2010年04月21日(水)
寝汗が酷い。何度も途中で目を覚ます。そのたびあまりの汗に、着替えなくてはならず。朝起きたときには、枕元に三枚の脱ぎ捨てたシャツ。それを抱えて洗濯物籠に持ってゆく。体調が思わしくないことが寝汗になって出たんだろうか。そこまで体調が悪かったつもりはないのだが。それにしても、本当によく汗をかいた。
窓を開けると、すっと忍び込んでくる風。心地よいという言葉がちょうどぴったり合うような、そんなひんやりとした空気。ベランダに出て、大きく伸びをする。そのままの姿勢で空を見上げると、雲が薄くかかってはいるが、明るい色。今日は晴れるのだということを知る。
強くも弱くもない、風が流れ続けている。雨上がりの今朝、ほんのりと遠くは霞がかっている。そのかすかな霞を眺めながら、私は深呼吸もしてみる。濡れた後のしめった空気が、胸いっぱいに広がる。
心配したとおり、薔薇の樹のあちこちに、粉の噴いた葉を見つける。マリリン・モンローにもベビーロマンティカにもパスカリにも。他の諸々の子たちにも。私は一枚一枚、それを摘んでゆく。懲りずに摘む。粉だけを吸い取って病気を治す掃除機みたいなものはないものか。つくづく思う。せっかく萌え出た新芽を、こうして摘んでゆくのは、結構辛い。申し訳なくて申し訳なくて、たまらなくなる。でもこれをしないと、病気は拡がるわけで。いたしかたない。
病葉を摘みながら、ベビーロマンティカの、ずいぶん膨らんできた蕾を見つめる。秋に咲いたのとはまた大きさが違う。ひとまわり大きい。この違いは何なんだろう。樹ががっしりと根を張っていてくれている証なんだろうか。同じ樹でも、同じ種でも、ひとつとして同じ蕾などなく。当たり前のことなのだけれども、その当たり前を見るたび、私は圧倒される。この世にひとつとして同じものなどないということを、改めて思い知らされる。比較などしようもない、唯一無二の存在。あぁでもそれは、人も、同じ。
部屋に戻ると、ココアが入り口のところに齧りついて、がしがしと音を立てている。おはようココア。私は声を掛ける。そんな声などお構いなしに、彼女はがしがしと噛み続けている。今は無理よ、と声を掛け、私はそのまま弁当作りを始める。
もやしとピーマンをさっと炒める。申し訳ないが今日の野菜はこれだけで勘弁してもらう。それから娘から注文を受けていた、肉団子を作る。それらを適当に飾りつけ、端っこには苺を盛って。玉子焼きも入れて。あとはおにぎりを添えて。それで終わり。適当弁当でごめんな、とちょっと心の中で謝りつつ、赦してもらうことにする。
洗面台で顔を洗う。今日はあまり顔を見たくなくて、鏡を覗くのはやめておくことにする。そのまま目を閉じ、自分の内奥に向かう。
おはよう穴ぼこさん。私は声を掛ける。穴ぼこは、しんと静まり返っている。ちょっと離れたところから見ていると、まるでもう何十年も使われていない井戸の跡形のようにさえ見える。でも、穴ぼこは、死んでいるわけではない。そこに生きて、在ることを、私は知っている。
疲れているのだろうと思った。それまでしたことのないことをすれば、誰だって疲れる。だからこそのこの静けさなのだろうと思った。
隣に座ってみると、穴ぼこは、眠っているわけではなかった。それまでいっぱいいっぱいになっていたものを吐き出した後の、がらんどうのような感覚に、陥っているのようだった。私はだから、ただ座っていることにする。
ふと、穴ぼこに誘われるようにして、私は思い出す。幼い頃、こうしてひとり、野の端に座って、よく歌を歌って過ごしていた。それは世界中何処を探してもないメロディばかりで。要するに、私が即興で作った歌ばかりで。もちろん中には、好きな童謡なども含まれてはいたが、たいがいはそうした即興の歌ばかりで。でもそれはとても楽しくて楽しくて、いくらでも時を過ごすことができた。そういうときに見上げる空は、たいてい高く澄んでおり。季節によっては、雲雀の声や鶯の声が、何処からか響いてきたものだった。誰にも見つからないよう、大きなすすきの茂みの陰や竹薮の陰に座り、そうして何時間も私は時を過ごした。
また、別のことも思い出した。祖母に教えてもらう和紙人形。それを作るのが、とても好きだった。和紙の感触は、とても柔らかく、素朴で、手によく馴染んだ。顔を作るのが、一番緊張した。顔の丸み、それから前髪の長さによって、顔はがらりと変わるのだった。だからいつでも、息を止めて、その作業を為した。祖母が選んでくれる和紙の色味は、たいてい赤か紫で。それらの中から、その娘に似合いの柄を選んで、着物を着せるのだった。出来上がった人形を、ひとつひとつ、並べては、眺めて過ごした。なんともいいようのない、至福の時だった。
埋まっていたんだな、と思った。ごぼごぼの下に、それらのあたたかい記憶が、すっかり埋まっていたんだ。だから思い出す隙もなかった。ごぼごぼはそれほどに、厚く堆積していたから。
他にもきっと、いっぱい埋まっているんだろう。私が辛かったりしんどかったりした思いの下に、きっと素敵なことが、あったかいことが、いっぱい埋まっているんだろう。
穴ぼこは、少し、寂しそうだった。今まで慣れ親しんだごぼごぼが亡くなった後の、そのがらんどうに、寂しさを感じているようだった。それも、当たり前のことか、と私は思った。それほどにこれまで、ずっとずっと、抱えてきたのだから。
でもそのからっぽになったところに、今度は風が吹く。風が流れる。そうすれば、自然、いろんな音が聴こえてくるはず。鳥の声や波の音や、風の音や。ずっとずっとそういったことから離れて過ごしてきたのだから、もうここからは、そういったものの中に在て、いいんだよ、私は声を掛ける。穴ぼこは、まるで聴いていないかのように、黙っている。
ふと思う。まだまだ、穴ぼこにはお世話になるのかもしれない。私は未熟な人間だから、いくらでもどす黒いものは在って。これからだってもちろん在って。だから、まだまだお世話になるのかもしれない。でも。
あんな、ヘドロになるほど、放っておくことは、もう、ない。
その都度、気づいていけば、いい。その都度気づいて、手当てしていけば、いい。そう、思う。
穴ぼこは、もうしばらく、ひとりでぼうっとしていたい、そんな気配だった。だから、私はそのまま立ち上がり、挨拶し、その場を後にした。また来るよ、と、約束して。
「私たちはあらゆる手段を自分を支えるために利用します。そして怒りは、憎しみと同じく、その最も容易な手段の一つなのです」「もしもあなたが怒りの中に深く、その表面をかすめるだけでなく、入っていくなら、その中には何があるでしょう? なぜ人は怒るのでしょう?」「なぜあなたは傷つくのでしょう? 自分が重要だから、ではありませんか? それでは、どうして自分は重要なのでしょうか?」「それは人がある観念を、自分自身についてのシンボル、自己イメージ、自分はどうあるべきか、どうあってはならないかという考えをもっているからです。なぜ人は自分自身についてイメージをつくり出すのでしょうか? げんにある自分を一度も、実際に研究したことがないからです」「怒りを目覚めさせるのは、私たちが自分自身について抱いている理想、観念が攻撃を受けることです。自分自身に関する私たちの考えは、ありのままの自分という現実からの逃避なのです」「げんにあるものを観察し、それを見て、実際にそれと親しむには、判断や評価、意見や恐怖があってはならないのです」「怒りは寛容さをもって観察され、理解されねばなりません。それは暴力的な手段を通じて克服されるものではないのです。怒りは多くの原因によってひき起こされたものかも知れません。そしてそれらの理解なしには、怒りから逃れるすべはないのです」「敵と味方は共に私たちの思考と行動の産物です。私たちは敵の創出に責任があり、だから私たち自身の思考と行動に気づくことの方が、敵や味方と関わるよりも重要なのです。というのも、正しい思考は分割を終わらせるからです。愛は敵と味方を超越します」「あなたが無思慮で、無知と憎悪、貪欲にとらわれているかぎり、世界はあなたの延長なのです。しかし、あなたが真剣で、思慮深く、そして目覚めるとき、そこには苦痛と悲しみを生み出すこうした醜い原因からの分離があるだけでなく、その理解の中には、完全性、全体性があるのです」
最近、娘の甘え度合いと反発度合いとが、強烈だ。甘えるときは、猫のようにごろごろと、いや、それよりもっと強烈に、こちらに圧し掛かってくる。かと思うと、口をへの字にしてぶすっとした顔で返事もしないことがある。おお、反抗期の始まりか、と、私は心中面白がっているのだが、本人としてはどうなんだろう。
私が反抗期に入った頃なんて、意識どころの騒ぎじゃぁなかった。或る日突然、父が不潔に思えて、たまらなくなって、父を露骨に避け始めた。それが契機になって、どどどっと反抗期に入っていった気がする。
そういえばそれって、初潮と関連していたかもしれないなと思う。誰にでもある、そういう時期なんだろうとは思うのだが、それにしては、私の反抗度合いは酷かった。今なら笑える。
或る意味、娘との付き合いは、ここからが正念場なんだろうな、なんて思ったりもする。娘にとって、思い切り反抗できる相手でありたい、と、そう思う。
お湯を沸かし、生姜茶を入れる。ほんのり甘い味が、ようやく分かるようになる。昨日は全くそれが感じられず、せっかく飲むお茶だというのに、もったいないことをした。味が少しでも分かるというのは、本当に、それだけでありがたい。
朝、いつもの仕事は棚上げし、展覧会の準備を始める。今回、写真と言葉とを組み合わせて展示する予定。その言葉の部分を、プリントアウトする、という、それだけの作業なのだが、紙が余分にあるわけでもなく。プリントに結構気を使う。
私がプリンターと睨めっこしていると、娘が起きてくる。ママー、見てー。なに? ほら、ブタさん。そう言って娘は、ミルクを手に挟んで私に見せる。ブタさんって、あなたがミルクを潰してるだけじゃんよ。私が笑うと、だってこの顔がたまらなくかわいいんだもーんと言いながら、ミルクにキスしている。朝から熱烈なことで、と私はからかう。
娘が鏡の前に立ったかと思うと、私が流していたBGMに合わせて踊り出す。どう見てもそれは、ドリフターズの真似としか思えないのだが、それが本人にとってはいいらしい。あれやこれやバージョンを繰り広げ、床にまで寝転がって、踊っている。
ねぇママ、私だけ、アルトリコーダー、色が違うんだよね。あ、そりゃ、ママのお古だからね、仕方ないよ。新しいの、買って欲しかったな。えー、今更そんな…。買うとき、どうするって尋ねたじゃない。だって、あの時、ママ、お金ないなぁって言ってたから。あ…、ごめん。でもさ、なんでママのアルトリコーダーは白なの? なんでって言われても、ママの時は、みんな、こういう色のを学校が買ったの。ママのって、ソプラノリコーダーも白だよね。私の茶色だよ。うん、そうだね、違うね。でも、違うから目立っていいじゃない。えーー、やだよ、目立つのやだ! へ? 目立つのやなの? あなた、いつでも目立ってるじゃん。そんなことないって、いつでもおとなしくしてるって。何言ってんの、それそのまま、家庭訪問のとき、先生に言ってもいい? え、やだ。
ママ、友達って、ほんと、何なんだろうね。どうしたの? 何かあった? 塾の友達とさ、学校の友達って、どっち大切なの? どっちって…それはあなたが決めていいことだと思うけど? なんかさー、学校の友達が大切って言うと、まるで塾の友達を裏切ってるみたいになるじゃん。そうなの? そんなことないと思うけど。でも、そう言われた。あぁなるほど、そんなことを言われたから、今、考え込んでいるわけね。うん。別に、どっちが大切でもいいんじゃない? だめ? うーん、なんか、裏切り者とか言われると、結構ショック。そりゃショックだねぇ。うんうん。でもさ、友達なんて、自分で選んで自分で決めていいんだよね? うん、そうだよ。そういうものだよ。無理矢理付き合うなんて、それって友達じゃぁないよね? そうだね、そうだと思うよ。自分が思うとおりにすればいいさ。そっか、うん、そうする。
じゃぁね、それじゃぁね。玄関先で手を振って別れる。朝日を受けて、ラヴェンダーの緑が輝いている。まだ小さな小さな芽ではあるが、それでもあちこちから新芽を出している姿、力強い。
坂を下り、小さな横断歩道を渡る。目の前の公園は、緑に燃えており。陽射しを燦々と受けて輝く緑は、目に沁みる。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。昨日の雨で、残っていた桜の花はほとんど散り落ちた。そういえば、友人夫婦は今週毎朝、早く起きて桜を見て回っているのだそうだ。夫婦でそういうことができるって、素敵だな、と思う。
銀杏の葉は、ぐんと伸びて、今、赤子の手のような葉が、ちらちらと風に揺れている。私はそのまま、まっすぐに道を走る。
さぁ、今日もまた、一日が始まる。今日という一日、が。
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