「みんな」を手放す
通勤電車の中で、ふとこう思った。
「みんな」って考え方を手放そう。やめよう。
その時の私は「みんなはどうして」「みんなはなんで」「なのにどうして私は」ということをぼんやり考えていた。
直後「『みんな』て誰だよ。どのくらい『みんな』なわけ?」ともうひとりの私が聞いてきた。
高畑勲監督の「おもひでぽろぽろ」で「PUMAがいいの!みんなPUMA(の靴)だもん!」という中学生女子に親御さんが「みんなって誰」みたいな返しをするシーンがあったと思う。
きっと多くの人が、子供時代の「みんな」を理由にしたワガママに、似たような反撃をくらった経験があると思うのだけど、そんなのあくまで親や大人の都合であって、結局私たちは「みんな」と同じであれという圧力にまみれまくって大人になった。
「みんな」から外れない中で自分のアイデンティティを築いてくると、そこから外れていると感じる誰かの行動は自分への攻撃だとみなしてしまう。
だから、自分を守るために「みんな」と同レベルであろうとしたり「みんな」との比較で自分の立ち位置を確認しようとするんじゃないかしら。
私が思考の中で「みんな」を持ち出す時、その明細はあやふやでぼんやりとしていて、しかも今の自分から「ちょっと遠い」誰かだけを取り出している。
それはイコール、自分を蔑んでわざわざ落ち込むためか、「みんな」を蔑んで自分が安心したいためのどっちかだ。
どっちにしても「私」が相対的すぎるし、何か別の目的のために自分で選んで「みんな」を持ち出している。
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自分であれ「みんな」であれ、蔑む時は、私が解消していないコンプレックスに向き合うことを避けている時。
コンプレックスと向き合って「何ができますか」「何をしますか/しませんか」を自分と話し合って、時に抱きしめてあげて、「これからまず何を選びますか」という話に持っていかないといけない。
だって、変われるのも変えられるのも、私だけだから。決して「みんな」じゃないから。
そのために「みんな」を手放していきたいのです。
曖昧な表現で現実をごまかしてないで、周りの現実を明確にすることで、自分の輪郭もちゃんと見えてくると思うのです。
だから私、今日から「みんな」をやめようと思う。
自由になって、本当に私が手にしたいものを、もう一度探そうと思う。