2010年04月26日(月)
がしがしがしと豪勢な音がしている。これはミルクだな、と思いながら起き上がる。おはようミルク。私は声を掛ける。もちろんミルクは、声を掛けたって何をしたって、がしがしをやめることはないのだが。もう無我夢中になってがしがしやっている。それ以外のことは何も考えられないらしい。扉を開けると、まさにどんっと勢いよく外に飛び出してくる。しばらく足元で遊ばせていたが、このままだといつまでもいつまでも遊んでいるんだろうと思い、彼女を再び籠に戻す。もちろんそれで収まるわけはなく。彼女はひたすらがしがしと扉を噛んでいるのだが。
窓を開ける。気持ちのいい空気がそこに広がっており。私は思い切り深呼吸をひとつ、してみる。正直今朝は、ちょっと起きるのがしんどかった。起きてしまえばどうってことないのだが、起きる瞬間、あぁ、やだな、と思った。昨夕、ばてたのだ。夕飯を娘と食べた後、どうしようもなく横になりたくなった。もうだめだと思いながら、這うようにして布団に横になった。夜仕事をひとつしなければと思いつつも、それまでの短い時間、横になろうと決めた。とてつもなく体がだるかった。横になりながら、ちょっと最近踏ん張りすぎていたかもしれないとも思った。気を張っているところがあった。しっかりしなければと思いすぎているところが、なきにしもあらずだった。そのことを思い出しながら、横になっていた。
見上げる空は明るく。薄い雲をまとっているが、とてもとても明るくて。街路樹の萌黄色がきらきらと輝いている。ステレオからは、Secret GardenのRaise your voicesが流れ始める。私の大好きな曲だ。その歌にあわせて鼻歌を歌いながら、私は街を眺める。この街にはまだ、トタン屋根が幾つか残っている。そのトタン屋根が、陽光を跳ね返し、そこだけ白く輝いている。
裸ん坊のミミエデンをじっと見つめる。いつになったら次の新芽が現れてくれるんだろうと思う。まだか、まだかと思いながら待っている私。今一番会いたいのがこの、ミミエデンの、病葉ではない新芽、だ。
ベビーロマンティカの蕾は丸く丸く太り、ころりんとそこに在る。瑞々しい色を放って、もし絞ったりなどしたら、ぽろんと雫が落ちてきそうなほどで。うっとりしながらそれを眺める。
ホワイトクリスマスの新芽、病葉を一枚、摘む。他にも怪しいものはあるのだけれど、もう少し待ってみることにする。曲が変わった、Gates of Dawnになった。耳でそれを辿りながら、私は今度は目をマリリン・モンローに移す。マリリン・モンローには病葉は全くなく。蕾がぐいぐいと膨らんでいっている。もうはちきれんばかりに膨らんでおり。薄いクリーム色に染まった花弁が見えている。そういえば昨日肥料を施そうと思っていて忘れていた。今日病院から帰ったら早速作業しなければと、頭にメモする。
ぼんぼりのような桃色の花を咲かせる薔薇たちは、先日新芽を出したものの、それが全部病葉で。だから摘んでしまったのだが、それ以来うんともすんとも言わない。力を貯めている最中ならそれでいいのだけれど、ちょっと心配だ。
部屋に戻る。テーブルの上のガーベラを水切りする。それにしてもよくここまでもっているなと思う。もうほぼ一ヶ月だ。花弁の先が丸まってはきているものの、それでも彼女は咲いており。まるで、ベランダで誰かが咲くのを待っているかのようで。それまでは咲いていようと必死なようで。それがちょっと切ない。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。もちろんまだ、撒いた種の芽が出ているわけもなく。それは分かっているのだが、つい覗き込んでしまう。ひとつでも、ほんのちょっとでも気配はないか、と。ばかだなぁと苦笑しつつ、立ち上がり、校庭を見やる。東から伸びてくる陽光をいっぱいに浴びて、校庭の砂は一粒ずつ立ち上がっているかのようで。昨日野球チームの子供たちが走り回ったその足跡が、くっきりと残っている。それは今日また新たな足跡で掻き消えてしまうものなのだけれども。
洗面台にゆき、顔を洗う。ばしゃばしゃと水で洗うと、本当に気持ちがいい。さっぱりしたなと鏡を覗くと、すっかり起き上がった自分の顔がそこに在った。
意識を自分の体の内側へと潜らせる。
「サミシイ」が、歩いていた。ゆっくりと、ふわりふわりと、砂地を歩いている。私は声を掛けるのも忘れ、しばしその姿に見惚れる。あぁ歩けたのか、と、改めて思う。
左手にはオカリナを握って、彼女は何処かを見やっている。何処を見ているのだろう。それは、砂地の向こうの向こう、その果ての方だった。何があるのかまだ分からない。でももしそこに海が在ったら。「サミシイ」は、そう思っているかのようだった。
私も、もしこの砂地の先に海があったらいいなぁと思う。そうしたら、「サミシイ」と一緒に海に散歩に行くこともできる。もしかしたら海で遊ぶこともできるかもしれない。そんなことを、あれこれ夢想する。
ふと昨日読んだ本のことを思い出す。そこにはこんなことが書いてあった。「アートセラピーでは、言葉にならない自分の気持ちを表現することを大切にする。このことは、言語化できないということは感情や意見をもっていないわけではない、という考え方が背景にある。そして、これは必ずしも今の自分が意識し認めることのできる感情や意見とは限らない。それではその感情や意見とはいったい“誰の”感情や意見なのであろうか。
そもそもそれらの感情や意見が最初から自覚されているわけではない。多くの場合はセラピーのプロセスの中で気づき、発見していくものである。そのとき人々は、今までの自分にとっては未知のものとして体験される感情に出遭う。そしてそれが幼少期にかつてもっていた感情で、何らかの理由で心の永久凍土の中にフリーズ状態にしておいたものであるということに気づく。つまりその感情やそれを通しての言い分とは、自分自身の中の生きられなかった部分の叫び声なのである。
「誰がアートセラピーを求めているのか」の本当の答は、「われわれ自身の中の生きられなかった部分こそが、アートセラピーを求めているのだ」ということができよう」。
その本の内容を思い出しながら、私は今、「サミシイ」を眺めている。「サミシイ」を含むこうした私の中の、体験過程を含むイメージは、私が生きられなかった部分、なのではないかと思う。生きたくて、でも生きられなかった、そうした部分が、今、立ち現れているのだ、と。
だからこそ、大切にしなければならないと思うのだ。彼女たちとの出会いを、時間を、大切にしなければ、と。今生き直しの作業をしなくて、いつするのだ、と思う。今気づいたのだから、今為すべきであり。今をなくして他はない、とも思う。
私は、「サミシイ」に、あの曲を吹いてちょうだいと、頼んでみた。もし覚えているなら、あの曲を吹いてほしい、と。
すると、「サミシイ」はすらすらと、まさにすぅっと、吹いてくれた。その音は何処までも何処までも広がってゆく、切なくて寂しくて、でも、生きている音だった。
あの曲というのは、私がいつだったか、即興でピアノで弾いた曲だ。その旋律が、私はとても好きで、辛くなるとそれを弾いては、自分を慰めていた。あの曲を弾かなくなって、もうどのくらい経つのだろう。覚えていない。ピアノを離れてもう何年。
「サミシイ」の奏でてくれる旋律を聴きながら、ふと思い出す。父は、よく私のピアノの部屋にやってきては、座っていた。本当にたまにだったが、リクエストをすることがあった。私は年頃になってから、そういう父がいやで、無言の拒絶もしたが。
でも。今思えば。父は、私のピアノを聴くのが、キライじゃぁなかったんだろうと思う。むしろ、好きだったのかもしれない。もしかしたらそれは、誇りや何か、そういった外面的なものと繋がっていたのかもしれないが、そんなことはこの際どうだっていい、父は少なくとも、私のピアノを聴きたいと思っていた。
もったいないことをしたなぁと、今思う。そうした場面で、私は父との交流を避けてきた。もしあのとき、父ともっと交流を持つことができていたなら。何か違ったんだろうか。もしかしたら何かひとつでも、違ったんだろうか。
「サミシイ」と居ると、そうした、埋もれていたことをよく思い出す。
きっとそれは、蓋が取れたからなんだろうと思った。いろいろな、辛い記憶、反吐がでるような記憶に上塗りされて、埋もれていたものたち。その、辛い記憶たちが、今、取れたからなんだろうな、と。だから見えてくるのだろうな、と。
もし単に辛い記憶だけしか私になかったなら。「サミシイ」は「サミシイ」じゃぁなかったんだろう。もっとひねくれた、もっと捩れた存在になっていたに違いない。こんなふうにオカリナを吹いたりする子供じゃぁ、なかったんだろう。
決して、幸せな子供時代だった、なんて言葉は、言うことはできない。でも。
いいこともあったよね、と、言いたい。
これからさらに、いいことを重ねていけばいいんだ、とそう思う。
ママ、お笑い芸人ってすごいよね。何がすごいの? だってさ、人を笑わせることができるんだよ。それってすごいと思わない? あぁなるほどぉ、そうかぁ。私やっぱり、薬剤師やめて、お笑い芸人になろうかな。ははは、それもいいんじゃないの。ママは薬剤師とかなってほしくないの? え、なんで? じじばばが言ってた。ちゃんと収入を得られる仕事に就きなさいって。ははは、まぁ確かに、生きていくには金が必要だが。まぁ、いいんじゃないの、自分がこれ、と思うことに突き進んでいけば。ママって結構無責任だよね。へ? そう? じじばばとは違う。違うに決まってるじゃん、じじばばはじじばば、ママはママ、違うよ。ふーん。自分が信じたように、生きていくのが一番だと、ママは思うけど。失敗しても? うん、失敗しても、またそこから立ち上がれば、それでいいんじゃないの? ふーん。失敗するのはいけないことじゃないの? なんでいけないの? なんでって…。いいじゃん、失敗しても。失敗しない人なんていないよ。ふーん。失敗から学んでいけば、それでいいんじゃないの? ふーん。つまり、あなたの人生はあなたのものなんだから、あなたが信じたように生きていくのが一番だ、ってことだよ。うーん、そうなんだ…。薬剤師、ならなくてもいいの? ママは別にいいよ、ならなくたって。自分がなりたいならそうすればいいけど、なりたくないのに無理になる必要なんて何処にもないからね。じゃ、私がお笑い芸人になってもいいの? 自分がなりたいならそうすればいいんじゃない? ふーん。ママも、そうしたの? ま、ママは、失敗ばっかりだけどね! なんだー! だめじゃん! うん、だめだね。笑
じゃ、ね。はい、行ってらっしゃい。行ってきまーす。
手を振って別れ、私は階段を駆け下りる。ちょうどやって来たバスに飛び乗り、駅へ。電車は相変わらず込み合っており。ぎゅうぎゅう詰めの女性車両、窓際に必死に立つ。
川を渡る電車。車窓からそれを見やる。燦々と降り注ぐ陽光に、水面は白く輝いており。朗々と流れる川は、何処までも続き。
この果てに海が在るのだなと思う。海と川とが繋がる場所に、今日は海鳥は集っているのだろうか。
さぁ今日もまた一日が始まる。
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