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2010年05月31日(月)

疲れ果てていて、気づいたら眠っていた。そのためなのか、タオルケット一枚しか掛けていず。寒い寒いと目を覚ますと午前二時。起き上がるにはまだまだ早い時刻で。どうしようかと迷い、でも起き上がって風呂場に向かう。引き伸ばし機をセットして、暗室の用意。娘も眠っているのだから、朝までの数時間は私の自由。焼きたいものが在る。三月に撮ったものたち。そろそろ時期かもしれない、と、少し前から気になっていた。一度軽く焼いてみたものの、まだまだだなと思った代物。
どんよりとした曇り空の下撮ったから、メリハリがついていないネガ。これをどう焼こうか。どうしようか。私はメリハリのある画面が好きなのだ。ノーマルに焼けば、それはどうってことはないグレートーンになるのだが。それじゃぁ何となく納得がいかない。
フィルターをいろいろ試しているうちに、あっという間に一時間が過ぎる。あの日の焚き火がふと、脳裏を過ぎる。吹き付ける風の中、私たちは小さく円を描いて焚き火の周りに集っていた。黙って耳を傾けている者もあれば、ひたすら喋り続ける者もいた。そんな私たちに構わず風は吹き続け、海は鳴り続けていた。海のごうごごうという音は、遠く近く、近く遠く、唸っており。水平線は闇に溶けているような時刻。私たちはただ、焚き火の灯りを頼りに、そこに在た。くべるものがなくなってくると、誰かしらがおのずと立ち上がり、何処からか木切れを集めて戻ってくる。その繰り返しだった。私たちはそうして火を守り、自分たちを守っていた。
暗室の中、浮かび上がる像。印画紙の上焼き付けられ。私は一枚、また一枚、作業を繰り返す。あの日、寒さに凍え赤くなる手足を、それでも私たちは動かし続けた。崩れる砂山に、それでものぼり、走り、海に向かった。撮影も終わりになる頃、ようやく厚く垂れ込めた雲がほんの僅か割れて、光が漏れた。それはとてもとても儚く柔らかくそこに在って。灰色がかった濃紺の海は、ただただ、ごう、ごごう、と唸り続けていた。
最初は。ただ、同じ被害者の人たちと何かできないか。そう思いついて、始めたことだった。でも、被害者が顔を晒すことが、どれほどしんどいことか、私は私なりに知っていたから、そんなことを実現することは不可能だとも思っていた。なのに、参加してくれるという人たちが在た。そうして、始まった。
これから先もこれが続いていくのか。それは分からない。いつ終わってもおかしくはない。でも、私のカメラの前に立ってくれる人がひとりでも在るかぎりは、続けていきたい。そう、思っている。

ベランダに出、大きく伸びをする。冷たい空気が漂っている。街はまだしんしんと眠りの中のようで。微動だにしない景色を、私はただ、じっと眺める。東からゆっくりと、でもはっきりと、光の筋が伸びてくる。途端に街景がふわぁぁっと明るく染まる。陰影の現れた街景は、とくん、とくんと脈打ち始め。私は空を見上げる。高いところ、うっすらとかかる雲。風はほとんどない。
私はしゃがみこんで、ラヴェンダーのプランターを見やる。萎れていた一本も、とりあえずまだ枯れる様子はなく。水を確かに吸っているのだろう者たちは、ぴんと葉を伸ばしており。鼻をくっつけると、ラヴェンダー独特の香りが鼻腔をくすぐる。
デージーはここに植え替えてから新たに新芽を出した者も多くあり。母が言っていたとおり、彼らはしぶといのだな、と思う。か細く、見かけは儚く見えるけれども、その生命力はとてつもなく強くしぶといのだな、と。
ホワイトクリスマスは、新芽を次々芽吹かせており。それでも何だろう、この樹は、しん、とした空気を纏っている。決して騒ぐことがない。白緑色の新芽が、徐々に徐々に色を変えてゆく。古い葉は、それに全く構うことなく、しんしんとそこに在る。
マリリン・モンローの赤い新芽は、徐々に色を緑色に変えてきており。その緑色は、どこか青味がかった緑色で。これがじきに深い緑色になるのだなぁと思うと、本当に植物は不思議だと思う。こんなに静かな生き物なのに、決して同じ姿であることが、ない。
ベビーロマンティカの萌黄色の新芽は、艶々と輝いてそこに在る。マリリン・モンローのそれと比べると、本当に瑞々しくて、若々しくて、赤ちゃんのようだと思う。
パスカリの若葉は、だいぶ赤味が消えてきて、今、緑色に姿を変えてきている。病気に冒されることもなく、よくこの元気な葉を広げてくれたと私は嬉しくなる。パスカリたちの、こうした粉を噴いていない葉を見るのは、どのくらいぶりだろう。本当に嬉しい。
部屋に戻り、お湯を沸かす。生姜茶を入れながら、さっき吊るしたプリントを眺める。暗闇で見ているのと、こうして光の中見るのとでは、また違ってくる。これが乾くとまた、ほんのちょっと違う。とりあえず、この路線で焼いていこうと決める。

ママさ、男の子に告白されたこと、ある? ん? 告白されたこと? まぁ、あるよ。その時、どうした? んー、おつきあいすることになった人もいれば、ごめんなさいって断ったこともある。え、そんなに告白されたことあるの? ははは、あなたよりママは長く生きてるんだよ、そういうこともいろいろあるさ。ごめんなさいするのってしんどくない? んー、しんどいといえばしんどい。でも、好きじゃないなら、しょうがないじゃん。まぁそうなんだけどさぁ。ママから告白したことも、ある? んー、最初、一回だけ、あるよ。えー、そうなの? うん、ある。どうだった? 中学生の時かなぁ、俺のこと好きなんだろとか言われて、うん、好きだよって言った。で、つきあうことになった。えーーー、それって、言わされたのと違うの? んー、どうなんだろ、まぁどっちでもいいじゃん。それでそれで? んー、結局数年して別れたよ。それからそれから? いろいろおつきあいした。短い人もいれば、数年つきあった人もいる。どうしてママ、今はひとりなの? えっ? 今、告白されないの? はっはっは、されないねぇ。もう、ママの周りは、たいていの人は結婚してるよ。結婚してる人とはつきあわないんだ。えっ、結婚してる人には奥さんがいるんだよ、奥さんが居る人とつきあうの? つきあわないの? つきあわないんじゃない? そういうのって、不倫って言われるんだよ。別に、ママから見たら不倫じゃないじゃん。ママはひとりものなんだから。ま、まぁそうなんだけど。いいじゃん、別に! い、いや、それはまずいでしょ。ってか、ママ、やだ、他の女がいる人となんて、つきあいたくない。あ、そうなの。つまんない。…。

ママ、生理ってさ、突然来るの? 突然っていえば突然だね、うん。でもママはたいてい、生理が来る前に、何となく下っ腹が痛くなったり、頭痛くなったりするよ。えー、やだー、そんなの。でも、そういうものなんじゃないのかな、生理って。それでどのくらい続くの? んー、だいたい5日から一週間くらいかな。その間ずっと血出てて、大丈夫なの? なんとなく貧血気味になる人もいれば、大丈夫な人もいる。人それぞれだよ。えー、同じじゃないの? ずるいじゃん。ははは。まぁ、体質とかさ、いろいろあるから、みんなそれぞれなんだよ。ばぁばはどうだったの? ばぁばは生理痛酷かったよ。ママも酷い。じゃぁ私も酷くなるの? うーん、その可能性はあるなぁ。うげー、ユウウツだぁ。林間学校のときになっちゃったらどうすればいいの? 先生に言うんだよ。先生、ちゃんとしてくれるかなぁ。してくれるさ。してくれなかったら帰ってきてからママに言いつけな。ママ、文句言うから。えー、恥ずかしいよー。ははは。まぁ、そんなことになっても大丈夫なように、準備だけはしておきなね。うーん。
もうそういう年頃になったのか、と、改めて思う。私が初潮を迎えたとき、実は私は、生理というものが何かを知らなかった。出血は一ヶ月近く続き、もうだめだ、と泣きそうになっていた頃、下着のシミを見つけた母に、怒られた。余計にショックだったのを覚えている。そして翌日、母は無言で、私の引き出しの中に、ブラジャーと脱脂綿の束を入れてきたのだった。それをどうやって使うのかも私には正直分からず。これまた泣きそうになったことを覚えている。
そういうことが娘にはないように、私は自分が生理が来たら、最近は娘にはっきり言うようにしている。そして、生理用品も、娘が手が届くところに置いておくことにしている。それがいいのかどうか分からない。私の母は、そうした、性的なものは、一切目につかないところにしまっておく人だった。そうした類の言葉を交わしたことも、ない。
私は多分、娘がもう少し年を重ねたら、避妊の仕方も教えるんだろうと思う。それがいいのかどうかも、これまた分からない。分からないが、せっかく女同士の家族なのに、何もそういうことを話し合えないんじゃ、つまらない気がする。堂々と話ができる間柄なのだから、話してしまえ、と、そう思う。

「内省は自己改善〔を目的としたもの〕です。だから内省は自己中心的なものです。気づきは自己改善ではありません。反対に、それは自己、〈私〉が、それがもつ独特の性質、記憶、要求、探求もろとも終わることです。内省の場合には、自己同一化や非難があります。気づきの場合は、非難も自己正当化もありません。だから自己改善はないのです。両者には大きな違いがあります」
「気づきは外部の物への気づきから、対象や自然と接触を保っていることから始まります。まず、身の周りの事柄に気づいていること、対象に、自然に、それから人々に―――つまり関係に―――敏感であること、があります。それから観念への気づきがあります。この気づき―――物に、自然に、人々に、観念に敏感であること―――は、別々のプロセスから構成されているのではありません。それは一つの統合されたプロセスなのです。それはあらゆるもの、あらゆる思考と感情、そして行動を、それらが内部に起こるがままに観察することです」
「問題はもっとずっと根深く、あなた以外の誰もそれは解決できないのです。あなたや私がこの社会をつくってきたのです。それは私たちの行動の、思考の、私たちの在り方そのものの産物です。そして私たちがたんにその産物を、それを生み出した当のものを理解することなく改良しようとしているかぎり、私たちはさらに多くの病気、さらに多くの混沌、さらに多くの犯罪をもつことになるだけでしょう。自己の理解が英知と正しい行動をもたらすのです」

じゃぁね、それじゃあね。娘の手のひらに乗ったココアの頭をこにょこにょと撫でて、私は玄関を出る。東から伸びてくる陽光は真っ直ぐに降り注ぎ、あたりを燦々と照らし出している。
私は自転車に跨り、坂道を駆け下りる。ヘッドフォンからは、Secret GardenのLore of the loonが流れ始める。軽やかに流れる旋律に耳を傾けながら、私は通りを渡る。現れた公園の茂みは、もうこれでもかというほど鬱蒼と茂っており。池の端に立つと、そこはちょうど茂みの切れ目で。その切れ目から漏れて来る光の洪水。池の水面がきらきらと輝く。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。埋立地の方は風が強く吹いている。その風を受けながら私は走り続ける。
さぁ今日も一日が始まる。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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