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「どんな人」と働きたいか?

愛犬を亡くして一週間。
体調は思わしくなく、ついに先週は医者にかかってしまった。
わかりやすい自律神経の乱れによるもので、漢方を飲みながらリラックスするしかない・・・と分かっているけれど、不調を抱えて生活するのは決して心地よいモノではない。

それでも日常は続く。木曜にはビジネスランチが入っていた。

私が面倒を見ているドイツ人同僚が外部の有識者に会いたいというので、その人を知っている「エライ人」に連絡をし、相手の連絡先を教えてもらい、会いたいと連絡をした。彼は普段関西方面に住んでいて、東京に来るのは月に一度程度。そのタイミングでなら、と言われ、そして「この日の昼なら時間が取れる」と言われたのがひと月ほど前のことだった。

そこからレストランを探し、予約する。
ドイツ人にはここらへんの「文脈」はわからないだろうし、はっきり言って任せる方が面倒だった。とはいえ、会食の予算内で、先方の都合の良い場所で、ちょうどいい店を探すのはそれなりに時間がかかる。幸い、以前上司に「接待費は出すから、面倒見てやって」と言われたので、まあ仕方ないかと自分を納得させる。

そして当日、会食は予想以上にうまく行った。相手から得られた情報は彼私にとっても興味深いものが多く、実りの多いランチミーティングとなった。

昼食後に私が精算し、アシスタントさんに領収書を渡す。
「接待費使っていいって言われてるので、よろしくお願いします」
そうして、ミーティングは無事に終わった、はずだった。


しばらくすると内線がなり、上司から呼び出しを受けた。
今すぐ来て欲しい、というので一体何かと部屋に行くと、開口一番、「あんな経費、認められないよ!」と息巻いている。

はて?と思い、「でも以前、接待費使っていいって言ってましたよね?」と聞き返すと、「接待費っていうのはこういうのじゃないよ、当たり前でしょ!」とのこと。

「ごめんなさい、本気でわからないんですけど、じゃあ何になら使っていいんですか?」と聞くと返ってきたのは、驚くべき返事だった。
「僕が使っていいって言ったのは、社内で飲み会やる時にお金出すって意味だよ!」

これは全く持って予想外の答えだった。
「接待」って社内接待のことだったのか!

ちなみに、基本的に税金で運営されている大学では、この「社内接待」は固く禁じられている。最近では研究会後の懇親会ですら懇『親』会ではなく懇『談』会と書けと言われているくらいだ。研究者同士が親睦を深めるために飲み食いするのは無駄だと考えられている。

大学で上記のルールを叩き込まれた私は、「接待」といえば、当然外部の人間をもてなすものだと思っていたので面食らった。「社内の人間と親しくするのに経費を使うことのほうが問題だと思うんですけど・・・」と言うと、「社内で親睦を深めるのは立派な『仕事』でしょう!」とのこと。

思わぬ回答に思わず笑ってしまったら、追い打ちをかけるように次のような言葉が投げかけられた。
「僕が真面目に怒ってるのに笑われるとすごく気分が悪いんだけど!」

この時点で私の心のシャッターが閉まる音がした。
「すいません、元からこういう顔なんです。」
こんなセリフが即座に出るくらいには、私の面の皮は厚い。


ちなみに上記のやり取りをした上司は、先日コロナ関連で喧嘩した上司とはまた別の相手。

私は、この短期間に二人の上司と「喧嘩」したことになる(我ながらよくやる・・・)。しみじみこの会社が(日本社会が?)合わないなぁと思うが、そのポイントは二つある。

まずはその「非合理さ」。
今回の話も、私には結局話の要点が全く見えない。

社内の人間の親睦が、なぜ必要なのかわからない。仲良くしたいなら私費でやればいい、としか思えない。もっといえば、「仲良くならないと」仕事ができない、という考え方自体があまりに幼稚に思える。

一方で、こちらが「頼んで」先方に時間をもらい、会ってもらっている人間の飲食代を負担しない理由がわからない。私自身も、先方から会いたいと言われて食事に誘われた場合は、いつも先方が接待費を負担してくれる。こちらが会いたいと言ってるわけではないのだから、当然だと思う。

驚くべきことに、私のこの議論に対して上司は「金があるほうが払えばいいんだ!」と言った(うちには金がない、の意。)。先方がいかに金持ちだろうと貧乏だろうと、仕事には関係ないはずである。先方に金がある場合、こちらからお願いして会ってもらったとしても先方が払うのであれば、それはもはや「たかり」である。さっぱり意味がわからない。

最終的に「彼の面倒を見ろと言って、アポイントを私がとって、それでランチになった場合に私は自費で参加するんですか?『仕事』なのに?」と聞くと、「そもそもこれは『君のため』の仕事でしょ!」とのこと。要するに将来的に役に立つから「タダ働き」しろと言ってるんだな、と理解してもはや話の通じる相手ではないと思い知った。

もう一つのポイントが彼の「感情」である。
百歩譲って、上記の問題は双方の「コミュニケーション不足」が原因かもしれない。私は大学で、そして彼は民間企業で全く違うルールを叩き込まれている。それが原因となって「勘違い」が起こった可能性はある。(それにしても「言わなくてもわかるでしょ」「常識でしょ」的セリフは私の最も苦手とするコミュニケーションではあるけれど。)

だとすれば、それはコミュニケーションを取ることで解消できる可能性がある。そして、コミュニケーションを取るためには、互いに向き合って話す必要がある。彼の「感情むき出しの」叱責は、それとは全く遠いものだった。

こういう時、私は怒るのではなく、相手を心底軽蔑してしまう。そして二度と、相手の言葉を真面目に捉えなくなる。だからこそ私自身、職場で「怒る」ことは絶対にない。
無駄(どころか逆効果)だから。


そんなこんなでいやーな気持ちになっている時に、世界の人に聞いてみたさんがいつものように面白いエントリーをあげていた。

「あなたは一言でどんな人と言われたい?」
これに似た質問を、最近何度も自問自答していた。

キャリア迷子になっているような気がして、実は夏から友人のキャリアコーチングを受けている。友人のコーチングを受けることには向き不向きがあるのだろうけど、元来人間関係が「狭くて深い」私にはとても合っている。

おかげで自分の人生の指針・目標が改めて明らかになったのだけど、ある時「どういう仕事をしたいか」「仕事でどう思われたいか」というポイントが話題になったことがあった。

その時に私が出した回答は「面白い人」であった。
仕事が面白いと思われたい。自分自身も自分の仕事が面白いと思いたい。
この場合の面白いは、"inspirational"に近いものだと自分では理解していた。

今となって考えてみれば、結局これは「なりたい像」であると同時に、「一緒に働きたい人像」でもある。
私は、面白いと思われたいし、面白いと思う人と働きたい。話したい。
そして、その「面白さ」には様々な意味合いが含まれていることも、今更ながら理解した。

"inspirational"には、「感情的でない」、すなわち「冷静である」ことも「面白さ」に含まれている。なぜなら、怒っている人から「面白い」話が聞けるとはとても思えないからだ。

もちろん、人権侵害や差別に対する憤りなどはまた別の話。
あくまで「自分のために」「怒っている」人を私は面白いとは思わない、ということだ。

面白い人はまた、「賢い」人でもあるし、「柔軟な」人でもある。
他人の意見を正面から受け止められない人間に「面白い」人はいない。
こうして考えてみると、解像度を高めたと思っていた自己理解がまだまだ低かったことに気づく。そして、このこと自体が私にとってはとても「面白い」。この刺激をくれた世界さんも、もちろん最高に「面白い」人だ。

残念ながら、今の職場に「面白い」人はいない。
これこそが、ここ数年悩んでいたことの答えのような気がしている。


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