2010年08月06日(金)
開け放した窓からベランダに出る。見上げる空には、薄く薄く雲が張っている。今日もまた暑くなるのだろうか。そんな気がする。見上げる空が、そう言っているような気がする。街路樹の緑は、少し草臥れたような姿をしている。
私はプランターの脇にしゃがみこみ、絡まり合ったラヴェンダーとデージーの枝葉を解き始める。両方とも元気なのは嬉しいのだが、それにしたってこうも毎日絡まり合わなくたっていいだろうに、と苦笑が漏れる。デージーの黄色が、目に眩しい。
パスカリの、根元からぐいと枝葉を伸ばし出した一本。気づいたらもう、新しく伸びた枝葉が古い枝葉に追いつこうとしている。赤味もずいぶん取れて、萌黄色が美しく映えている。
もう一本のパスカリは、昨日古い枝葉をちょっと切り詰めてみた。下から伸び出した二本の枝葉は、ぐいぐいと大きくなり。横に横に広がっている。その隣、友人から頂いたものを挿し木したそれは、今朝も元気に、新しい葉を広げてくれている。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。下から枝を伸ばし始めている。その枝のきれいな緑色。明るい明るい緑色。まるでそこに小さな灯りが点ったかのように見える。
ミミエデンは、ひとつの蕾を大事に抱え、あちこちからまた新芽を吹き出させている。紅色の新葉は、ぴんと伸びて、全身で太陽の陽光を浴びようとしている。
ベビーロマンティカ。一輪の花を私はそっと切って、テーブルに用意しておいた花瓶に生ける。そしてもう一つ、蕾が。来週中には咲いてくれるだろう。もうだいぶ膨らんできた。
ホワイトクリスマスとマリリン・モンローは、それぞれに新芽を湛え。凛と空に向かって手を伸ばしている。私はその芽をじっと見つめながら、昨日の電話を思い出す。
西の町に住む友人から、久しぶりに電話があった。久しぶりだけれども、久しぶりだからこそ、何かあったんだな、と受話器を握った瞬間に思う。その子は私を、おねえちゃん、と呼ぶ。おねえちゃん、あのね、とおずおずとした声が、受話器越し、響いてくる。
彼女は、まだまだ痛みを抱えている。外に吐き出さず、吐き出してはいけないかのように自分に言い聞かせ、大丈夫なふりを懸命に装っている。でも、時折その、装いが壊れることが、ある。
今年に入って、彼女にはいろいろ変化があった。苗字を旧姓に戻したり、引っ越したり。殆ど引きこもって毎日を過ごしていた彼女には、その変化はどれほど大きいものだったか。想像に難くない。
今自分を支えようとしてくれている人たちが周りにいるのだから、私はちゃんとしていなくちゃいけない、しゃんと立っていなくちゃいけない。彼女はそう思って、必死に立っていた。でも。
それがどうにも、バランスがとれなくなるときだって、ある。
彼女が被害に遭ったとき、彼女はまだ、結婚していた。夫がいた。でもその夫は、彼女を残して自殺した。重ねて、孕んでいた赤子も死産だった。そんな彼女にとって、あの時本当は誰に一番抱きしめてほしかったか。
死んでしまった夫だ。自分を残して死んだ夫にこそ、抱きしめてほしかったに違いない。でも、周囲は、もうそれは過去のことだと彼女に言い聞かせる。過去のことなのだから、前を向いて生きろ、と。
でも。
彼女はまだまだ十分に嘆いていないのだ。悲しいことを悲しいと、辛いことを辛いと、まだまだ吐き出していないのだ。だからこそ、過去にできない。過去にできないまま、必死にそれを押し隠し、笑っている。
過去にしたいと、彼女自身思っている。でも、嘆いていないから嘆く隙間が今ないから、過去にならない。その狭間で、彼女は喘いでいた。
愛しているのに、憎いと思うの。と彼女が言った。
愛の反対語は憎いなの? と私が尋ねる。え? と彼女が応える。愛の反対語は、無関心なんだよ。あ…。愛という風呂敷それ自体に、憎しみというものは織り込まれているもので。愛の対義語は憎しみなんかじゃぁない、無関心なんだよ。
いいんだよ、嘆いて。十分に嘆いて嘆いて嘆いて、そうしてようやっと過去にできるのだから。嘆いていいんだよ。吐き出していいんだよ。聴いてくれる人が今あなたにはちゃんといるでしょう?
私は言いながら、自分と両親とのことを思い出していた。半年前、私は大きく、両親のことを嘆いた。嘆いて嘆いて吐き出して吐き出して、そうして気づいたら、両親との確執を過去にすることができていた。多分、そういうものなんだと思う。
おねえちゃん、私、あの時、彼にこそ抱きしめて欲しかったんだ、抱きしめて、頭撫でて、辛かったねって言って欲しかったんだ。彼女がぼそり、呟く。うん、そうだよね、うんうん。いいんだよ、言えばいいよ、吐き出せばいいよ。ね。
私が、ふと、だからこそ生きて欲しいと思うんだよ、と言ったとき、彼女が、私は死ねないよ、と、自嘲気味に応えた。それは違う、死ねない、のと、生きる、のとは、違うんだよ。
他にもいろいろな話をした。その間、娘はじっと、電話を聴いていないふりでテレビを見ながら、私の用意したそうめんをはぐはぐと食べている。結局娘は、二人分のそうめんをぺろりと平らげ、私に小さく舌を出してみせた。
おねえちゃん、おねえちゃんの日記読んでてさ、お嬢が、ママの傷痕はどれなんだろう、どうしてこうなったんだろう、って考えてるって読んでさ、なんかすごいって思った。ははは。それは私もすごいと思ったよ。おねえちゃん、いろいろあったのに、子育て今してるって、すごいよ。
そう言われて、私は心の中、小さく言った。それはね、みんながこうやって私の周りにいてくれるからなんだよ、と。
そう、電話は、おねえちゃんありがとうね、と彼女の声で切れたけれども、違うんだ、私の方こそ、ありがとう、なんだ。
今きっとあそこで、ここで、向こうで、彼女たちが頑張ってる。足掻いてる。必死で生きてる。その声が、そのエネルギーが、いつだって私を支えていてくれるんだ。今泣いてるかもしれない、今、悲しんでるかもしれない、今のたうちまわってるかもしれない、でも、そんな彼女らは今を必死に乗り越えようと、懸命にもがいてるんだと、そのことが、挫けそうになる私を、支えてくれているんだ。
電話が切れてしばらくして、娘が風呂から上がってきた。娘が言う。電話、もう大丈夫? うん。元気になった? どうだろう、まだまだ大変だろうけれど、踏ん張ってくれるんだと思うよ。ならよかった。
私は、ミルクと戯れる娘の横顔をぼんやり眺めながら、思う。この子がここまで生きてこられたのも、言ってみればみんなのおかげ。みんなの支えなくして、私の子育ては在り得なかった。だからこの子は、みんなの子、なんだ。
蚊取り線香に火をつける。風呂上りの娘が、まだ素っ裸のまま、踊っている。いい加減服着なさい、と私は苦笑する。はぁい、と返事だけして、さらに踊り続けている娘。
いい夜風が、吹いている。
無関心。という言葉を私が使うとき、真っ先に浮かぶのは、弟の顔だ。弟はいつも言っていた。お袋やおやじは、俺には無関心なんだ。俺なんていないも同然なんだ。
弟にとって、この無関心というものが、どれほど残酷なものだったか。それゆえに彼は、或る時から暴れ始めた。自分を見ろ、自分を見てくれと、叫んでいるかのように。
愛される愛されないどころじゃない、無関心、ということの怖さを、彼はきっと、私などよりもずっとずっと知っているに違いない。
ふと思う。
私は娘に対して、無関心な親になっていないだろうか。私から見て、じゃない、彼女から見て、私は無関心な親になっていないだろうか。自分の忙しさにかまけて、彼女の声を素通りしていやしないだろうか。
じゃぁね、それじゃぁね。あ、帰ってくるの、一日遅くなるってばぁばが言ってた。13日になるって。うんうん、知ってる。じゃ、ママ、学校頑張ってね。そっちもね。ちゃんと鍵締めて行くんだよ。うんうん。じゃぁね。手を振って別れる。
そうか、これから約一週間、娘は留守になるんだな。思いながら、階段を駆け下りる。いつもならバスに乗るのだが、今日は自転車で行くことにする。
坂を下り、信号を渡って公園の前へ。強い陽射しが降り注いでおり、こちら側から見ると、樹々の群れは黒い塊にさえ見える。その公園の端、池の縁に立って、空を見上げる。薄く張っていた雲はいつのまにか消えて、今はもう、夏雲としかいいようのないもこもこした雲があちこちに浮かんでいる。澄んだ水色が、その向こうに広がっている。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。夏休みをとっている人もいるのだろう。いつもより人影は疎ら。その間を縫って私は勢いよく走っていく。
今日で学校も終わり。あとはいってみれば自習だ。傾聴のトレーニングも、これまでやってきた学科の復習も、全部自分でまとめていかなければならない。今日という日に合わせて、半年後の自分に向けて手紙を書くことが課された。その封筒が今、鞄に入っている。数年前の私に、半年後なんてものは在り得なかった。半年後生きているかどうか、そもそも分からなかった。でも今は。
私は死ねないのでも、生き延びることをさせられたのでもなく、自ら、生きているのだと、思う。
さぁ一日が始まる。自転車を駐輪場に止め、私は駅へと歩き出す。
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