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2010年05月29日(土)

薄暗い部屋の中目を覚ます。窓を開けると、空には一面鼠色の雲。それも濃淡の強い色合いで、うねうねと続いている。風はそんなに強くはないのだが、空気が冷たい。こんなに冷たいと感じられるのはどのくらいぶりだろう。半袖でいることがちょっとしんどい。椅子にかけてあったパーカーを羽織り、改めて空を見上げる。いつ雨が降ってきてもおかしくはない、そんな雰囲気。この雲が今日途切れることはないんだろうなと思う。
街路樹の緑はそんな空の色を反映させてこごもっている。ひっくり返ったままの若葉が見える。人でいうところの、うつ伏せといった感じだろうか。ふと、その葉の様子に、ミルクがひっくり返って手足をばたばたさせている時の姿が重なる。笑ってはいけないのだけれども、彼女のたぽっとしたおなかがぽてぽてと動き、小さな手足がばたばたする姿、あの姿はなんというかこう、愛嬌があって、こちらを笑わせずにはいない。
しゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。六本の枝。葉が萎れているものが三つも。昨日ちゃんと水をやったのだが、それでも駄目らしい。私は大きく溜息をつく。別に、母の庭のフレンチラヴェンダーの大群のような、そんな様を求めているわけではなく。さやさやと風に揺れるくらいの草でいい、育ってくれたらと思うのに、なかなかうまくいかない。母に電話をして、たった一匹の幼虫にしてやられた話をすると、デージーなどいくらでも増えてゆくのだから、デージーよりラヴェンダーを優先させるべきだったのよ、と言われた。そういう判断が、私にはまだできない。そういえば、昨日の授業でもそんな話題が出たような気がする。負担に思う相手ができても、それを負担だと言えないことが多々ある、でも自分には一番に守りたいものは何かが分かっていて、分かっているのに、躊躇うところがある、というような。そういう話題が出たときに、過去に囚われるか今を優先するか、それが大きな鍵になる、というような話が出た。判断というのはたいてい、過去の出来事に反映して為されるものだという。でも、大切なのは、今であって、過去ではない、過去にいくら失敗していようとそれはそれ。自分の「今」の判断をこそ信じるべきであって、そうして判断したのなら、後悔すべきではない、と。私はその、後悔が、割り切れないのだな、と思う。後悔してしまうのだ、そこで。ついつい。そうして後ろ髪を引かれることになる。でもそうだと、いつまでも躊躇して、次に新たに進めないことになる。私は私の「今」この時の判断を、信じるべきなんだ。そう思った。それにしても、どんな小さなことでも、判断というのは大切なのだな、とつくづく思う。もしあの時、デージーよりも私がラヴェンダーを優先する判断を下していたら、今頃こうはなっていなかったのかもしれない。もう少し、もう少し、と躊躇っていたから、今私はそのことを後悔している。こういう後悔は、もう、できるだけしたくない、と思う。
ラヴェンダーの傍ら、デージーはみな元気だ。憎たらしくなるくらいに元気いっぱいだ。だから余計に、ラヴェンダーの萎れ具合が気にかかる。
ミミエデンの新芽は順調で。これならしばらくは大丈夫なんじゃないかと思えるほど。ちょっと尖った葉の形をしている。まだまだ小さな葉だが、病に冒されてもいない。
ホワイトクリスマスの、白緑色の新芽。一日で倍くらいに伸びてきた。ぐいぐいという音が聴こえてきそうなほどだ。まだ閉じてはいるが、粉が噴いている様子もない。それはマリリン・モンローの新芽も同じで。紅く染まった新芽があちこちから芽吹いている。一番根元のところから出てきた新芽は、もう五センチほどに伸びただろうか。天に向かって、ただひたすら、手を伸ばすその姿。まるで子供のようだと思う。
ベビーロマンティカからも、新芽が出てきた。萌黄色のその新芽は、明るく、この鼠色の空の下でも輝いている。艶々とした葉。
パスカリたちも、紅い縁取りのある新芽を伸ばしている。その隣、桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹の蕾は、ようやっと開いた。いや、まだ、芯の方は固く閉じているが、そろそろ切ってやってもいい頃合かもしれない。今日帰ってきたら切り花にしてやろう。といっても、こんなに小さな花。どこに挿して飾ろうか。
ふと水槽を見やると、金魚たちが私の方へ私の方へと懸命に尾鰭を揺らしている。餌は十分にやっている筈なのに、と思いながら、私はちょんちょんと水槽を指で叩く。その音に反応してなのか、彼らは一層強く尾鰭を揺らし、口をぱくぱくさせている。私は蓋を開け、ちょっと少なめに餌を撒く。
部屋に入ろうとして、ふと耳を澄ます。がしがしがし。音が響いている。ミルクの音だな、と思い籠を見やると、やはりミルクが籠の入り口を齧っているところで。小屋がひっくり返っているのが見える。私がそっとそれを直してやっている間に、彼女は籠から飛び出してきた。あちゃ、私はミルクが怖いんだよな、と思いながら、彼女を抱き上げる。ひっきりなしに動き続けるミルクの様子に、私はちょっと焦る。どうしよう、噛まれるんじゃないか、と心が思っていることが強く感じられる。きっとそんなふうに思えば思うほど、ミルクにそれが伝わってしまうから、やめなければと思うのだけれども、止まらない。怖いものは怖いのだ。
ふと、思い出す。娘が生まれたての頃。私は娘が怖くて怖くて仕方がなかった。いや、娘がというよりも、生まれたての命の塊が、怖くて怖くて仕方がなかったのだ。もしちょっと力の入れ具合を間違えたら折れてしまうんじゃないか、とか、私は穢れているから触ってしまったらこの子にそれが伝染してしまうんじゃないか、とか。とにかく何から何まで怖かった。手を握ることさえ、おずおずとしかできなかった。
だから逆に、彼女が泣いてくれると、ちょっと嬉しかった。泣いている子をあやすのは、親の仕事。私の仕事。だから抱き上げるときは怖いけれども、それでも、遠慮なく抱いてあやすことができた。よしよしよし。そう言いながら、抱っこする。それはとても幸せな瞬間だった。
彼女が眠っているとき、私は不安で不安で仕方なかった。いつ息が止まってしまうだろう、と、しょっちゅう口や鼻に手を当てて、確かめてばかりいた。あまりにそればかり繰り返しているうちに、彼女の枕元から離れることができなくなって、トイレに行くことさえ怖くなってしまった時期もあった。でも、そうやってそばで見守っているばかりで、私はなかなか手を伸ばせなかった。
自分が穢れている。あの頃、私はその思いにまだ、強く囚われていた。被害に遭い、腕もぼろぼろで。これが穢れている以外の何なんだろう、と思っていた。こんな穢れた親の元に生まれたこの子は、なんて不幸なのだろう、と、そう思っていた。だからかわいそうでかわいそうで、申し訳なくて、触れることさえ憚られた。
今なら言うだろう、それがどうした、と。被害に遭ったからって何が穢れるんだ? 腕がぼろぼろだからって何が汚いんだ? そのくらい、どうした、どうってことないじゃないか、と。苦笑しながらも、そう言えるかもしれない。でも、あの頃は、そんなこと、とてもじゃないが言えなかった。思いつくことさえ、なかった。
今ふと気づいた。そういえば、あの頃あんなによく泣いた子が、今では全然泣かない子になった。どうしてなんだろう。あの子は我慢しているんだろうか、今。我慢して、泣かないんだろうか。最近あの子が泣いたのはいつだったろう。そう、DVDを見ていた時、あの子がうわーんと声を上げて泣いた。そういうことはあった。でも、それだけだ。
思い出す。「泣くのはずるい」と彼女は言っていたっけ。いつの間にか、そんなことを考える年頃になっていたのか、と。改めて、彼女の成長に驚かされる。
昨日突然、久しぶりに、彼女は私の布団に潜り込んできた。そうして私の体の上に足を乗せ、寝始めたんだった。私は「重いよぉ」と何度も文句を言ったのだが、お構いなしに彼女はそのまま寝てしまった。
最近思うのは。私がどんな姿をしていようと。どんな状態であろうと。彼女は私を求めているのだな、ということだ。私が穢れていようと何だろうと、そんなことどうってことないのだ。彼女にとっては。彼女はただ、母親である私をひたすらに真っ直ぐに求めている。ただそれだけだ。そこに理屈なんてものは、存在しない。
私がかつて、父母の背中に追いすがったように。娘は娘で私を求めている。私はそれに気づいておかなければと思う。何をすればいいかなんてことは全く分からないけれども。ただせめて、そういう彼女が在ることに、私は常に気づいていたいと、そう、思う。
そして、私は改めて、心に刻み込む。私が今一番大事にしたいものは。一番大切にしたいものは何か。それは、娘である、というそのことを。

お湯を沸かし、お茶を入れる。今朝は久しぶりに、レモン&ジンジャーのハーブティーにすることにした。香りが分かれば、このお茶はもっとおいしいんだろうに、と思う。まだ私にはうまく香りが認識できない。
半分開け放した窓からは、冷気がゆるゆると忍び込んでくる。さっきより、雲の色が濃くなった気がするのは気のせいだろうか。

ママ、このテレビの本持ってるんでしょ? 原作? 持ってるよ。私、それ読んでみたい。どれどれ、ほら、これだよ。今カバーつけてあげる。えーっ、こんなに小さい字でこんなにいっぱいページがあるの?! あるよ。だってテレビではたった一時間だったよ。テレビでは短縮してるんだよ、いろんなところを。要素要素を取り上げて、そうして一時間の番組に組み上げてるの。こんなに読まなくちゃだめなの? そうだねぇ、全部読まないと面白くないと思うよ。そもそも、これ、今のところ、シリーズで四冊出てるし。ええーっ、他にもまだあるの?! あるよ。げげっ。まだやめとく? と、とりあえず、読んでみる。読めない漢字とかは、聴いてくれれば教えてあげるよ。うーん、それは面倒臭い。はい? だって分からないと困るじゃん。何となくイメージで読んでけばいいじゃん。ま、それはそれでいいけども。本読んでる最中に、辞書調べたりするのって私、嫌なんだよね。いや、あなたの場合、普段だって辞書あんまり使わないじゃん。はははー。ばれてるかー。うん、ばれてる。ねぇママ、ママが居ない時、ママの本、いじってもいい? 後でちゃんと片付けておいてくれるならね。うん、片付けるから。とりあえず、その本、読めたら、その時また考えよう。うーん、これ、とてつもなく厚いよ、読み終わるのいつ? いつだろう? ママはどのくらいでこれ読むの? 一日あれば読む。ええーっ、ママ、異常だよ。わはははは。異常って…。ママの本まで読んだら、私、絶対クラスで一番になるなぁ。でも、読めるのかなぁ、絵のない本。まぁ、読んでご覧? これはテレビで今見たんだし、だいたい分かるでしょ。うーん、まぁやってみるよ。

ゴミを出し、二人して手を繋いで大通りを渡りバス停へ。
私の本はやっぱり、絵があるんだよねぇ、と言いながら、図書館から借りてきた単行本をぱらぱらめくっている娘。私はそんな娘を見やりながら、バスが来るのを待っている。
ママぁ、私さぁ、土曜日日曜日って、ずっと寝ていたいって最近思うよ。ははははは、それはいいかもねぇ、でも、ママは一度もそれ、成功したことないよ。必ず数時間で起きちゃうし。目が覚めると、もう横になってるのが面倒になるし。ママってかわいそー、寝っ転がってるの、私、大好きだよ。羨ましいこと言うねぇ。まぁ、できるときが来たら、そうすればいいよ。いつ? いつだろう? あーあ、まだまだずっと先かぁ! うーん。
今ママ何読んでるの? ん? 何これ、何て読むの? 虐待って読むんだよ、虐待サバイバーとアディクションって本。何が書いてあるの? いろんな虐待を受けて生き延びてきた人たちに対する治療と回復、みたいなことかな。…分かんないよ。ほら、母親に苛められたり、父親に苛められたり、そういうのってあるでしょ? そういうので病気になっちゃった人たちが、治療を受けて、元気になっていく、そこまでの過程が、いろいろ書いてあるの。なんでそんな本読むの? そりゃ、興味があるからだよ。なんでそんなのに興味があるの? うーん、それは、ママにとって近しい話題だからかもしれないねぇ。ふーん。
ママ、メール頂戴ね! そうして手を振って娘は右へ、私は左へ。別れてゆく。
ホームから見上げると、空にちょうど二羽の鳥の姿。大きく旋回し、港の方へと飛んでゆく。娘に、いってらっしゃい、がんばってね、とメールを打ったところで、電車がやって来る。
電車に揺られていると、娘から返信。「うん。じじに昨日ママが焼いたパン、ちゃんと渡すからね!」。何となく口元が緩む。
さぁ今日も一日が始まる。しっかり歩いていかなければ。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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