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2010年05月06日(木)

薄い雲のかかった明るい空が広がっている。本当にそれは薄くて、ヴェールのような雲。そして空全体を覆っている。
街路樹の若葉がそよ風にさやさやと揺れている。だいぶ大きくなった葉。ちょっと見ただけでも、それらが一つとして同じものはないことが分かる。一つ一つ、唯一の葉。
まだ人の姿も車の姿もない通りを見やりながら、私は大きく伸びをする。今朝もずいぶんとあたたかい。目の中で唯一動く気配を感じ、見ると、通りの向こう側、街路樹の足元で、犬が幹に背を擦り付けている。何処から来たんだろう。迷い犬だろうか。ちゃんと飼い主がいるのであればよいのだけれども。
昨日水を遣ったというのに、プランターの土の表面はもう乾いている。どれもこれも乾いている。私はしゃがみこみ、ミミエデンを見やる。
枯れてはいない。大丈夫、まだ枯れてはいない。古い樹と挿し木したものとをそれぞれ比べながら思う。枯れていなければ、まだ見込みはある。そう信じて、私は待つ。
パスカリたちはそれぞれ小さくまとまって、そこに在る。濃くて暗い緑色をした葉。若葉でもこうした暗い色をしているパスカリ。その狭間で、桃色の花を咲かせる樹が、小さく小さく茂っている。出てきた花芽の、すっかり粉を噴いている様を見やる。今朝もまた、どうしよう、と私は思う。切るに切れない。そんな感じ。せっかく出てきた花芽なのに、これまでもを摘んでしまうのはあまりに忍びなくて。
ベビーロマンティカの蕾は明るい煉瓦色をした部分と、一部、明るい濃い黄色をした部分とが現れてきた。その二色が入り混じっている、といった感じ。とうとう、母の日には間に合わなかったか。仕方がない。咲いたらそのときに改めて花を贈ればいい。
マリリン・モンローの蕾も、これでもかこれでもかというほど膨らんではいるのだが、これもまた、母の日には間に合わないだろう。マリリン・モンローは、挿し木もしている。それはいずれ母にプレゼントしようと思っている代物。今のところ無事に育っている。茂みになったら、母に渡そうと思っているのだが、そこまでいくにはまだまだ時間がかかりそうだ。
ホワイトクリスマスは新芽の気配を湛えているものの、今はじっとそこに在る。濃緑色の葉は、大きくて、はっきりとしている。その葉を、陽光に向けてぴっと開いている。私はその葉をそっと撫でてみる。ぴんと張った葉。私の指の腹を弾くように。
玄関に回り、ラヴェンダーを見やる。この連休中、ずっと晴れていたおかげなのか、もう全身新芽だらけのラヴェンダーたち。細い体がその重みに耐えられるのか、心配になるほど。それでも懸命に天を向こうと体を支えているのだから、そのエネルギーというのはいかほどのものなのかとつくづく思う。
昨日誰も訪れる者のなかった校庭は、からんとしており。乾いた砂が広がっている。どこからかやってきたのだろう鳥が、校庭のジャングルジムの辺りに集っている。何をしているのだろう。ここからでは、その詳細は分からない。が、なんだか楽しそうに、ジャングルジムの上、行ったり来たりしている。
プールはしんしんとそこに在り。そういえば来月にはプール開きか。時の流れはなんて速いのだろう。今年ももう半年が経つということか。その速さに私は改めて驚く。中学生の頃、私は水泳部だった。だからプールの掃除も担当だった。気持ち悪いといえば悪いのだけれども、誰よりも早く、一番にプールに入れることは、私の楽しみの一つだった。なんだかプールを占領できるみたいで、それが嬉しかったことを思い出す。
部屋に戻ると、ステレオからはSecret GardenのDawn of a new centuryが流れている。雄々しいその音色を聴きながら、私は顔を洗い始める。
鏡の中の顔は、もうすっかり起きており。さっきまでうっすら汗ばんでいた顔も、水でばしゃばしゃあらってもうさっぱりしていた。その顔を眺めながらふと、昨日届いた手紙のことを思い出す。それは父親から性的な虐待を受け続けた女性からの手紙だった。それがどれほど、彼女の生き方に影響を与えたのか、それが痛いほど伝わってきた。いつも思う。自分のことも含めて、こうした体験から得てしまったもの、失ってしまったものを取り戻すことは、本当にできないんだろうか、と。私はどうなんだろう。あの時失ってしまったもの、背負わなければならなくなったものたちと、どうつきあってきただろう。無我夢中すぎて、どう言葉に表していいのか、分からない。それが正直なところだ。ただ、うまく言えないが、そういったものたちとつきあっていくことは、少なくともできる気がする、私は今そう思っている。ただそれには、とてつもない時間と労力とが必要になるけれども。本当に本当に、これでもかというほどの長い時間とエネルギーとが、必要になるけれども。
目を閉じ、体の内奥に耳を傾ける。
体の中で、何かがざわざわと動いている。私にはすぐそれが何かが分かった。これはついさっき思い出していた、手紙と繋がるものだな、と。
ざわざわ、ざわざわ、音が続く。気配がする。私はその傍らに座り込み、耳を澄ます。
ざわざわは、とある場面を映し出す。それは、加害者が私に謝罪した時の場面だ。彼が頭を下げる。下げて、詫びを延々と述べる。それを私は聴いている。あの場面だ。
それまで私は、加害者に詫びてもらえたなら、何かが少しでも何かが変わるんじゃないかと思っていた。変わってほしいと思っていた。変わるに違いない、とも思っていた。でも。
違った。何も変わらなかった。謝罪されても何も、変わることはなかった。私の中の傷は傷であり、もう起きてしまったことを変えることは、もはや誰にも何にもできないのだった。そのことを、知った。
あぁもうだめだ、と思ったのは、改めて思ったのは、あの時だったような気がする。諦め半分と、同時に、どうしようもなさを私は抱え込んだ。こんなことなら謝罪なんてしてもらうんじゃなかったと、思った。謝罪させた分、加害者は楽になっただろう、でも私は。私は楽になんてちっともならない。その現実が、ありありとそこに在った。
あぁもう逃げ場はない。そのことを、思った。もう私は何処にも行けない。何処にも行きようがない。そのことを、痛感した。
加害者に時効はあっても、被害者に時効はないのだという、当たり前の事実を、私は改めて、思った。一度起きてしまったことを変えられる人など、物など、何処にもないのだという当たり前の事実を、私は改めて知った。それがあの時だった。
今振り返れば、あれを契機に、私はさらに泥沼にはまっていった。これでもかこれでもかと腕を切りつけ、自分を傷つけ、血まみれになり、それでも気がすまなくて、自分をすり減らすことばかりを繰り返した。そうして多くのものをさらにさらに失った。
今その頃の私を知る友人が時折思い出したように言う。あの頃、あなたの腕の新しい傷を見るたび、娘さん、心配してたよね、と。私はそれを聴きながら小さく笑う。いや、笑うしかないのだ、だって私はほとんどそのことを覚えていないのだから。
そうやって私は私の手で多くの人を傷つけた。多くの人の心を傷つけた。そうやって私は生き延びてきた。その事実を、改めて、思う。
ふと、ざわざわが動く気配がした。私はそちらを見やる。
ざわざわは、そういったこと一切合財を、ちゃんと背負っていけよ、と言っているかのようだった。同時に、それは重たくて重たくて重たくて、逃げ出したくなるんだよ、と、泣きそうな顔もしていた。
あぁそうだ、と思った。そう、逃げ出したいくらいそれは、重たい代物だった。いや実際、私は一時期逃げ出した。すべてから逃げ出して、ひとりだけ、助かろうとしていた。この世から消え去ればすべてから楽になれると、そう思って、ひとりだけ助かろうとしていた。でも。
それをして何になる?
あぁそうか、ざわざわは、ずっと、耐えてきたのだ、と気づいた。逃げ出したくなるほど重たくて重たくて重たくて、でもそこから逃げることもできなくて、ただひたすら、その重石の下で、耐えてきたのか、と。
ざわざわは、ざわざわと揺れていた。私の視界全体が揺れていた。ざわざわはそのくらい、大きな気配だった。それはきっと、そのくらい大きくなければ、背負ってこれない代物相手だったからなんだろうと思った。
そうだ、もうそろそろ、私がしっかり背負う番なのだな、と思った。それに耐えられるくらいにはなってきた私を見計らって、ざわざわはここに出てきたのだろう、と。
ざわざわは、今にも泣き出しそうだった。私も、ちょっと泣きそうだった。
大丈夫か、と、ざわざわは言っているかのようだった。だから私は言ってみた。多分大丈夫。あなたはもう、楽になっていいんだよ、と。
その瞬間、ざわざわが止んだ。止んで、辺りはしん、と静まり返った。
そうして私の肩に、ずしんと何かが降りてきた。でもそれは、いやな重さじゃぁなかった。確かに重いけれども。でも。
そこにはたくさんの思いが、詰まっているようだった。

ステレオからは、Raise your voicesが流れ始める。私の大好きな曲だ。どんどんと広がってゆくその音色に、私は背中を押されるような感じを覚える。
お湯を沸かし、生姜茶を入れる。入院している友人から、いつの間にかメールが届いている。そのメールを読みながら、私はお茶に口をつける。
半分開けた窓からは、そよ風が流れ込んでくる。ちょっと冷たいくらいの、ちょうどいいそよ風。私の髪をそっと撫でてゆく。

娘が最近繰り返し私に聴く。ねぇママ、私が一万ページ読んだら、おかしいかな? ん? おかしくないんじゃない? おかしくなぁい? ほんとに? うん、おかしくないと思うよ。そうかなぁ。どうしておかしいと思うの? いや、だってさぁ、何となく…。何となくなぁに? みんな、信じてくれるかなぁと思って。あぁそういうことか。別にいいんじゃない、ちゃんと記録つけてるんだし、ママはあなたが読んでいることをちゃんと知ってる。でもさぁ、みんなはそう思わないかもしれないじゃん。思わない人は思わない人で放っておけばいい。そういう人たちは、何処にでもいるよ。どうして信じないのかなぁ? 本当のことなのに。本当のことだと余計に、信じてもらえないってことが多々あるんだよ、世の中には。なんか変なの。そうだね、変だよね、ママもそう思う。でもこのことに関しては、ちゃんとママは、あなたが読んでいるのを知っているんだから、それで十分じゃない? そうなのかなぁ、うーん。
一万ページ読むと何があるのか、それは分からないのだけれども、娘は、友達に信じてもらえるかもらえないかを、とても気にしている。信じてもらえなくても本当のことなんだからいいじゃないの、と私がいくら言ったとしても。多分彼女は、その狭間で当分の間揺れるんだろう。
誰かに信じてもらえるか、もらえないか、という尺度で、すべてをはかっていた時期があった。信じてもらえないと、もう何でも価値がないというような。信じてもらえなければ何の価値もない、と。
そんなことはないと気づいたのは、知ったのは、言ってみれば最近のことだ。これだけ生きてきた私でさえそうなのだから、娘はまだまだ惑うだろう。私はそれを、見守っていようと思う。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。私は階段を駆け下り、自転車へ。
坂道を勢いよく下り、公園の目の前へ。もう緑が茂って、朝陽を直接見ることができないほど。朝陽は緑の向こう側。
公園の池には千鳥が今日も集っており。千鳥たちは忙しげに辺りを探っており。巣を作る材料を探しているのか、それとも餌を探しているのか、どちらだろう。池の周りはぐるり、躑躅の茂み。躑躅ももう終わりに近づいてきたのか。時の流れはなんて早いのだろう。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏並木が朝陽を背に、真っ直ぐに立っている。それはまさにそそり立つといった表現が似合う姿で。私はしばし見惚れる。こんなふうに真っ直ぐ大地に根を張って立っていられたら、どれほど気持ちがいいだろう。
今、青々と葉を茂らせた桜の樹から、雀たちが一斉に飛び立った。
信号が青に変わる。さぁ今日も一日が始まる。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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