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坂本慎太郎「君はそう決めた」の詞が感動的な理由/池田知徳

 はじめに断っておく。この曲をいま取り上げる、特別な理由はない。最近頻繁に聞いている素敵な曲の、何に自分は撃たれているのか、書きつけたかっただけである。もとより真剣な論考を残す場でもない。個人的に思い入れの深いものを、自由に語ってみる。それほど長いものにはならないだろう。

 曲を聞いてから読んでいただいても、その逆でもかまわない。曲を聞き、それから読まずにページを閉じていただいても、それはそれでよい。

 どうやら、「君」はこれまでずっと、一人で家にこもってきたようだ。それがどれくらいの期間、どれくらいの空虚だったのかは、語られない。ただ、ある日目覚めると「突然に」欲望の数々が噴きだした。「君」はふいに「楽しみとか苦しみとか」を「知ろうとし」「恋をしたりけんかしたりしたい」と思い、「時には涙を流してみたり/窓ガラスが壊れるほど叫んでみたり/ダンスしたり/ジャンプしたりしたい」と思う。

 そうした欲望は、「君」には準備できるはずもない、忽ちの出来事だった。だから「君」にとって、「君」が「そう決め」ることなど、本当はなかったのだと思う。それでも、身体はいつのまにか動き、「君は戸をあけて/突然外に出た」。因果の埒外から、衝動が降ってきた。

 詞がマークするのは、この瞬間である。外へ出たという端的な事実を、歌はどこまでも、「君」の決断だと認めつづける。それは、この事実が、認められなければ消えてしまいかねない、あるかなきかのものだからだろう。実際、「君」が外に出たとして、傍目には(あるいは「君」の目にさえ)、「朝がきて夜がきて/また朝が夜になって/また朝が来て/また夜が来て朝が」来るだけである。なにも変わっていないのだろうか。「君」を待ち受けるのは、かつてと同じあの空虚なのだろうか。

 限りなくかつての日々に似た単調な繰り返しは、それでもなぜか新しい。むしろ、似ていれば似ているほど、かつてとは違ってみえてくるはずだ。そこに広がる世界こそ、「君はそう決めた」という言葉なしに存在することのなかった世界なのだと思う。

 「君」は町を生きはじめ、平静を装おうとする。だがその実、「単純なうそに/ドキドキし」「肝心なとこで/しらけてみる」、ナイーブな被膜の持ち主にすぎない。病み上がりの彼に、内と外の区分けは満足にできない(多くの私たちと同じだ)。そんな彼のことを、すこし遠くから歌は「君」と名指し、「そう決めた」という言葉で何度も見守る。言葉は、因果の系列に属さぬ一瞬の衝動を、まさに衝動としてあらしめる不断の目となる。

 誰のもとにもふいに訪れるものが、衝動である。それが徹底して偶然である限りにおいては、出来事に見舞われる者とそうでない者との間に、もはやさしたる区別もない。だから、「君」と名指される者は誰であってもよい。それが誰であれ、「君はそう決めた」と(いつか/すでに/今)告げてくれるひとつの存在を、私たちは坂本の曲に見出す。それは神には似ておらず、等身大の人間ともすこし違う。いわば、出来事が出来事自身に抱く、無記の親密さのようなものが、私たちの各々を、時の彼岸で支えている。

池田知徳(イタリア文学)


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