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環境とか、自然ってお話(へ理論な環境学)

近年、環境ということがとても普通に語られたり、環境で飯が食えるようにもなっていたり、、、「環境」の名前のついた学科を卒業した者としてはうれしい限りです。

と、言いつつ、、、なんだか話をしていることが旧態依然、、、なんも変わらんのだなあ、と思っているところもあります。
正直「辟易としている」くらい「全く進んでいない」と思っているってお話です。

感情的な環境論、というもの

環境を論ずる時、話す時、どうしても「感情的な環境論」ってのに陥ることあります。
それは例えば「この美しい自然を守り、引き継ぐ」という言葉が代表するような考え方です。

この考え方自体を否定する気は全く無いですし、私も「あー、この自然を残したいなー」とか思ってます
ただ、この考え方を突き詰めると「人が自然を壊す」+「それを止める」+「自然に還る」「人が元凶で、人が居ないほうが自然で良い」という「人間よ滅びよ!」という神の視座に立った話になってしまうんです。
私ら人間なのに(笑)。

まあ、そう考え進めていくと、よく「ちょうどいい折り合いをつけて生きていくしか無い」みたいなお話・論が出てくるわけです。
「じゃ、最初から『守る』とか『引き継いで』とか大仰な事言わなくてもいーじゃん折り合いつけんでしょ、どーせ」と、理論として環境論が定まらない・パチっと決まらないものになってしまって、「環境をやってる人たちが何となく胡散臭い」だとか「環境の話は何となく信用できない」といったような空気感が生まれてしまっている、、、ように思うんです。

「自然」という言葉が示すもの

自然、手つかずのそのままの、、、というイメージですよね。
人が何もしていない、何も悪さをしていない、そういう場所(森・林、のイメージが強いですが、湖や海でもイイはず)、という感じ。

、、、人間って自然の存在じゃないんですかね?(笑)

例えば、アリクイは自分の舌を使い器用に蟻塚からアリを取って食べますが、チンパンジーは長い舌を保たないので「木の枝」という道具を利用して蟻塚からアリを取って食べています
これ、アリクイは自然でチンパンジーは不自然、ってことになるんですかね?
木の枝(道具)を利用して生きている人間は「不自然」である、ってのは、、、誰が決めたんだかなー、と思うんです。

感覚的に「人間が不自然な存在になって行っている」というのは確かにそう感じるんですが、、、でもその「不自然な方向に進化して今がある、という自然現象なんだ」と思うんですが、、、屁理屈(へ理論)ですかねえ?(笑)。

さらに「自然」っていうのは、、、例えば「地球ができた当初」も自然な状況なハズですが、あの状態にしたい(マグマの塊の状況)という環境の活動されている方に会ったことはないですし、、、結局「今の色々な生物がいる状況の豊かな自然」を残したい、というお話をされているんだと思います。

エントロピー増大の法則

学問として環境学(生物や化学などなど)を学んでいるなら、絶対に学ぶ「エントロピー増大の法則」ってやつが大事なんですよねー。

スゲー簡単にいうと「全ての物は広がっていく方向に進む」という法則で、、、生物にあてはめて考えると「原子・分子が集まって出来ている生物」が「だんだん原子・分子が分散して行って死ぬ」→「死んだ後、更に分解され次の物質に変わっていく」という事実です。
そう、事実です。置き換えようが無く、絶対に全てのものはいつか「滅びてなくなる」というのが事実です。

さて、「今の色々な生物がいる状況の豊かな自然」は色々な偶然が積み重なって出来上がったものです。ただ、問題は「必ずどんな種も滅びる」ので、それを何とかしようとすると「その歪み」が出ます。その歪みは他の生物(や気象条件・岩石・土などの環境)に伝わり「別の小さな滅び」が生まれるだろう、ということは私が学生時代(もう25年以上前ですね)に環境の人たちの間でも言われていて、、、「でもどーしようもないよね」と言われていました。

もちろん、人間の影響で滅ぶ種があったりするのでそれはなんとかしたいなー、と思いますが、、、ニホンオオカミが食い殺して滅ぼした種とかあったような記憶があるんですが、そういう「自然が自然に滅す」のと同じだと思うんですが(人間は自然の中に生きているので)、ダメなんですかねえ?

環境ってどうしたらいいのか?

大丈夫です。地球は自分で自分の環境を維持しています。我々人類が生きている以上に長生きで、自分の体調についてよくわかっているはずです(笑)。
私達の体調、最近では「腸内フローラ」を改善すると良くなると言われていますが、、、私達人類はせいぜい「腸内フローラの一つの細菌類」でしかありません。それを増やすと良いのか悪いのか、減らすと良いのか悪いのか、細菌類である私達には完全に理解することは難しいように思うのです。

私達人間は「自然の一部」です。つまり「工場を作り、コンクリートの建物を作る」のも自然な行動です。「大規模な農場を作って作物を作る」のも自然な行動なハズで、、、環境を守ることはとても大事です。でも、それと同時に「人口が増えているので、住む場所を確保し・食料を確保する」ために森林を伐採してでも工場・農場を作る必要はあると思います。
それとも人口を抑制していくのが「自然な行動」なんでしょうか??
人が少なくなると、今の環境問題の大半は解決することは、間違いないのです、、、それが正しい判断とはどうしても思えないのです。

だから環境問題は放っておいていい、という話ではない。

そーゆーことじゃないんです。折り合いつけろ・バランスとれ、という話でも無いです。もーちょっと、人類の事考えたほうがいいんじゃないか?というお話だと思うんです。

環境が人が生きていくことに難しいほど変わることを止める為に活動することは大事だ、と思ってます。

ただ、それって不自然なことになるわけです。

人が生きていくためには、自然災害を防がないわけにはいきません
河川の増水から身を守るためには「治水工事・護岸工事」は必要ですし、その場合「土を積む」のではなく「コンクリ・テトラポットで固める」必要があることも多いわけで、、、。

そして、治水工事をした結果、川が地形を変えること(新しい平野が形成される)がなくなるわけです。
自然現象としてみれば「扇状地」ができたりとか「堆積物が流れ出る」こと(=河川が氾濫する)が自然なわけでして、、、。

環境を整える(=環境を破壊する)ことで、人間ってのは生きているわけです。
最近は、自然環境(特に自然災害)に対応できなくなっていて、、、整えすぎるとダメっぽいというのも見えてきたように思います。さて、どうするといいんでしょうね。(バランスを取るが正解?)

感情的に考えるのではなく、、、

人も自然の一部です。
人の営みも、自然の一部です。

過剰になるとダメになる(滅びる)、、、のは「エントロピー(略)」です。人もそのうち滅亡します、きっと、多分、、、。
しなかったら「不自然な存在として君臨できるほど科学が発達した」結果です。惑星レベル(50億年とか)を飛び越えるくらいの技術を持ったってことで、、、イイんですよ、きっと(笑)。

この先、環境保護を唱える人がいたら聞いてみてください。
「あなたが守りたい環境って何ですか?」と。

その答が「今ある自然を守りたい」だったら、、、それは「人が心地よい自然」のことです。

環境は守るもんじゃないです。たぶん、私らは環境に守ってもらってます。
地球の表層のほんの少ししか使ってないんですよ、私らは。地球の大半(大いなる自然環境)は、私たちに関係していませんし、生物なんて、どーでもいいんですよ、きっと(笑)。

だから、人ができる限界を極めるべきだ、と思う

科学・技術を極めて、他の天体に進出するとか、地球環境を制御できるとか、、そーゆー無茶苦茶なことができるほど、限界を極めるべきだと思ってます。
その結果が「自然なこと」だと思ってるんですけど、、、環境論として、本気で、、、やはり、へ理論ですかねえ(笑)

注) へ理論 → 理論的に見えるけど「屁理屈」と大して変わらないもの。どー考えても、ちょっとおかしい理論っぽいもの、ちゃんとしてないけどちゃんとしている理論、のこと

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