2010年04月24日(土)
真夜中に何度か目を覚ます。そのたび寝汗の酷さに着替える。そうやって繰り返していたら朝になった、そんな感じがする。
起き上がり、窓を開ける。ひんやりした、湿った空気が漂っている。そよりと吹く風の気配さえない。すべてが止まったかのよう。私は空を見上げる。見上げた空には、まだ大半に雲が残ってはいるものの、でも今日はきっと、陽射しが見られる。それが嬉しくて、私は大きく深呼吸する。胸に吸い込んだ冷気は、私の全身にゆっくりと広がってゆく。そのじわじわと広がる感覚を味わいながら、私は街をゆっくり眺める。雨上がり、どこもかしこもしっとりと濡れている。その濡れたところが、東から伸びてくる微かな陽光で輝いているのが分かる。今街は眠っているのではない、息を潜めているのだ、と思った。息を潜めて、今か今かと待っているのだ、夜が明けるのを。そのある種張り詰めた感じを私は味わいながら、しゃがみこむ。足元のプランター、イフェイオンの、枯れた花殻を摘んでゆく。本当にご苦労様だった。ほとんど水遣りさえしないで放っておかれていたというのに、ここまで花を咲かせてくれた。そのことに感謝せずにはいられない。
ホワイトクリスマスは、ここしばらく新芽を出していない。まさに隣のマリリン・モンローの勢いに負けているといった具合。栄養全部を吸い取られているかのよう。マリリン・モンローとホワイトクリスマスの葉の色は似ている。暗緑色。肉厚の葉で、新芽の頃は縁が赤い。ホワイトクリスマスの枝の付け根をじっと見つめる。そこに新芽の気配は、在る。待っていればじきに葉を広げてくれるだろうと、今は信じることにする。
何となく、鈴木祥子の「風に折れない花」を思い出し、鼻歌まじりに歌いながら、他の樹たちの様子も見やる。粉を噴いている葉をまた新たに幾つか見つける。もうそれは、根元から粉を噴いており。だから私は、葉を摘むだけでなく、その新芽の根元から、折ることにする。折るとき、ぱきり、と音がしたような気がした。もちろん実際にはそんな音はしていないのだが、私の目の中で、そういう音が、した。体が一瞬ぶるりと震える。
部屋に戻ると、ガーベラはまだ変わらずそこに在り。もうほとんど、散る寸前なのだろうが、それでも彼女は懸命にその花弁を伸ばし、そこに在る。その姿を見るたび、私も、まだまだだな、と思う。
ゴロがこちらを見ている。おはようゴロ。私は声を掛ける。彼女は後ろ足で立って、鼻をひくひくさせながらこっちを見上げる。構ってよ、と言っているみたいだ。私はひまわりの種を三つ、手のひらに乗せ、一粒ずつ、彼女の鼻先に持っていく。まだちゃんと手を差し出すというところまではいかないのだが、種に食いつくとき、手もちゃんと私の指に添えてくるところがかわいい。そうして三粒、彼女はほっぺたに貯めこむ。
私は洗面台へ行き、顔を洗う。少し疲れた顔はしているが、まぁそれは仕方がない。洗い立てのほっぺたを指で弾いてみる。まぁこんなもんかな、という気もしてくる。
目を閉じ、意識を体の中に沈めてゆく。
穴ぼこに会いにゆく。おはよう穴ぼこさん、私は挨拶をする。そしてまず、隣に座り込む。
新しく湧き出たごぼごぼは今はないらしい。でも、穴ぼこは、衰弱しているようだった。疲れているのだ、あんなに吐き出して、だから疲れているのだ、と思った。それはちょっと嬉しかった。疲れているのに無理して動かれるよりずっと、嬉しいことだった。そうか、ここでこうして、呆けることができるだけの隙間は、あるのだな、と思えた。
私はイメージしてみた。ここに風が吹いたら。どんなに気持ちがいいだろう、と。風が吹いたら自然、空も雲も現れるだろう。そうしたら、この土の上にも何処からか種がやってくるだろう。そうしたらここには、雑草たちが生えてくれるだろう。そんな光景を、見てみたい、そう思った。
今すぐに私ができることは。この土地を、耕すことなんだろうな、と改めて思う。だから、とりあえず手を使って、土を掘り起こしてみる。
それはやわらかく、少しあたたかくて、切ない土だった。触っているとじんじんと、それが伝わってくるようだった。あぁ生きているのだなぁと思った。
とりあえず、私の手に触れる場所は、そうして掘り起こしてみた。掘り起こして、土をならして。いつ種がやってきても大丈夫なように。
その間、穴ぼこは、ただじっとして、私を見つめているようだった。
ふと、もしまたごぼごぼがやってきたら、と考えた。そうしたらこの土は瞬く間にごぼごぼに覆われて、またやり直しになる。
でも、それでいいと思った。何度でも、耕せばいい。ごぼごぼは、多分、さらなる肥やしを運んできてくれるものなのだから。
もう、恐れるのはやめよう、と、思う。そういう感情も何も、抱いたってそれは、当たり前、自然なこと、ただ、それを私がどう受け容れてゆくか、それだけの、こと。
穴ぼこは、ちょっと躊躇っているような気配を漂わせていた。自分の周りでそんなふうなことをされたことはなかっただろうから、それも当たり前なのかもしれない。
それにしても、土いじりというのは、なんて楽しいのだろう。幼い頃の砂遊びや土いじりを思い出す。無心になって作った砂玉や城。瞬く間に崩れるそれらを、それでも何度でも作り直した。一心不乱、という言葉は、ああいうときのためにあるんじゃないかと思う。そういえば、先週授業で為したコラージュ療法にも、そういう感じがあった。最初は躊躇いがちにやっていたことが、気づくと夢中になって、切り貼りしているのだった。終わったときには爽快な、きれいさっぱり洗い流したようなそんな感じがあった。
私は再び、穴ぼこの隣に座り、じっと時を過ごす。気のせいかもしれない、本当に気のせいかもしれないが、風が微かに、流れているような気がした。それが何処からやってくるのかも何もわからなかったが、それでも。
私は立ち上がり、穴ぼこに手を振る。また来るね、と約束して。
友人に借りた本の影響なのだろう、ここ数日、ピアノと自分のことを、改めて思い出し、考えている。
ふと、今残っている音源がなかったか、と棚を探す。あった。二曲だけ。さすらいびと幻想曲と、波を渡るパオラの聖フランシス。それぞれ発表会の折に弾いた、或いは弾くはずだった曲だ。聴いてみて、苦笑する。指が転んでいる箇所があったりして。でも。それでも、懐かしく、そして切ない。
ピアノは。ピアノは私にとって、ただひとつ赦された、思うまま感情を吐き出せる場所だった。父や母とぶつかった後、私はよく、ピアノの部屋に篭った。篭って、ピアノに自分が言えなかったこと、感じたことたちをぶつけた。そうしていると、気づいたときには何時間も時間が経っていて、そうして気持ちがすうっと開けてゆくのだった。
何度か、ピアノを取り上げられたことがあった。ピアノに鍵をかけられてしまい、どうにもこうにも開けることが叶わず。ピアノを弾けないということが、こんなにも苦しいものなのかと、そのたび味わった。
思い切り、そう思い切り泣くのも笑うのも、ピアノが一緒だった。ピアノの前でなら自分を曝け出すことができた。だからこそ、普段どんなに虐げられても、大丈夫だと思えた。そういう時期が、私には、在った。
そういえば一度、マニキュアをしてピアノの練習に行ったことがあって。その折、とんでもなく先生に怒られたっけ。マニキュアをしたり爪をちょっと余計に伸ばしたりしただけでも、タッチが変わるのだ、と、それが分からないのか、と、こてんぱんに怒られた。あの頃、ちょうど同じ年頃の女の子たちが、こぞってマニキュアをしている時期だった。私も、と思ってしてみたが。とんでもなかった。実際、マニキュアをするだけで、鍵盤に触れる自分の指の感じが違った。以来、マニキュアは私の手元からなくなった。
すべてが懐かしく。きらきらと輝く旋律の上に、それらは弾んでいた。思い出すほどに、切なくなった。少し胸が苦しくさえ、あった。
今私はもう長いこと、ピアノに、触れていない。
お湯を沸かし、生姜茶を入れる。足元で再びゴロがちょこまか動いている。私はゴロを肩に乗せてやることにする。しかし、彼女は、ココアやミルクと違って、よく後退するのだ。もうちょっとでまた、肩から落ちるところだった。まったく。自分で構ってくれと言っておいて、構おうとするとこうなんだから、と私は苦笑する。へっぴり腰のゴロはそうして、私の肩にひっしと掴まっている。
ママ、もう私、反抗期? 娘が訊いてくる。そうだねぇ、まぁ、ちょこっと入り口に入ったかな、って感じ? 私が応える。
反抗期ってなんかさぁ、変だよねぇ。何が変なの? だって突然いろんなことが嫌になるんでしょ? うーん、まぁそうかもしれない。いろんなことが今までと違って見えてくるところがあるね。反抗期って絶対あるものなの? どうなんだろう? 少なくとも、ママとおじちゃんはあったよ。おじちゃんもあったの? うんうん、あった。おじちゃんはね、よく家の壁をパンチして、穴開けてた。えーーー! そんなことしてたの? うんうん、そんなことしてたよ。手、痛くないわけ? そうだねぇ、手が痛いのも構わないほどに、怒り狂ってたよ、おじちゃんは。うーん…なんか反抗期って大変そうだね。ははは、大変そうかぁ、まぁいいんじゃない、そういう時期もあるってことで。私、なんかそういうの面倒くさいよ。はっはっは、面倒くさいって…んなこと言ったって、なるときはなる。そうなのかなぁ、私、反抗期、なくてもいいよ。えー、そうなの? あっていいと思うけどなぁ、ママは。なんで? なんでかわかんないけど。そういう時期もあって自然なんだと思うけど。ふーん。まぁ、そんなもの、なるときはなるし、ならないときはならないんだろうし。考えてもどうしようもないよ。うん。ふーん。
じゃあね、それじゃぁね、あ、ママ、メール頂戴ね! 分かった分かった! 手を振って別れる。娘は右に、私は左に。
海と川とが繋がる場所に、今朝は一羽も海鳥がいない。がらんどう。私はしばし橋の袂に立ち止まる。遠く、向こうに風車が回っているのが見える。ゆっくりゆっくりと、風に回る風車。
ヘッドフォンからは、何故か朝だというのに、中島みゆきの「1人で生まれてきたのだから」が流れている。
さぁ今日もまた一日が始まる。私は歩道橋を勢いよく駆け上がる。
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