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2010年04月28日(水)

暗い。起きた瞬間にそう思った。窓に近づくと、外は土砂降り。唖然としながら窓を開ける。何という勢いで降っているのだろう。どんちゃかどんちゃか、まるで、やけっぱちになっているかのように雨が降っている。やけっぱちでありながら、からんと明るい雨でもある。アスファルトの上、叩きつける雨の音がここまで聴こえる。
ステレオから流れるのは、バッハのマタイ受難曲。朝からこの選曲もなんだかな、と苦笑しつつ、でも聴きたいのだから流しておく。昨夜はラフマニノフのピアノ曲を一通り聴いていた。私が特に好きな作曲家を三人挙げるとして、ラフマニノフはその中の一人だ。他にはバッハとリスト。
あまりにどしゃどしゃ降っている雨のおかげで、ベランダに出ることはできない。窓のところにしゃがみこみ、ミミエデンを見やる。まだまだ裸ん坊のミミエデン。今度はいつ新芽が出てくれるのだろう。気配だけでも見せてくれたらいいのだけれども、まだその気配さえもが感じられない。このまま立ち枯れてしまわなければいいのだけれども。今はそれがただ心配。
背伸びして、ホワイトクリスマスたちを見る。ホワイトクリスマスとマリリン・モンローは僅かだが雨を受けており、雨はその葉に弾かれて飛んでゆく。円弧を描いてベランダに落ちてゆくその様がなんとも美しい。マリリン・モンローの大きな大きな蕾が、ちょうど雨に打たれているのだが、それでも蕾は天を向いており。どんなときでも空を信じているのだな、と思う。信じて、待っているのだ、彼女は。光が漏れ出てくることをいかなる時も信じて。
ベビーロマンティカにも雨が微かながらかかっている。ぱつんぱつん当たる雨を葉は勢いよく弾いてゆく。植物の不思議を思う。こんなに儚く見えるのに、この力強さは一体どこから出てくるのだろう。憧れる。
昨日から頭の中で、「治療としての芸術」と「芸術心理療法」という言葉がぐるぐる回っている。かつて私は前者の立場にあった。でも今は、と考えると。今私は後者の立場に変わろうとしている。どちらがいいとか悪いとかじゃなく、自分の立ち位置をしっかりわきまわえて置かないと、後でとんでもないことになるなと思う。
そしてまた、昇華などについてもあれこれ考える。
「主体的な創造行為の中における美的経験とはどのようなものであろうか? 精神分析的解釈によれば、芸術行為とは“昇華”の産物であると考えられている。“昇華”とは、社会的に受け容れられない本能的欲動が本来の目標を放棄し、より社会的な価値や道徳に適合する目標に向け直されることを言う。この昇華は防衛機制の一つである。しかし、ほかの防衛機制とは異なり、昇華においては脱性化がはかられ、葛藤もなく抑圧も行なわれない。またそれは、多くの防衛機制の中で発達的に見て一番高度なものと考えられている。
 しかしながら、逆の言い方をすれば、昇華としての芸術行為やその産物としての作品がどんなに社会から受け容れられようとも、昇華は依然として防衛機制の一つなのである。別な言い方をすれば、昇華とは社会に受け容れられるように見せている表向きの自分、つまりペルソナ(仮面)であるともいえよう。それゆえ、もしアーティストがこのような昇華としての作品を制作していたとすれば、彼(女)は社会で受け容れられそれなりの名声は得たとしても、作品を通して本当の自分には向き合っていないということになる。そこでは芸術行為を通して自分の内面が本当に解放されることはありえず、作品を通して社会(あるいは超自我としての心の内側の権威者)に認められたい、人々の注目を浴びたいなどの別の動機が潜んでいる。そこにあるのは自分の自己防衛的な美的価値であり、本当の美的経験は体験されていない。
 サブプライム(崇高)はこの昇華を超えたところにある。フロイト自身、「崇高なものとは、そもそも欲動である」と述べている。つまり、崇高さは哲学的議論や美学上の説明の中には存在しないのである。コップの中の飲み物について何百何千の言葉で説明されても頭だけでの理解にしかならない。その飲み物の味を知るためには、それを自ら飲むしかない。崇高さそのものを知るためには、意識的、知的理解をやめて、この無意識の欲動の中に身を横たえる勇気をもったときに初めて、崇高さは自分自身の姿を現わすのである。」
今までのいろいろな体験が、ぐるぐると頭を回っている。しばらくこの状態は続きそうな予感がする。
窓を閉め、部屋に戻る。テーブルの上はもう空っぽだ。昨日、とうとうガーベラがくたん、と萎れた。いきなり、折れた。それまで必死に首を持ち上げていた力が、とうとう尽きた、といった具合だった。本当にありがとうね、そう声を掛け、私はガーベラをゴミ袋に入れる。本当に長いこと咲いてくれた。まさに一ヶ月、保ってくれた。その間テーブルの上はどれほど明るかっただろう。花が在る、というおかげで、私の心はどれだけひっぱり上げられたことだろう。本当にありがとう。
ステレオからは、今、Secret GardenのDivertimentoが流れている。朝に合う、軽やかな旋律。
お弁当を作る。玉葱とパプリカを軽く炒め、そこに下味をつけておいた肉を加え、さらに炒める。その間にもう一つのコンロで、インゲンを塩茹でしておく。野菜が少ないなぁと思うのだが、スーパーの野菜はいまだに高く。とても軽く買える値段じゃぁなく。仕方ない、今日はもうこれらを弁当箱に詰めて、あとは苺で誤魔化そう、と決める。娘よ、ごめん。おにぎりはたらこ味。
洗面台で顔を洗う。鏡の中、自分の顔を覗き込む。白っぽい顔色。でもまぁ悪いわけじゃないから、これでいい。そうして目を閉じ、自分の体の中に沈みこむ。
ずきずきは、もうずきずきじゃぁなくなって。今は、ちくちく、といった感じに変わった。おはようちくちくさん。私は声を掛ける。
ちくちくの傍らに、私は座り込む。ちくちくは、一瞬体をよじったけれど、私がそこに在ることは赦してくれているようだ。私は座っている。
ちくちくに耳を澄ます。ちくちくは、自分という存在を何とか奮い立たせようとしているようだったが、そんな無理なエネルギーは必要ないんだよという私の姿勢に、まだ戸惑いを見せているようだった。
それも当たり前だ、と私は思う。ずっと、存在している、というそのこと自体に、負荷があったのだ。価値がない、存在している価値などおまえにはない、という通牒を突きつけられるばかりで、それを何とかクリアするために、背伸びばかりしてきた。自然でいいんだよ、なんて今さら言われたって、じゃぁ自然って何よ、ということになるだろう。私もそれが、長いこと分からなかった。
私の価値尺度は、言ってみれば父母に強いられたものだった。だから自然な私の振る舞いは愚かな振る舞いであり、存在している価値などない、という代物になった。そうやって、自分を削って削って、削っているうちに、自分が何なのか、何を望んでいるのか、何をしたいのかなど分からなくなっていった。結婚相手までもが予め父や母によって決められている人生が、そこに在った。
いつからだろう、そこから徐々に徐々に外れていったのは。もう無理だ、と、自分なんてもう何の価値もない、と諦めて、徐々に徐々に外れていったのは。
そうして飛び出した先で、また途方に暮れた。自分の価値尺度がないから、はかれないのだ。人との距離、物との距離が、自分ではかれない。そういう自分に、私は愕然とした。でももう、遅かった。
そうやって足掻いて足掻いて、何十年という時を経て、今が在る。
同じ時間を、いきなりひとっとびに、ちくちくに飛んでみろと言ったって、それは無理な話だ。
でもだから、私はここに今座っている。そんな気がする。私がちくちくに、伝えてゆくしかないのだ、しぶとくしぶとく。
ちくちくが、突然、小さな声で、言った。
私は、いなくならなくちゃならないの?
だから私は即答した。そんなことない。そこに在ていいんだよ。
そうだ、不安なのだ。私の中のいろんなものに共通していること、それは、「こうなったからには私は存在していてはいけないの?」という感覚だ。そんなことは、ない。今の今まで私を支えてきてくれたこれらのものたちに感謝こそすれ、消えてなくなればいいなんて、これっぽっちも思わない。そりゃぁいつか、消えてなくなるときもあるのかもしれないが、それは、不本意な形で迎えるものじゃぁない。両方が納得して、迎えるべきものであって、それ以外の何者でもない。
私は繰り返す。あなたはそこに在ていいの。なくなる必要なんてないの。あなたはあなたのままで、そこに在れば、それでいいんだよ。
ちくちくは、ほっとしたように息を吐いた。そういえば、それまで彼女の吐息を聴いていなかった。きっとずっと息を詰めていたのだろう。かわいそうに。
大丈夫、私はまたここに来るから。そうしたらまた、一緒にいようね。私はそう約束して立ち上がる。またね、と手を振って、その場を後にする。

Windancerが流れている。その音色に耳を傾けながら、私はお湯を沸かす。今朝も選んだのは生姜茶。これを飲むとほっとする。
布団から半分体をはみ出させて、娘はまだ眠っている。そういえば昨日、彼女は本のリストをだだだっと作っていた。どうも気分が変わったらしい。「私ってもう1000ページ以上、本読んでるんだなぁ!」なんて、声を上げていた。
それを眺めながら、彼女には、私と違って、自分を認める力があるんだな、と思った。それは素晴らしい力なんだよ、と心の中、彼女に言った。

土砂降りの雨。その中をバスに乗って走る。駅へ。乗客はみな何処か俯いて、押し黙っている。
バスを降り、歩き出す。アスファルトの上、跳ね返る雨粒。ばしゃばしゃ、ばしゃばしゃという音が聴こえる。海と川とが繋がる場所はそんな雨でけぶっており。霞んでうまく見えない。それほどに強い雨足。
コンビニの前で雨宿り。ふと見ると、雀も雨宿りしているらしく。私は動いて彼女を驚かせたりしないよう、必死に姿勢を保つ。
友人から電話が入る。共依存症からの回復について尋ねられ、私は知っていることをあれこれ応える。少しでも役立てば、いい。
さぁ今日も一日が始まる。と思って見れば、もうそこに雀はいなくて。私も歩き出す。雨の中。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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