アカン痴漢タイマン

幸福についてしばし考える

何を持って幸福とするのかもそうだし、
happinessなのかwell-beingなのか

幸福”で”あるのか、幸福”に”なるのか
beかbecomeか

性善説なのか性悪説なのかによっても
導き出される答えがきっと変わってくる

コトバンクで意味をもう一度調べてみた。

様々な事典に共通しているのは
1.  孟子が唱えた説であり
2. 人間の本性が先天的に善であるということ

対する、荀子が唱えた性悪説とは
1. 人間の本性が先天的に悪である
2. 善の行為は教育、学問、修養によって取得する
という説

うん、認識していた通り。

生と死のはざまを彷徨うような痛みを乗り越え
自分の中から人間が出てきた個人的な経験談からいえば
赤ちゃんは宇宙の神秘と神の愛を体現している善100%の存在。
“性善説”以外の選択肢はない。

産声を上げたその瞬間は、
この地球には勿体無い程に純粋で、神秘的で、尊い。

でも確かに性善説批判も分かる。
だってそうしたらなぜ私を含む人類はなぜさほど尊くないのか

荀子派も赤ちゃんの純粋さを否定するわけではないだろうけど、
「人間になる」ことが果たしていいことなのか、
教育されてなれる”人間”ってそもそも”善”とイコールなんだっけと
それは違う気がする。

ネットサーフィン中面白い視点の記事を見つけたので紹介したい。
2023/11/6 大場 一央
「性善説」を誤解して日本人が需要してしまった訳
「どんな悪人も同情すべき事情がある」ではない
https://toyokeizai.net/articles/-/711661?display=b


タイトルを見て”分かる”と思った。
無差別殺人犯の近所に住む人たちは決まって
「おとなしくて、いいこだったんだけどねぇ」と言うけれど、
批判されている人が芸能人でもない限り、いいところを探そうとする
日本人の性みたいなものもあるだろうし、

裏を返していえばその隣人は”おとなしくていい子”の腹のうちに
興味なんてなかったとも言える。

そういえば、死刑執行のボタンを押せない刑務官の記事を読んだことがある
被害の当事者でもない限り凶悪犯にでも同情はするだろうと思う。


ふむふむ。
この記事の著者の性善説の説明は辞書よりもう少し詳しい

引用)つまり、孟子は「人間は生まれつき身の回りの人間関係に心を配り、正しい言動をとる能力があるものの、それは年齢を重ねるにしたがってダメになる場合がある」と言っているのである。

そして、

引用)誰しもが生まれつき倫理的な素質を持ち、それを拡充によって育てなければならないなら、他者を思いやれず、悪事を平気でやり、自己主張ばかりで、善悪の判断がつかないような人間はどうなるか。
これは生まれ持った素質があるにもかかわらず、怠慢によって堕落した結果だから、問答無用で人間失格の烙印を押される。

つまり、性善説の本来の意味では、人間の失格を失った人は死刑に処されて当然だということらしい。

だから、”日本人の勘違い”とは性善説よりも人情のことを言っているよね
そして善と悪の判断もつかないほどに倫理観が崩れているよね
と言う指摘の記事だった。


なるほどね。

にしても善で生まれて
歳を食うほどに、人間としての経験を積む程に
善が減ってしまう要因ってなんなんだろう。

孟子の言う通り要因は【怠慢】だけなんだろうか。

幸福について考える中で私は、
幸福とか善とかって、盗まれていくものと言う漠然とした認識がある。

生まれた時に幸福100ポイントの善も100ポイントを持っていたとすると、

人間生活を通して、努力によってポイントを稼げることもあれば
不可抗力によってポイントが盗まれてしまうこともあると。

たまごっちがおやじっちになったらおやじっちのまま飼って
あえてうんちを掃除せずにゲームオーバーにする遊びかたもできるけど、

金魚を飼って、めんどくさいからと餌を与えずに水槽も掃除せずに殺してしまうことができる人は稀だと思う。

どんなに責任感のない人でも池とか川に流しにいくでしょう?
犬も、家で餓死させるよりは、見知らぬ土地に捨てていくでしょう?
介護に疲れて散歩中にどこかに置き去りにしても、探すでしょう?

そう考えると、肉体を持った存在への敬意と言うのはデフォルトで刷り込まれていて。それができなくなってしまうごく稀な人間と言うのは
デフォルトに反した状況になっている=ディフォームド(形を損じた)
と言えないだろうか。

どんなに怠慢でも殺めるまでディフォームドになるためには何が起こりうるのか。

私はすでに答えを持っている。

盗まれるのだ。

人間が転落するきっかけは「幸福を盗まれたことにある」
すでに誰かが言っていそうな説
もしかして私もどこかで聞いたことがあるのかもしれないけど
本気でそう信じてやまない

「子供は親を選んで生まれてくる」
と聞いたことがあるだろうか

私は虐待されている子や
子供を授からない人を思い浮かべて
あまり好きな理論ではないが

私の子供たちはそれぞれ、
仕方なく行けと言われてきた、
私を守るため、
私の元に来てくれたと教えてくれている。

魂の成長という概念を受け入れられたのならば
何も、幸せになるために親を選んでいるとも限らなくて
学びを得るために選んだ親
親の学びと子の学びが合致した時に
生まれる親子と言う関係性

必ずしも想定通り上手くいくわけでないのならば
虐待親の方は説明がつく
マッチングが上手くいかないこともあるのだろう

幸福100の善100を子供から盗んでいくのは
共に生活する親であり、親戚であり、友人であり、
初見の人でもありうるのだろうか。

人からエネルギーを吸う人を
エナジーバンパイアと呼ぶことがあるが

子供は無垢ゆえに持ちうる全ての愛情を
親や身近な保護者に限らず全ての人に与えてしまう
エナジーバンパイアの格好の標的だ。

親や身近な人が子供の減った幸福分を補充できないのならば
子供の幸福や善のポイントが下がってしまう
幸福な人生はどれだ周囲の人に愛情を与え、与えられたかで条件づけられてしまうと断言してもいいのではないだろうか。

演出ではなく、自然に自己肯定感の高い人というのは
人に受け入れられるというモードがデフォルトに設定されている
そんな状態の人を言うらしい。

大人になってから、または誰かの助けを得て書き換えることももちろんできるけど、それは自分で足りないポイントを補充する作業でもある。

アラサー以上なら「チカンアカン」という大阪府警痴漢防止ポスターを
一度は見たことがあるだろう。

痴漢がなぜあかんのかと
知恵袋系をちょっと読んでみたのだけれども

ー犯罪だから
ー買ってもいない商品を開封してはならないのと同じ原理
ー同意がないから

とまぁうん、まぁ
とキレの悪い返答が目立つ

そもそもチカンは加害者にとっては「触った瞬間が気持ちのクライマックス」
なのに対して
被害者にとっては「触られた時の気持ちが持続してしまう」という違いがある

加害者にとっては点
被害者にとっては線もしくは面

加害者は捕食者とも言える
自分よりも弱そうな被食者から生のエネルギーを吸い取っている
エナジーバンパイア

持続しない性エネルギーを満たすために他人から生エネルギーを吸い取っている

性の産業であったとしても同意のうえ賃金が支払われている上での
合法的なサービスではあったとしても
顧客が愛情を与えでもしない限り、
性の提供者の”生”のエネルギーは確実に減っていく

性産業が向いている人は実際には稀で、
お金では埋められない心の大きな溝がある

立ちんぼ女子たちは、たちんぼをする前からすでに身の回りの捕食者によって
愛情が枯渇しているのが背後に潜む大きな問題だ
単にやめろと言っても、それ以外の生き方を知らない

それは性エネルギーの性質とも言えるもので、
愛のある性(=セックス)が
循環する性質を帯びているのに対して、
奪う形をとる性エネルギーは捕食でしかない
似て非なるもの

違いがわからないほど悲しいことはない

つまり、チカンはとどめこそ刺さないものの、
被害者を少し”殺して”いるということ
繰り返せば繰り返すほどに殺人鬼に近づいていくということ

痴漢は刑法176条 強制わいせつの罪で六ヶ月以上十年以下の懲役に処することになっている。決して軽い刑罰ではない。

昨夜、ふと電車の中で痴漢に仕返しをする夢をみた。
15年は痴漢にあってないはずなのに何故?

とても幼い言葉で罵って、とても弱い力で叩いて、いくつか束ねた鍵をぶつけた
今の私ならもっと腰を入れててこの原理で頭部損傷、性器利用不能の障害くらい
負わせられそうなものを、なぜそんなに弱いのかと

それは私が奪われた力をそのまま体現している
興味深い現象だと思った。

傷ついているつもりもなかったけれども、
通学途中の埼京線や中央線の痴漢は確実に私の生のエネルギーを
盗んでいた(ので昨日夢の中で自分で気持ちを昇華し返してもらった)

他に、傷を負ってしまうような女子がこれ以上被害に遭ってはいけない
そして私もトラウマを抱えるくらいなら仕返しを、
と警察に突き出して清算したつもりではあったけれど、

まだいい足りないことが残っていたらしい。

彼らは生きるエネルギーを他者から盗む、
”ならず者”であり、性善説の理論からすれば
生きることに対して怠慢な、人間失格なのだ。

救いの道があるとすれば、捕食者自身も、
捕食者から逃れることだと思う。
会社に社会に家庭に、自分を捕食者に駆り立てる、
苦しめている原因は何か、癒すべきトラウマはあるのか。

強いつもりでいる人ほど、強くならざるを得なかった過去が
きっとあり、昇華しきれていない思いがあるのかもしれない。

成長する段階で刷り込まれた教育やあらゆる社会の常識が
痴漢に限らず犯罪に加担する人全ての
善のポイントを奪ってしまっていたのかもしれない、
それゆえ幸福であることができずにディフォームドしてしまったのかもしれない。

だからやっぱり人間のデフォルトは善であり幸福だ。
捕食者にならないためにはそれを繰り返し思い出す必要がある

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