「心を開く」ってどゆこと?
昨日のnoteを書きながら、私がずっと戦ってきたものってなんだろう?っていうのを考えてました。
前にもピンクの服が着れない話とかで戦ってきたものの正体を見つめてきたんだけど
他にもありそうな気がしてきた。。
戦ってきた=守ってきたってことで、
守ってきたものは心そのものでもあるなーって。
心ってワードが出てきた時に
「もっと心を開いたらいいのに」「オープンマインドでいようよ」みたいな発言に
めちゃくちゃ反発を覚えていたなぁって思い至ったのね。
「心を開く」ってなんか、嘘くさい…なにそれ。どゆこと?
で、この「心を開く」ってどういう状態なのか、考えてみたわけです。
心っていう形のないものが開いたり閉じたりはしないから、ある意味比喩だとして
何が観察されたら「開いて」いるのか。
(因みにオープンマインドっていう言い方が個人的に図々しいだけの自己主張をあらわして聞こえるので、今回ちょっとこの言い方は除外します)。
外から(他人から)見た図としても内から(自分)の視点としても
心を開く=相手を信頼しているという状態が、それに当たるのではないかと。
何かしら信頼しているような言動が観察されることが、「心を開いて」見えるような感じだなと。
だって信頼してるから言えることや頼れることが、あるんだもんね。
じゃあ信頼ってナニ?って話になった時に、
信頼と依存はまず絶対、分けて考えたい話だなと思ったのです。
見返りや固定の関係性で成り立っているのが依存、
見返りも関係性の変化も関係なく自分が相手を信頼しようと決めるのが信頼、かな。
この見返りっていうのは、自分に優しくしてくれるかとか相手も信頼してくれてそうかとかも含めて
相手しか真実を知らない相手が決める範疇のこと全部。
相手の反応によって自分の気持ちが揺らぐのが依存、
どんな反応が返ってきても関係ないのが信頼、かもしれないね。
そこから関連して思ったのは
信頼との対比でよく登場する「信用」や共依存の関係なんかは、ある意味「制度」で成り立っていて
本当に心を開かなくても成立しそうだな、ということ。
禁止事項や見返りが明確だから、それ以外のことができない関係。
それゆえにすごく安全。だけど自由はない。
自由がないから決まった通りにいればいいので、心を開いていなくても信頼していなくてもその関係はうまく成り立つ。
(特に共依存の関係の中にいると、それってすごく気付きにくいけど)。
信頼は自分の話。
信用と依存は相手の話。
そっかー。信頼も、他の色んな話と一緒で、やっぱり「自分の話」に戻ってくるなぁ。
幸せで肯定的で自由なことは、全部自分自身がどう決めて動くかっていうことに集約されていくね。
自分で相手を信頼するって決めて、信頼した人とだからできるコミュニケーションを交わす。
それは「自分自身の話」になっていくってことじゃないかなと思うんです。
つまり、自分が自分について決めることや考えることの話であって
他人と自分との関係の中で出てくる話(パートナーとこんなことがあって、とか、親にこう言われて、とか)
とは別の話じゃないかなって。
心を開いたときにできる話、したい話は、
自分が自分自身のことについて何を考え、何を思っていて、何に気づこうとしているかの過程の話になるような気がするの。
(もちろんそれは他人との関係がどこかにあったから生まれる話だけど、
他人に左右されて他人を左右するための話では、ないと思う)。
話の中で、相手の発言を経て自分に新しい気付きや考えが生まれてくる関係。
そういうのが信頼の中にあることじゃないかなぁって、思うのです。
その意味で私はまだあまり「自分の話」ができる相手が多くないから
信頼を幅広く手に入れては、いないのだと思う。
もぅどんどん、みんな信頼しちゃう!って決めてみたら、また新しい世界があるかもねーって、思ってます☆
読んでくださりありがとうございます☆サポートで美味しいコーヒーショップのミルクティを飲んで、またよい記事が書けるようにお勉強します!