ハイパー自由だから知っていたい、本当の私のこと

真面目でやさしくて生きづらい仲間のみなさんにちょう声を大にしてお伝えし続けたいことの1つに
私たちみんな、誰だって、ハイパー自由だよ^^てことがある。
だから、どんな小さなことも大きなことも、自分で選べる。何でも選べる。

これは本当に信じてほしいの。
そしてそれは「自分のことしか選ぶことはできない」っていうベクトルから確信の後ろ盾があるのね。
他人のことを真に私が選んで、決めることはできない。絶対に、できない。他人は私じゃないから。
だからこそ、私が私の範疇と責任のうちに決められることを放棄したら、私は一体何に責任と優しさを持てるんだろう?
ということ^^

ところで真面目でやさしい人たちは、この「選べる」の選択肢の中から
(抽象的に)「正しい」こと「良い」こと「認められそう」なことを、選ばないといけないと、無意識に思いがちじゃないかしら?
私はさして真面目ではないのだけど、この間「選べる」んだよねぇ…と思いながらちょっと逡巡していた時に
無意識に(抽象的・社会通念的に)「OKな方」と「ダメな方」の2択のみ、ゼロ百で考えて「ダメな方」を排除しようとしていることに気付いて
ちょっとびっくりしたのね。

例えば、仲の良いお友達に心を尽くす/尽くさない という二択だったら
普通に考えたら心を尽くす方が正しそうな気がする。仲良しだし。
でももし、相手の言動に疑問が出てきたとか、物理的とか金銭的に損害を被ったとかだった場合、ちょっと見方が変わったりしないだろうか。
それでも相手に100%心を尽くすことは、仁義的には美談でも、自分は幸せじゃないかもしれない。
もしくは、ゼロ百ではなくて、ちょっとだけ時間的心的な距離を置くってことも、選べると思うのね。会う回数を減らすとか。

まず、自分が自分について「選べる」という事実と、その選べる内容に気付いた上で
「私、選べまーす!」って自分に手を挙げた時に、
ついつい正しそうなこと・良さそうなこと・優等生なことを選びたくなる、選びがちな私たちは、
そこでもう一度立ち止まって、見つめ直したいことがあるんです。

私のほんとの「望み」はなに?

↑このポイントから自分の景色を見た時に、「選べまーす!」の真価が発揮されると思うのです^^
私の望みに基づいて、知った上で、何通りもある選択肢の中から自分自身のことを何でも全部、選べる。
そのハイパー自由に選べるポイントで、私自身が不在でないように、いつも優しくいたいなぁと思うのです。

#コラム #自己肯定感 #選択肢

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