはラムコークをもう一杯頼んだ。タイトスカートから覗くアヤちゃんの膝小僧は丸く、ストッキングがてらてらと光っている。その下では、かかと、足先がそれぞれ尖りきったシルエットのヒールサンダルが、同じく光る。こちらは、ぎらりという感じだ。それを見て誰にというわけでなく頷く。強そうだ、と思う。テーブルに置かれた手に目線を移すとそこにもまた、真っ赤なマニキュアだ。足元も手元も、攻撃力強化の装備に思える。女の子のお洒落を、すぐ戦闘能力に換算してしまう駄目なレーダーを持つのはいけない、と思うが、どうしても目が行ってしまう。しかしそんな俺を、女の子は「マメで、よく気が付く人」と褒めるので、悪いことではないかもしれない。それに実際にアヤちゃんが、強くなろう、と呟きながらぺたぺたあれを塗ったのだと想像したら、それはちょっと可愛いかもしれなかった。店員がラムコークをアヤちゃんの前に置いて、代わりに空のグラスをひょいっと浮かせるようにしてあっという間に持ち去る。そのリズムは軽快過ぎて、俺がモスコミュールを頼むことすらも許されなかった。

 宗二にフラれた女の子と一緒に呑み交わすのは、俺の不定期定番行事になりつつあった。俺と宗二は気付いたら一緒にいすぎてしまうし、一緒に人と知り合うし、宗二はすぐに女の子と付き合うし、すぐにフるから、そうなる。方程式として解くのは簡単だが、女の子はそう簡単でもない。俺だって簡単ではないつもりだ。しかし宗二は簡単に、そうしてしまうから、俺も女の子も、この空間そのものも、全てが簡単になってきたような気がしてしまう。

「下北歩いてて、お昼時かな。ここおいしそうだから、入ろうよって。モダンな造りのお店。レコードなんかがレジの横に置いてあって、聴いたことはあるけど曲名のわからないクラシックが流れちゃったりなんかしてる系の。店員さんとか誰もが、いきいきと、今俺たちは、このお洒落なお店で、働いてます! ってことを噛みしめてるような人たちの集まりな感じだった。注文したグリーンカレーが辛くって、私なかなか食べすすめられなかった。宗二はオムライスを半分に割って、右側から食べてた。右半分を食べ終わってスプーンを一度置いたと思ったら、これで終わりだね、って言われたの。その状況の、どこの何に終わりがあるっていうの。それから左半分をきっちり食べてから、セットのスープもきれいに飲んだ後、一回トイレに行って、そのままレジに向かったのよ。私は口開けっ放しで背中を見つめてた、……人って唖然とするとき、順序とか欲求とかそういう本質的なものが、もしかしたらぷつんって裁断されてしまうのかもしれない。だから、私はグリーンカレーを食べ続けた。水と交互に喉に放り込んで、食べ終わった後手を合わせて無言でごちそうさまをした。レジに向かったら、お連れの方がもう払っていきましたって言われて、そこでようやく、裁断されてもう繋がらないと思ってたものがもう一回だけ頑張ってくれて、ああ、いみわかんない、って思った。それで思い返したんだけど、何度思い返しても、終わりだね、の前までは、さっき寄った店のスニーカーやっぱ買えばよかったかなあ、とか、ボウリングってもしかしたら世界一シンプルなゲームなのかもしれないよね、とか、そんな、次の日になったらもう空気として昇華されてしまいそうな会話しかしてなかったのよ。それなのに。しかも、ほら、あいつの所為で、そんなことが、忘れられなくなっちゃった」

 アヤちゃんの鼻をすする音が聞こえ始めた頃、俺は宗二の言ったこれで終わり、の意味が多少なりとも理解できていた。正確に言えば理解できていたのではなく、理解しているつもりになれた。宗二の「終わり」の話を聞くのはこれで何度目になるのかわからなかったが、数え切れなくなってきたくらいであるのは確かだったので、経験則というものがそこに生じていた。それは固形ではなく、ふんわりとした、柔らかくつかみにくいものであることは確かだった。宗二の行動や言動のパターン性はないが、それが導き出す結果だけは同じであり、そのタイミング、そうなるまでに至る時間などもそこまで大きく振り幅はない。それは夜通し大富豪をやり続けた後の感覚によく似ている。勝利パターンや負けパターン、要注意な流れ。ジョーカーに、スペードの三。革命。全て一つ一つ、わかっていても、勝てるようにはならない。経験則の意味するものは、そういうパターンの連続から、わかる何かを見つけるということなのだと考える。チノパンのポケットに入れていた俺のスマートフォンが震える。画面にメッセージが表示される。『今もしかして、アヤといっしょ?』この経験も、なくはない。宗二からだ。アヤちゃんに見られないように画面を顔の真正面に位置させ、『そうだよ』と打つ。一分たたないうちに『そうだと思ったんだ』と返ってくる。これ以上返す言葉はないのでボタンを押し、画面を暗くした。前もそんなことを言っていたのを聞いた覚えがある。確かあのときは、宗二が俺に電話をかけようと思って、しかしふと思いとどまり、やめたのだと言った。俺はそのとき正に泣きそうな女の子が右側に備え付けられていて、電話をかけられたらさぞ焦ったことだろう。次に宗二に会った際にそのことを伝えたら、「そうだと思ったんだ」と宗二は目を瞑って夢でも見ているのかのように、何かに納得して頷いた。


 高校二年のクラス替えを経て、まだ皆が互いの顔と名前を覚えるのに必死な頃、最初の日直に任命されたのが俺と宗二だった。日直の仕事は毎時間ごとに黒板を消すことと、日誌に出席状況と一言を記入するくらいのものだったが、それを二人の初対面の高校生の男二人がコミュニケーションを取り合い、うまくこなすことは決して容易いとは言えない。俺は自分自身のリズムを取るため、そして一時間目と二時間目の休み時間に黒板に向かい、黒板消しを手に取った。世界史の教師は筆圧が薄いらしい。チョークで書かれたビザンツ帝国は、元から消されてしまうことを知っているかのようにすんなりと一拭きで消えた。
「次の休み時間、俺がやるわ。そんで次またお前。でいい?」
 突然、斜め後ろからかけられた声に振り向くと宗二がいた。眉が濃く眼光が鋭い。対して鼻、口はするりとそこにただあるだけ、という具合に上半分が濃く、下半分が薄いという作りの顔は印象的だった。ああ、と漏れるように返事をすると、宗二はくるりと回転し、一番後ろの自席へと戻っていった。よく見ると、先ほどまで俺の机の上にあったはずの日誌は宗二の机の上に移動している。宗二は親指と人差し指だけで全てを支えるような変形的な持ち方でシャープペンをまわし、肩を狭めながら書き込んでいた。そのまま二時間目、三時間目が坂を下りながら過ぎて昼休みに入り、トイレから戻ってくるとその日誌はまた俺の机の上に返却されている。幽霊の仕業のようなそれに少し薄気味悪さを感じながら日誌を開くと、細く、直線的な癖字が目に入る。
「四月八日。クラスの空気はまだ浮足立っている。英語の授業のとき、泰生が一文翻訳をするように言われたが、全く焦ることなく答えていた。ジョン、の発音が犬を呼んでいるように優しかった」
 俺は面食らった。そして少し考えた後に立ち上がり、振り返って「宗二」と呼んだ。宗二は目と眉をわざとらしく上下させて「どうした泰生」と答えた。

 宗二とはクラスだけが同じだった。俺は野球部に入っていたが、宗二は帰宅部だったので、一緒に帰ることもなかった。ただただ宗二と俺は同じクラスにいて、ただただ同じ授業を受け続けていただけだ。最初の一度以来、一緒に日直になるときももう来なかった。しかし俺が日直になったとき、日誌のページを何枚もめくり、あの癖字を探してしまうことは何度かあった。一言スペースではどの日も必ず、宗二の字が上にあった。その一行下に、もう一人の日直の字が、備え付けでぼんやりとその内容一つ一つは他愛なかったが、それは俺にとって他愛ないものとしか受け止められないだけで、本当は、何処かの誰かの耳や喉や臓器を擽るようなことしか書いていないのだ、と考えてしまうことがあった。俺は宗二の行動一つ一つに意味を掴みたいのかもしれなかった。

 いつも、宗二と俺と女の子があり、次に宗二と女の子があって、俺と女の子、になった。大学のときも、働き始めてからも。このサイクルはもう確立されているとでも言いたげに。そして必然的に最後は、宗二の付き合っていた女の子に俺が好かれた。女の子は自身の防御力を最低まで下げて、「やっぱり、たいちゃんがいい」と上目遣いで言った。その度に何と比べてやっぱりなのか、暫く問い詰めたくなるが、俺はそんなことができるほど器用ではなかった。宗二のフッた女の子と夜を過ごすことは、残飯を漁る野良犬を彷彿とさせて、俺はたまに月に向かって吠えたくなった。そのようなことを重ねるうちに宗二の元彼女は総じて良くも悪くもなく、普通の子だと感じることが多かったが、裏を返せばベッドに入ってしまえば皆が同じになるのかもしれなかった。
 アヤちゃんがフリル袖のブラウスを羽織り、ぼうっと窓から特に綺麗でもない夜景を見ている。その視線は窓ではなく、アヤちゃん自身の胸に向いているのだと思った。彼氏にふられ、その友達と一緒になってしまった私。自分が地に身体を置いていること。一人当たりに振り当てられる、面積。体積。平方メートル換算で。俺はアヤちゃんの背中を撫でながら、俺の部屋の間取りを描いていた。玄関が狭いので、靴がろくに置けない。リビングのフローリングは薄暗い。真ん中にローテーブルがあり、千円で買ったストライプのクッションが置いてある。すぐにあそこに帰りたい、と思うが、そこには何もないことも知っている。アヤちゃんの視線が窓から離れ、俺に向いた。しかしアヤちゃんはそれでもまだ、自分を見ているように思う。俺のことも見ているのは確かだが、そうだとしても、透けた宗二がいる。宗二越しに存在している俺を見ている。アヤちゃんの物語において、俺は宗二が存在するが故に存在している人物だ。主人公のアヤちゃんが、悩み考える時間を設けるために現れて、スパイスを振りかけて、カットアウトするのが役目。だとしたら、俺の物語においてはどうなるのだろう。ブラックペッパーとしての自分を考えるのが俺の何になるのだろう。しかしそのくらいの使い方をされるなら、罪悪感に苛まれずに済むからそれでよかった。なんせ俺は、アヤちゃんのことをちっとも好きじゃない。アヤちゃんだって、やっぱりたいちゃんじゃよくないし。俺はやっぱり吠えたかった。残飯を漁る野良犬のようにではなくて、計画されて出される餌に対して反抗する飼い犬のように。

「お前彼女作らないのか、とそろそろ言おうとしていたのに」
 と、宗二が俺の背中を叩く。会社の後輩と付き合い始めたと俺が言ったとき、宗二は黒目を見開き小さく、へえ、と言った。適当に買った馬券が外れてしまった、という表情に思える。
「今度、紹介するよ」
「それはいいけど、俺、どんな顔して会えばいいのかわかんねえよ」宗二は珍しく、本当にわからないのだ、と主張するように申し訳なさそうな表情を浮かべた。俺も正直わからなかったが、すぐにその機会は訪れた。

「初めまして、雫です」
 雫は宗二に会う前の晩、部屋の中で立ち歩いたり座ったりを繰り返した。その挙動は電話中ならよく見られる類のものだった。「なんだか、銀行に大金を借りに行く前みたいな心地」と苦笑いしていた。俺は雫に宗二のことを、友達だ、と話しただけだった。「女の勘って、もっと別のことに発揮されるものだと思っていたけど」と雫は呟くように言いながら、ストライプ柄のクッションを遠慮なく何度も踏みつぶしていた。
 品定めするような目つきは総じて厭らしいと思っていた。しかし宗二のそれは、スーパーで桃を選ぶときのようにみずみずしく純粋だった。押して、感触を確かめるか否か伺っているようにも思えた。宗二は夕方から急遽仕事が入ってしまったので、喫茶店で軽くお茶をのむだけで終えることになった。雫はそれを聞いて残念なような、ほっとしたような、どちらとも取れる真顔を浮かべる。俺と宗二はアイスコーヒー、雫は抹茶オレを頼んだ。宗二は今日に限っていつも入れるミルクを使わなかった。
「泰生が、お世話になってます」
「こちらこそ」
 二人はそう言い合ったあと、はじまりから全てを間違えた、とでも言いたげに黙り込んだ。俺はその間に、宗二の使わなかった分も合わせて二つ、ミルクを投入した。

「たいちゃん、いつも宗二さんの話をするんです。というより、何の話してても、宗二さんがついてるんです」
「生霊みたいな言い方をするね」
 宗二は「憑いてる」と変換したようだった。
「本当にそんな感じ。はい。だから、今目の前にいるのが、本物の宗二さんなのか、それともいつもみたいに、たいちゃんが話しているときについてる宗二さんなのか、わからなくなりそう」
 俺と雫は横に並び、俺の正面に宗二が座っている。隣のテーブルでは高校生らしき若い男女が、向かい合っていたが、女の子の方が少し恥ずかしそうに、やっぱりこっちがいい、と斜め前にあたる席にずれた。抹茶オレの緑と白は時間経過とともにどんどん混ざっていく。煮られているのではなく、バーナーであぶられているような恥ずかしさが腸の奥の方で開花した。宗二は神妙な面持ちで、雫の話を聞いている。俺はすぐにでも席をはずしたかったが、よくよく聞いていると、雫は宗二に話しているというよりは俺に怒っているように聞こえた。今のこの場において、雫は宗二越しに俺を見ているのだと思うとくすぐったくて仕方がなくなる。こんなことを望んでいたのだろうか。ミルクの強いコーヒーを飲み切ってしまうと、宗二を無理やり取り込んでしまったような心地が、胸焼けという症状でやってきた。


「俺の記憶は、瞬間なんだ」
 と宗二が言った。高校二年の体育祭の途中で雨が降って、グラウンド脇に申し訳程度に構えられた野球部用の屋根の下に避難したときのことだった。
「そのときの楽しい、とか、腹立つ、とかそういう突出した感情は確かにそこにあるんだ。でも、ドラマのカットみたいに、次の瞬間にはカチンコ鳴らされて、はいオッケーです。じゃあ次のシーン、なんて言われて、そこで終わってさ。そしたらもう、さっきまでの喜びとか怒りとか、どうでもよくなってるんだ」
 雨は降りやみそうになく、午後の競技を中止にするという決定がなされたらしい。熱心な体育教師と一部の生徒が、決断を覆そうと大声で周りに言い迫っていた。
「嫌なこととかどうでもいいこととか、そういうのが世の中には腐る程ある。ていうか半分くらい腐ってる。だから、あんまり連続したコマとかシーンって、意味がない気がするんだ。好きかもしれないものを、好きだと言いきるのは疲れるし損をするから、好きかもしれない、で行動して、好きかもしれなかった、で終わりたいんだよ」
 もう少し、もう少し待ってみましょう。もう少ししたら、降りやむかもしれないじゃないですか。声の粒がだんだん小さくなって、雨の音の中に消えていった。


 俺は知り合う女の子に、宗二はやめとけ、と言ったことは一度もない。やめておいた方がいい理由が、俺に説明できないからだ。やめとけ、あいつと付き合ったら、すぐに捨てられるよ。と言うことは事実の報告としてできたのかもしれないが、それは正当でも正答でもない気がした。加えて俺は宗二のことを、どの女の子よりもよく知っているつもりになりそうになる度に頭を抱えた。経験則の積み重ねは、汚いオブジェになる。

 高校三年生になると、同じメンバーで迎えた二回目の春が当たり前のようにそこにあった。誰もがなんとなく知っているいじめが起きていた。誰もがなんとなく知っているバスケ部とバレー部の生徒数人の間でスワッピング大会があった。あれもこれも誰もがなんとなく知っていた。それでもやっぱり、俺たちはただただクラスに存在し続けた。
 宗二と夜遊ぶようになったのは、大学生になってからのことだった。交友関係は浅く広く、様々なコミュニティにさりげなく位置した俺たちは、知らない顔と知り合い続けては、俺と宗二と女の子のサイクルを幾度もまわしていった。どんなにまわしても、車のタイヤのように進んではくれないのに、欲求だけは低温火傷のようにうずうずと起こっては解消されていく。宗二は、狭い道を軽やかに通り抜ける。俺はその後ろを歩くたびに、何か大きなものを失う心地だけを手に入れる。中身のない喪失感だ。その空っぽを大事に大事に拾い集める。そのうちに、悲しくなり、悲しくなれば悲しくなるほど、宗二よりも多くのものを持っているように思えてくる。それによってさらに悲しくなって、俺は喉につかえるくらいの大きな空っぽを、抱きしめている。


 雫と別れた、と宗二に言うと、へえ、と返って来た。決まりきった流れのように、どうして別れたんだ、と聞かれたので、お前と俺の話をしたのだ、と続けた。雫は飼い犬のように吠える俺を情けなく思ったのか、またはそんな恋人を持つ自分をかわいそうに思ったのか、泣いた。どちらにしろ、俺の役目は終えたように思えたし、俺と雫もこれで終わりなのだと思った。宗二はもう一度へえ、と言った後、あの喫茶店で飲んだコーヒーは苦かった、ととぼけた。
「雫ちゃんは、しっかりとお前のことが好きだったのに」
 奇妙な箇所で言葉は途切れた、と思うと、一息吐いてから、なのにお前は、と続けた。

「お前はなんだか、俺と雫ちゃんに付き合って欲しいように見えたよ」
 俺は反射的に宗二の肩を掴んだ。歩道橋の下で車のライトがびゅんびゅんと飛びまわって人工的な蛍のようだ。俺はたまに、自分のことを出来の悪い鏡だな、と思うことがある。宗二が髪の毛を直すために使う、鏡だ。完全な反射ではなく、屈折して歪んだ姿を返す。魚眼レンズに近いんだろうか。とにもかくにも宗二と言う対象物があって、それを経て、俺は俺を作っている。そんな自覚はあった。猿真似というには違うし、模倣にもならない。もっともっと、狡猾なことだ。そして宗二は、「泰生、俺はお前がこわい」と囁いた。
 単純に馬鹿にされるよりも辛かった。俺は宗二の肩を掴んだまま、裏返りそうになる声を必死で取り繕う。
「俺は、お前が正解だと思ったことなんて一度もない」
 宗二は怯むことなく頷く。バイクと救急車の合奏音が鳴り響くのも気にせず、俺はさらにまくしたてる。
「お前になりたいなんて思ったことも、ない」
 宗二はやっぱり頷く。「知ってる」と言う。宗二の知ってる、は、俺が宗二を知ってることを簡単に飛び越えてしまう気がして、息が詰まる。肌寒い風が吹き付けて、今日の陽はすっかり落ち切ったことを知る。沈む前の、青紫色に橙が差し込んだ空を、今日はゆっくり見ることができなかった。宗二と一緒にいると、色んなものを見逃す。沈む前が一番綺麗に見える太陽は哀しいが少し羨ましい。いや、そのものが羨ましいのではない。その美しさを歪ませる、対象物になりたいと思う。

 俺はお前がしたことのない、人殺しだってしたことがある、と吠えそうになって、やめた。宗二に眼を見開きながら知ってる、と言われてしまったら、いよいよ俺は俺になることができなくなってしまうかもしれない。俺は決まった誰かにではなく、本当に、誰かになりたいだけで、そのために泥団子みたいに自分に重ねて泥を塗りたくっては、こすり続けて光らせようとしている。

 あの俺は、俺じゃなかった。と今の俺は思っている。記憶が瞬間としてあるのなら、あの瞬間だけは違うだろう、と誰とはわからずとも問いかける。
 高校三年の秋に、同じクラスの山野が屋上から飛び降りたことは、飛び降りるどころか、隕石が降ってきたようなニュースとして校内を震わせた。自殺で、原因はいじめ。そのベタな物語の主人公になった山野。そして、主犯の役目を担ったのが俺だったことを、宗二は知らないはずだった。
 いじめた側は忘れても、いじめられた側は忘れない、とはよく聞くが、いじめられた側がいなくなった場合はどうなるか。人一人がいなくなったことを、いじめた側は忘れられなくなる……とはいかない。やっぱり、忘れる。忘れたようになる。瞬間の記憶だ。
 でも俺には覚えていることがある。全校生徒がグラウンドに集まって、山野の死を悼んだときのことだ。クラスごとに、縦に伸びた二列を作った。統率力がここぞというときに発揮されるというのは勘違いで、突然の集会に短時間でまっすぐな列を作れるほど人間の集まりは単純じゃない。小さなざわめきの中、うじゃうじゃと緩いアーチを描き続ける。教師の厳しくも静かな命が飛び交う。お揃いの制服は、今日は喪服扱いだ。全体を見渡すと、その様は巣を目指す蟻のように見えた。宗二は俺の斜め前にいた。しっかりと眼光の鋭い眼を見開き、前を向いているが、その大きな瞳から重力に耐えられない粒がぼたぼたと垂れて、足元の砂を濡らしていた。俺がハンカチを手渡すと、宗二はそれをぐしゃぐしゃにしながら「俺は山野と喋らなかったんだ」と言った。
 山野が飛び降りたことは忘れられても、宗二が泣いていたことは今になって、忘れられなくなった。俺は、宗二と山野が日直になったとき、宗二が山野にペンを貸したことを知っている。その頃山野の筆箱は、焼却炉で焼かれる順番待ちをしていた。

 あの俺は俺じゃなかったし、あの宗二は宗二じゃなかった。
 宗二が知らない俺を作ろうとしたら、俺の知らない宗二が現れた。あの瞬間をボツカットにできないことを、未だに悔やむときがある。

「宗二」
「どうした泰生」
 俺は宗二の肩を掴んだまま小さく揺れた。トラックが高速で駆け抜ける地響きによるものなのかどうかは、わからなかった。
「俺はお前になろうと思わないけど、俺はお前として生まれていたんじゃなかったっけって、思うことがあるんだ」
 宗二は、知ってる。とは言わなかった。ただ俺を見ている。いや、見ていないようにも見える。宗二は自分だけを見ているから、誰も隔てる必要がないのかもしれない。鏡は鏡に、鏡だけをうつしつづける?
「俺はお前だからお前のことを知ってるようで知らなくて当然なのかもしれないし、だから俺はお前になりたくないと思うのかもしれないな。でも俺は、お前じゃないんだよな」
 そのとき、俺が右手に死後硬直の所為と言わんばかりにただ持っていただけのスマートフォンが震えて、メッセージ受信を知らせた。雫からで、『やっぱりもう一度、話し合いましょう』という短文が、開かずとも画面通知に表示されていた。神様は、たまにどうでもいいことを間違える。生憎月は綺麗にでていなかったけれど、俺は今こそ、本当に吠える決意をした。


#短編小説 #小説 #掌編小説

もっと書きます。