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ファンダムと批評家のあいだで──シャフト批評合同誌『もにも~ど』書評/石野慶一郎

全ては主観性を失って、歴史的遠近法の彼方で古典になっていく。
いつの日か、現在の私たちも、未来の誰かの古典になるのだろう。

──米澤穂信『氷菓』

 「ファンダムと批評家」と並べれば、一見して取り合わせが悪い(註1)。特定の対象に対するファンたちの熱狂が、批評のある種の冷静さをかき消すように思われるからだ。ときに執拗なまでの熱意は、思考の源泉を沸き立たせ、「考察」をあらぬ高さまでのぼせてしまう。
 だが、「エントロピーを凌駕」するほどのその熱を、──「考察」とは別の仕方で──ほかのエネルギーに変換できるとすればどうか。シャフト批評合同誌『もにも~ど』は、アニメーションスタジオSHAFT(シャフト)のファン20人以上が綴った批評・エッセイ・イラストなどから編まれる。300頁以上に及ぶ各稿をひとつずつ紐解くことは叶わないから、まずは概観して、本全体の在りようを見てみたい。

 まず眼を惹くのは、紅白バイカラーの洗練された表表紙。洗練されたデザインとビビットなカラー、そしてキャラクターのいっさいの不在が相まって、攻めた「シャフトらしさ」を演出している。
 表紙を捲ってすぐ、冒頭をアニメーター/イラストレーターらの絵が飾る。寄せられたイラストそのものもさることながら、寄稿者の面々の多様さがまた、ひとつのアニメーションスタジオの名を冠する合同誌の引力を感じさせる。
 そうして引き込まれて頁を繰れば、瞬く間に文字の渦へと陥る。中心的に扱われる(シャフト作品の)作品名だけ挙げても、『ぱにぽにだっしゅ!』(2005年)、『化物語』(2009年)、『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年)、『傷物語』(2015-17年)、『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』(2017年)、『Fate/EXTRA Last Encore』(2018年)、『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』(2020-22年)、『美少年探偵団』(2021年)等々、多岐にわたる。それに加え、純粋な作品論というべきものから、板村智幸や尾石達也、今村亮といった各クリエイターにスポットを当てた論考、ごくごく個人的なことを含むエッセイから仔細な音楽分析、網羅的なオマージュ/パロディの解剖、クィア・リーディングまで、内容のヴァリエーションもたいへん豊かだ。もちろん、『月詠 -MOON PHASE-』は?『さよなら絶望先生』は?と、中心的に扱われていないシャフト作品を名指すことはできようが、それはほかならぬシャフトファンである書き手たちが十全に認識しているところであろう。その点、満遍なさを追求するよりも、ファンダムの力学に従ったと見受ける。

 深入りしないと前置きして、具体的な内容について、記すべきと思われることをいくつか。
 「批評・エッセイ」の冒頭4本はどれも『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』を扱う。読解の手法はさまざまだが、とりわけ先行する3本は、『マギレコ』の不当な評価を覆すために書かれたものと読めた。いつか本書が、「歴史的遠近法の彼方で古典」となったとき(註2)、「歴史」に残るのは、「不当な評価を覆す」ということである。この「歴史性」とその不可逆性に思いを馳せる。
 前述の『マギレコ』論のひとつも含め、本書には海外ファンからの寄稿が3本含まれる。いずれも翻訳が施され、日本語で収録されている。ファン「王国(kingdom)」の領土の広さを感じさせるとともに、異なる環境から、しかし同様の志をもってアニメーションについて考える人々の貴重な証言となっている。
 本書の終盤には、『美少年探偵団』(2021年)、『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 Final SEASON –浅き夢の暁-』(2022年)、『RWBY 氷雪帝国』(2022年)、『連盟空軍航空魔法音楽隊 ルミナスヴィッチーズ』(2022年)の「スタッフリスト」が掲載されている。話数ごとの基本的なクレジットはもちろん、BD/DVD版における追加クレジットやカットの総数まで詳細に記されている。この網羅性を紛れもないファンダムの力とするのは容易いが、つねにすでに、そこには「ファンメイドの」という留保は付き纏う。とはいえ、「ファン」のほかにいったい誰がこれを作れるというのか。ただしもう一度反転して、「ファン」だって「何でもは知らない」。

 批評が一足飛びに遠くへ行けたとして、導くのは作品か、読者か。
 批評がたとえば、釣鐘にしんしんと降りかかる雪だとすれば(註3)、「読者」という「釣鐘」を響かせることもあるし、「作品」という「釣鐘」を響かせることもあるだろう。言葉がアニメーションに敵わないと思われたとしても、言葉はアニメーションの「言えなさ」に貢献することはできる。あるいは敵うとしても、言葉はまた、言葉の「言えなさ」の前に消えてゆくのだろうか。
 いずれにせよ、雪は消えゆく宿命にある。とはいえ、降らなければ無である。冷え切った雪をそれでも降らせ、鐘の音を響かせるためには、しかし水源を沸かして昇らせるだけの熱がなければならない。そのための熱源がファンダムなのだとすれば、あるいは──

執筆者:石野慶一郎(思想史・表象文化論)



(註1) 「ファンダムと批評家」という言葉は、『もにも~ど』の寄稿者のひとり北出栞と同書の主催者あにもにのTwitter上での以下の応酬から借りた表現である。

(註2)「全ては主観性を失って、歴史的遠近法の彼方で古典になっていく。/いつの日か、現在の私たちも、未来の誰かの古典になるのだろう。」米澤穂信『氷菓』角川文庫、2001年、140頁。「/」は一行分の空白を示す。

(註3) モーリス・ブランショは、ハイデガーがヘルダーリン論のなかで詩を「鐘」に、注釈を「雪」にたとえた表現を借りて、「批評はどのような状況にあるのか?」ということについて、ハイデガーの解釈を変奏しつつ、論じている。以下を参照。Maurice Blanchot, Lautréamont et Sade, Paris, Les Éditions de Minuit, 1963(モーリス・ブランショ『ロートレアモンとサド』石井洋二郎訳、水声社、2023年).

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