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2010年08月04日(水)

いい風が吹いている。夜。しばらく窓際に立って外を見やる。今日一日あったことを、順繰りに心の中眺める。まだ心がざわざわしている。思ってもみない進展に、私の方が慌てている。そんな気がする。でもそれは決していやなざわざわではなくて。嬉しくて、でもどうしていいのかまだまだ分からないといったような、そんなざわざわ。
M出版社の人と会う。顔を見てすぐ、あぁこの方はとてもまっすぐな、そして人をよく見ている人なのだなという印象を受ける。その印象に、私はほっと安心した。
開口一番、その方が、いい写真を撮るね、とおっしゃってくださる。その言葉に、私は正直、驚いていた。自分の写真を、いい写真、と言ってくれる人がいるなんて、私は思ってもみなかったからだ。しかも、その方が見たのは、私の「あの場所から」のシリーズの写真であり。そこには手記も載せていた。その手記も、その方はきちんとプリントアウトして読んでくださっていた。
どういう形にするか、という、とても具体的な話が、いきなり始まる。私は心の中、慌てた。私はただ、その方にお会いし、まずこの企画のことをお話しなければと思っていたからだ。でも、その方は、私がわざわざ話さずとも、私の、そして私たちの意図を、とてもよく理解してくださっていて、その上で、どういう形にするのがベストか、という話をしてくださっていた。
何処へ向けて出版するか。私が想定していたのは、まず被害者である人たちへ、ということ。と同時に、でき得るならば、当たり前に日常を生きている人たちへ、届けたいということ。その二つだった。でもNさんはさらに別のことも考えていらっしゃった。私の写真と写真論という形で出版することもできる、と。私は心の中、小さく慄く。そこまで評価されるほど、私はエラくも何ともない、と。
どの方向で、何処に的を絞るかによって、本の構成も何もかもが変わってくる。それは、かつて編集者だった自分にもよく分かる。だからこそまずそこを押さえなければ、話は何も進まない。
話しながら、私の脳裏には、今まで関わってきた被害者たちの顔が、走馬灯のように流れていった。みんなの思いを、あの切実なまなざしを、無駄にしない形は何だろう。私はただ、そのことを考えた。
お互い考えて、一番ベストの方向性を見出していこう、という話で、その日は終わった。帰り際、Nさんが二冊の本をくださった。「おかあさんのばか」という細江英公先生の写真集と、「リストカット」という岡田敦さんの著書だった。
バスに揺られ、電車に揺られ、ごとごとごとごと、帰り道、私はついさっきの高揚に、まだ浸っていた。こんなことがあり得るんだろうか、と、そのことがまず大きかった。私はただ、私のためだけに始めたといっていい。写真にしろあの企画にしろ。それが、海を渡ってとある女性の目に留まり、その方を通じてこんなところまで反射し。そんなこと、思ってもみなかった。想像もしていなかった。私は地道に、どこまでも地道に活動していくことを、ただ考えていただけだった。それが、こんなふうに波紋が生まれて広がっていくなんて。誰が想像しただろう。私たちの誰が、そんなことを想像し得ただろう。
そしてもうひとつ。
この私が、また出版という業界と、関わるかもしれない状況になり得るとは。
確かに私は、こだわっていた。ずっとこだわっていた。もう一度就職するならやっぱり出版社がいい、編集の仕事がしたい、と、ずっとずっとこだわって、何度もトライした。でもそのたび、PTSDの症状に苦しみ、挫折した。そして最後、当時の主治医から、被害に関係のある場所で働くことは、もう無理だと思った方がいいわ、と言われた。
あの言葉を受け取ってから、私は、もはや私があの業界と関わることはないのだ、と、思っていた。したくてしたくて、ずっとその仕事がやりたくてあの業界に入った私。でもそこで上司から強姦された。そしてPTSDを発症した。それがどんなにしたい仕事でも、すればするで、あの出来事が彷彿とされてしまって、手が唇が全身が震え、倒れてしまう。そんな社員じゃ、雇っても意味がない。私はもう、役立たずのレッテルを貼られてしまったのだ、と。私は、役立たずなのだと。そう思った。
それが。
別の形であれ、本作りに再び関わるかもしれない状況になるとは。
言葉ではもう、言い表しようのない思いが、私の心の中、渦を巻いて飛び交っていた。でもその向こうに、今日お会いしたNさんの、まっすぐな目が在った。
私はもう一度、信じてみていいのかもしれない。もう一度、賭けてみていいのかもしれない。また転ぶかもしれない、躓くかもしれないけれど、でも、それでも賭けてみて、いいのかもしれない。あの目に、応えられるなら、精一杯応えたい。
そして、同時に、被害者たちの、私が関わった被害者たちの、真っ直ぐな目が、そこに在った。彼女らの思いを私は、何処まで背負っていけるか。何処まで応えてゆけるか。賭けてみても、いいのかもしれない。
夜は何処までも深く、私を包んでいた。寝床では、娘がくうくうと心地よさそうな寝息を立てている。私も横になろう。

起き上がると午前四時。もう空はすっかり白み始めている。私はベランダに出て髪を梳く。後ろ一つに結わき、少し考えて、くるくる髪の毛を丸めてピンで留める。
しゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。今朝もやっぱり絡まり合っているラヴェンダーとデージー。花盛りのデージーを傷つけないよう、そっとそっと解いてゆく。時折ラヴェンダーのいい香りがふわり、漂ってくる。
パスカリの、新芽を根元から出している一本。新芽がもう殆ど赤味を失い緑色になってきた。約十五センチ。ずいぶん伸びたなぁと思う。これからその先端にくっついている葉が、順番に開いてゆくだろう。病葉じゃないことを、今はただ祈る。
花を咲かせたパスカリは、ちょっと一呼吸置いている感じ。こちらも根元から二本、枝葉が伸びてきたが、どちらも横に伸びており。これからどういう形に樹が茂っていくのだろう、と私はちょっと首を傾げる。
友人から頂いた薔薇の枝を挿したうちの、生き残った二本は、今朝も元気に新芽を湛えている。くいっくいっと伸びてきて、なんだかそれが嬉しそうに見える。見ている私も、なんだか嬉しくなる。
ベビーロマンティカは、四つの花のうち、三つがぽっと開いた。三つだけ切り花にする。まぁるいまぁるい花。花の形だけ見ていると、バラというより紫陽花の小型版のようで。ちょっと笑える。そしてベビーロマンティカは、さらに新芽を芽吹かせて、あちこちから手を伸ばそうとしている。
ホワイトクリスマスから新芽一本、マリリン・モンローからは新芽三本が、それぞれ天を向いてきりり、立っている。どうしてこの樹の新芽はいつも、凛々しいのだろう。それはこちらも背筋を伸ばしたくなるほど。
ミミエデンは、しばし沈黙の時期に入るかと思いきや、いきなり花芽をつけた。今ひとつの蕾が、小さく小さくちょこねんと在る。嬉しい、とっても嬉しい。前回の花芽はカーテンに絡み取られて折れてしまったから、今度こそはちゃんと咲いてほしいと祈るように思う。
今朝もアメリカンブルーが一輪の花を咲かせている。青い青い花。見上げた空には、もくもくとした入道雲のような雲が広がっており。水色の部分はずいぶん小さいけれど。その僅かに見える水色と共鳴するかのように、小さく風に震えながら咲いている。
部屋に戻り、お湯を沸かす。濃い目の生姜茶を作り、氷を三つ、入れてみる。私はやっぱり、きんきんに冷えた飲み物より、あたたかいかぬるめの飲み物の方が体に合うらしい。そっちの方が、ずっと味が分かる気がする。
机に座り、煙草に火をつける。メールをチェックすると、嬉しい連絡が届いていることに気づく。私が一番最初に関わった、性犯罪被害者のCからだった。写真にどういうコメントをつけてもいいし、どういう形で発表しても構わないよ、と。私は思わず、手を握っていた。祈るように手を合わせ、ありがとう、と心の中で呟いた。

あのさ。何? この本、昨日貰ってきたんだけどね、感想書いてほしいのよ。えぇ? いい? どんな本? 写真と詩が交互に書いてある本。うん、いいよ。ありがとう。でもどうして私なの? そりゃ、あなたにって貰った本だからだよ。ふぅん。正直に書いていいの? もちろん。正直に書かないで、どうするの? いや、ほら、学校とかだと、こう書きなさいってあるじゃん。あぁ、そういうの、ない。自分が思ったとおりに書けばいい。いいよ、じゃぁ書く。
思うんだけどさぁ、感想文って、自由に書いていいものだと思うよ。でもさぁ、学校では言われるんだよ、これはこう書きなさいとか、こっちにこれを書きなさいって。あぁ、そういうことかぁ。だからいっつも、書きづらくなる。まぁ学校のことは置いといて、ママが頼むときは、あなたが思ったとおりに書けばいいんだよ。それが、人の心に届く言葉になるんだから。ふぅーん。あなたの正直な言葉じゃなきゃ、相手に本当の意味では届かないよ。ふぅーーーん。そういうものなの? うん、そういうもんさ。

娘と相談して、貯金箱をひっくり返し、映画を見に行くことにする。今日は水曜日だから、いつもより映画館が混むはず。ということで、二人とも早々に家を出る。
自転車に跨り、坂道を下り、公園の前へ。蝉、すごいねぇ。娘が言う。ふたりで池の端に立って空を見上げると、ぽっかりあいた茂みの窪みから、入道雲のような雲がぐいぐい流れてゆくのが見える。その間もひっきりなしに、蝉は啼き続けている。私たちは全身、蝉色に染まっていくような錯覚を覚える。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏並木の影で信号を待つ。青になった途端、競争だよ、と娘が飛び出す。それに続いて私も飛び出す。でも、悲しいかな、どうやっても今のところ私の方が早くて。娘は悔しげに唄を歌い出す。
プラタナスの並木通りを通り、ちょっと大回りして、映画館の方へ。ママ、アゲハチョウだ! 娘が指差す方を見れば、大きな大きな黒アゲハがひらひら飛んでいた。
さぁ、今日も一日が始まる。私たちは、信号を渡り、勢いよく走り出す。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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