見出し画像

終活にはまだ早いけれど、過去写真を捨てています

今年に入ってから、アルバムを捨てています。

私が主役(?)の時代のものです。結婚したら主役が二人になり、子どもが生まれたら子どもが主役のアルバムになっているので、そこには手をつけず。

私の場合、小学校高学年(くらい)以降の分は、大人になってから自分で整理し直していて(暇か!?)、「◯年◯月 ◯◯にて」という日付も場所もきっちり書き込んでいました。
結婚前までの期間、昔ながらのバリバリッと透明のフィルム剥がすタイプの重い(デカい)アルバムに6冊。スマホで簡単に撮影できる時代ではなかった写真たちです。
新しいもの(と言っても30年近く前)から順に「いる」「いらない」を分けていきます。

アルバムを捨てようと思ったのは、骨折をきっかけに入院中の父や脳梗塞で入院中の義母を見てきたから。二人ともその日は突然やってきて、着の身着のまま入院。認知症が進んで転院した父はもちろん、リハビリの効果が芳しくない義母も転院となり、老老介護の難しさから帰宅は叶っていません。たぶん、もう叶わないでしょう。

この「ある日、突然」が、いつ来てもいいように・・・なんて終活めいたことを考えたのがきっかけです。つれあいも子どもも知らない若かりし頃の自分を眺める機会なんて、次はいつだろう?引っ越しのときにチラッと見たけれど、それだってもう20年以上前の話。スペースも取ってるし、いいよね、という感じで。

しかし、さすがにアルバムを丸ごと断捨離~というほどの勇気はありません。
どうしようかな・・・と見ていくうち、このときは楽しかったな~、笑ってはいるけれど隣のヤツには悩まされた~なんて、振り返ることいろいろ。
どの写真が「いる」で、どれが「いらない」のか、眺めているうちに思ったのが、「自分が一番輝いていたときの写真だけ残そう」です。「輝いてる」なんて大げさですが、少しでも悪感情を思い出すようなものは処分。戻れるならもう一度!と思うものはキープ。
そのときの感情まで思い出すことができる小学校高学年以降、嫌なことはすべて忘れてしまえ!という作戦です。

小学校だろうと高校だろうと仕事先だろうと、良いことも悪いことも多かれ少なかれあったわけで。50を過ぎて、この先まだまだ悲喜こもごも生きていかなくちゃ、と思ったとき、もう後ろにある不要なものは捨てていいかな、と。
 
懐かしく思う気持ちはあるけれど、懐かしさにかまっていられない。だって、あの写真たちの私は、まさかこんな未来が待ってるなんて考えもしなかったし。そもそも50代になった自分の姿を想像することもなかった。無邪気な笑顔が憎くすらあります。
古いアルバムの中に思い出がいっぱい・・・幸せは誰かがきっと運んでくれると信じてた・・・H2Oの『思い出がいっぱい』って、現役終盤のオバちゃんに染みる曲だったんですね(ご存知ですか?H2O)。

やり直せるなら、どこから?という問いには、はっきり答えられます。「はい、アルバムの先頭から」。
 
そうは言っても人生は現在進行形。これからも輝ける日(自薦)をつくっていかなくちゃ、と思う次第です。ここで仕切り直しとするかな。
 

<アルバムを捨ててみて分かったこと>
◎大量にあった写真が小さな箱一つに収まった(輝いていたときは少なかった)。
◎これを一区切りとして、ここから最期までいい思い出を一つでも多く残そうと思えた。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?