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RIP SLYME論 〈一〉/柳田寛登

無名者が芸術の主題=主体となったからこそ、その記録がひとつの芸術となりえるのである。

ジャック・ランシエール『感性的なもののパルタージュ』(註1)

 ジャック・ランシエールによると、近代以後、芸術の担い手が無名の者になった。ランシエールが挙げる例は映画や文学などであるが、現在、誰でもなかったような人々が担い手となるような芸術の形態はヒップホップではないだろうか。では、日本のヒップホップに目を向けると、最も広く知られているグループの一つとして、RIP SLYMEが挙げられるだろう。実際、BIMやJJJ、chelmicoなど、RIP SLYMEが大きな影響を与えたであろうラッパーは枚挙にいとまがない。しかし、このような影響の大きさにもかかわらず、RIP SLYMEについて語られることは極めて少ない。そこで、本連載ではRIP SLYMEは何を表現していたのかを検討する。第一回目は、彼らが1作目の『Lip’s Rhyme』を発表した1995年からメジャーデビューをする前の2001年まで、すなわちインディーズ期の作品を主に対象とする。

 RIP SLYMEはポップスと見なされるようなスタイルであるし、実際、彼らはJ-POPのアーティストとしても広く知られているグループであろう。しかし、現代の日本のヒップホップの歴史において重要な立ち位置に彼らがいることも確かである。そこで、彼らの曲を分析し、彼らの「リアル」に迫る(註2)。彼ら自身の経験が色濃く反映されているようには見えにくい歌詞や、曲のポップさ、更にメジャーデビュー以後には頻繁に使用されるお揃いのつなぎの衣装などは、彼らのキャラクターを親しみやすいものとして演出する効果を持つだろう。では、彼らの歌詞のストーリーはどのような性格を持つのだろうか。

 インディーズ期においては、日常的な物語をラップすることが多い。『Lip’s Rhyme』に収録されている「FENCE」では学校でのテストについてのラップが展開される。ILMARIはテスト勉強の様子を、続くPESはテスト中の様子を、RYO-G (後にRYO-Z)はテストが終わってから結果が返却されるまでの様子を描く。また、曲全体は「開くPENCASE 待ち受けるTEST 握るPENに立ちはだかるフェンス」というフックから始まり、最後は「結果は散々だがまたチャイム鳴るから泣きやまなきゃなー」と、テストは上手くいかないものの、この直後にこの曲の最初と全く同じラインが続くことによってこの曲は幕を閉じる。つまり、全く同じことを彼らが何度も繰り返すことが暗示されるようにこの曲は終わる。また、「Nai」ではタイトルの通り日常の様々な場面において、各々に「ない」ものが描かれる。それは、周りからわかってもらえないことや、恋人がいないことであり、これらが日々のふとした出来事によって現れる。反対に、「about」では曖昧なままで行動したが、結果はうまくいく日常も描写される。

 また、何もしない日々について描かれることもある。「白日」は「くだらないつまらない日々がまた来る前」に、何もしないで過ごす一日についての曲である。また、「真昼に見た夢」では「病気のように」働いても、未来が何か変わるようには思えない中で過ごすために、真昼に寝て夢を見る。

 ここで、確認しておくべきこととして、韻踏み夫によると、日本のヒップホップはRHYMESTER以来、それまで埋もれていた人々の存在に可視性を与えるものとして、すなわち、様々な「一人称」を明らかにするものとして構築されている(註3)。もちろんRIP SLYMEもこの流れの中に位置づけられる。すなわち、RIP SLYMEの日常を映し出すラップも、ある「一人称」を見つけ出すプロセスの中にある。彼らの語りはどのような人々によって展開されるものなのか。彼らはどのような人の「声」を舞台に上げたのか。当時の彼らは都会の若者であり、もちろんそのような「一人称」によって物語は紡がれるが、では、どのような若者であったのか。彼らはクラブへ頻繁に行くことで、同じ日々が繰り返される社会に適応する若者であった(註4)。そして、彼らは多くの人が1番を目指したり、自称したりするような中で「俺たちの居場所No.5」(註5)と言う。何かでのし上がっていくことより、自分たちに合ったスタイルに生きる術を見出す。彼らは社会の中で何も期待していないかのようであるが、変わらない日々の変化を求めてもいる。「Searchin’」では曲を作っている際の状況が描かれる。求めているものは近くにあるはずであり、むしろ探している中で、そのものから自らが遠ざかってしまうかのようにも見える。作曲によって自分の生きる世界から少しでも出ようとする。そのために言葉を尽くし、まずは身の回りのものから探していくが、望むものは見つからない。

 彼らは妄想や夢を通じて、現実と距離を取る。「真昼に見た夢」では、朦朧としたイメージの中に自己を投げ入れることで、現実とは異なる場所へ思いを馳せる。そのイメージの中に自己を見出し、自分はどうすれば良いかなどを訪ねるが夢の中でさえ彼らは答えを得られない。つまらない日々が続く中でどうにもならないことを彼ら自身も無意識の内ではわかっている。そこで、夢や妄想に逃避するのである(註6)。都会でつまらない日々を送りつつも、そのような状況に適応してしまっている彼らは何も持っていないというのでもないが、何かを持っているのでもなく、常に何かが無いような感覚を抱く。そこから何かを手にすることよりも、逃避する方が、彼らには可能なことなのだ。すなわち、彼らは希望を夢や妄想という形で提示する。また、ここまで何度も確認しているように、彼らの希望はつまらない日々への対処の中で生まれるものである。抑圧が直接の原因として現れてはいないのだ。変わらない日々への閉塞感の中で、その感覚を打ち破らずに、ここではないどこかへと逃避するためのものとして希望がある。オサジェフ・ウルフ・セイクウは次のように述べている。


本来宗教とは意味を生成する行為であることを考慮するなら、恐怖、死、そして絶望を前にした人間は、宗教を通して自分自身をより大きな文脈の中に位置づける。(中略)若者たちはそれに代わる意味生成の空間を求め、創造し始めた。ヒップホップが意味の空間であることは、その重要性によって明らかである。

オセジェフ・ウルフ・セイクウ『アーバンソウルズ』(註7)

 この時、ヒップホップは宗教的な側面を持ち、若者が希望を得るのは、教会ではなくラップを通してである。例えば、エリカ・バドゥのバドゥイズムによって、リスナーたちは生きていく上での指針を得る(註8)。では、RIP SLYMEはヒップホップを通じて何をリスナーへ何を説き、何を与えるのか。すなわち、彼らは何を表現しているのか。

 彼らは、様々なことをその時々に応じてやり過ごすように説き、適当に生きるという規範を与える。RIP SLYME自身もどのように行動したらよいかはわからない。しかし、何かに真面目になるのではなく、適当に過ごすのだ。曲を作り、クラブに行き、時には何もせず、夢や妄想に逃避することでようやく希望を手にする。しかし、「about」のように、適当に生きることによって運と巡り合わせて良いことが起こることを示す。真面目に生きるということがどのようなことかは描かれないが、真面目であれば良いことがあるかのようにも描かれない。適当に生きるからこそRIP SLYMEの面々は日々の閉塞感を乗り越えるのだ。こちらから社会へどのように働きかけるべきなのかは示され得ないが、適当という態度の下に行動することで、幸運が身に起こることは示される。それが偶然だとしても、偶然を享受するのは、この態度こそである。RIP SLYMEは彼ら自身も当時そうであったような、都市に存在する適当な若者の像を表現した。社会の規則に従うのでも従わないのでもなく、アバウトに生きるという規範によって、日々をやり過ごす様子を描いた。もちろん上手くいかないこともあるが、適当さ故に突然良いことが起こるような世界を彼らは表現するのである。このどうすれば良いかわからないからこその適当さが、日々を変えることの可能性を秘めているかのようである。


執筆者:柳田寛登(哲学・表象文化論)


(註1)ランシエール、ジャック『感性的なもののパルタージュ』、梶田裕訳、法政大学出版局、2009年、39ページ。また、ランシエールは同書で近代以後を「美的体制」という用語で表すが、「体制」という語が示す通り、「美的体制」は政治的な意味合いを含む。

(註2) 「リアル」については以下を参照。Cf)岩下朋世「「リアル」になる キャラクターとしてのラッパー」、『ユリイカ 特集・日本語ラップ』第48巻第8号、2016年、118-126ページ。

(註3) 韻踏み夫、『日本語ラップ 名盤100』、イースト・プレス、2022年、45ページ。

(註4)『RIP STYLE』インタビュー参照。また、曲の中にも時折クラブの描写がある。また、当時の社会に適応しているような若者に関する言説として、宮台真司『終わりなき日常を生きろ』が挙げられる。Cf)宮台真司『終わりなき日常を生きろ』ちくま文庫、1998年、143-144ページ。

(註5)「Underline No.5」より。

(註6) PESは「真昼に見た夢」においては、勝ち負けも無く、誰かに邪魔をされないような自由で平等な世界へと逃避する。実際には様々な格差があり、邪魔をされるようなこと、そして、そのような中で不利な立場を被る現実を生きているように思われる歌詞である。しかし、同時にそれがどうにもならないために、夢や妄想という形でしか変化を求められないようである。

(註7)セイクウ、オサジェフォ・ウルフ『アーバンソウルズ』山下壮起訳、新教出版社、2022年、26ページ。

(註8) 同書、83ページ。


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