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2010年04月10日(土)

いつもより少し早く目が覚める。まだ外は薄暗い。ミルクの回し車の、豪快な音が響いている、静かな部屋の中。その音だけが響き渡る。
窓を開け、ベランダに出る。薄く雲が流れている空を見上げる。まだ暗いからよく分からないが、今日は晴れるんだろうか、どうなんだろうか。多分お花見ができるとしたら今日が最後なんだろう。もう散り始めている桜。
イフェイオンが足元で小さく揺れている。流れている風が肌に冷たい。冬の寒さとはまた違う冷たさ。ミミエデンを見ると、新芽がこぞって粉を噴いている。私はちょっと憂鬱になりながら、それらを全部指先で摘んでゆく。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。一枚土の上に落としてしまった、あちゃ、と思ったがもう遅い。私は急いでそれも拾い上げる。石灰をミミエデンの周りにだけ撒いてはあるが、効き目がないらしい。はてさて、困った。私はミミエデンに顔を寄せて、じっと見つめる。葉がこれでもかと茂っているベビーロマンティカやマリリン・モンローの隣にいるから、余計にミミエデンの裸ぶりが際立って見えるのかもしれないが、それにしたって。この季節にまともに広げている葉一枚さえもがないなんて。あんまりだよな、と思う。でも、そう言ったからとて、どうなるものでもない、ということも、分かってはいるのだが。
立ち上がり、もう一度空を見上げる。さっきより一段二段明るくなってきた空。薄く青空も広がっている。
部屋に戻り、顔を洗う。鏡の中に映る自分に、とりあえずおはようと挨拶をする。まだ少し疲れの残っている顔だ。この週末に、うまくまとめて休めるといいのだけれども。途端に、「休んだからとてどうにもなるもんじゃぁなかろうに!」という批判的な声がする。確かにまぁ、どうにかなるようなものなら、それに越したことはないのだが、でもだからといって、全く休まないでいるのは、それはそれで無理な話で、と、私は反論する。するとさらに、「休むほどのことか? そんなにおまえはやっているのか?」という声もする。参るなぁ、そういうことを言われると。でも、疲れているのも、確かなんだ。うん、きっと。私は反論する。嘲笑するような顔が私の脳裏に浮かぶ。何だろう、今朝は、私は私に批判的になりたいらしい。
私はそれを棚上げし、目を閉じる。内奥に潜ってみる。
おはよう穴ぼこさん。私は挨拶をする。そうしてそっと、穴ぼこの中を覗いてみる。そして、そこにも挨拶をする。おはよう、怒りさん。
怒りは、もうすっかり炭の塊になっており。本当に奥底の方で、ぷつぷつと、燃えている、その程度だ。私は穴ぼこの傍らに座り、耳を傾ける。
穴ぼこがふっと言った。満腹感を思い出したい。あぁそりゃぁそうだろう、と思った。だから私は、うんうん、と頷く。気持ちよく、食べてみたい、と。呟くように穴ぼこが言う。
そういえばいつからだろう。私が満腹感を感じられなくなったのは。最初は拒食から始まった。たった一口のおにぎりさえ、食べることができなくなった。空腹感は何処かへいき、かといって満腹感があったわけでもなく、ただ、食べることを拒否した。食べることは生きることに直結しているようで。だからそれが、厭だった。
それが過食嘔吐に転じ、私は満腹感を感じられないまま、ひたすら胃に食べ物を詰め込んだ。詰め込んで詰め込んで、そうして吐くのだった。吐くのも徹底して吐かないと気がすまないらしく、胃液が逆流して喉を焼くまで、ひたすら吐いた。吐く白い便器には、母の歪んだ顔がぼんやり浮かんでおり。私はその上に向かって、どどどっと吐くのだった。だからいつでも罪悪感があった。テーブルいっぱいに広げた食べ物は、瞬く間になくなってゆく、私の胃袋に押し込まれ。
そうしているうちに、歯は溶け始め、ぼろぼろになっていった。胃と食堂をを繋ぐ場所は、しょっちゅう悲鳴を上げた。あまりに大きなものがそこを通ったときには、亀裂が入り、白い便器の中は先決で染まるのだった。
そんなことを思い出しながら、再び私は穴ぼこを見やる。
母の、幻影のようなものが、穴の上に浮かび上がる。私に向かって背中を向けたままの、母の姿だ。口癖のように、一体あんたって子は、と彼女は言っていた。思春期のあの頃の私にとって、その後の、母の、「一体あんたは誰の子なんだか、信じられないわ」といった言葉が、ぐさりと突き刺さった。父にも母にも似ていない、私という存在は、まるで、そこに在てはならないもののように思えて。どさっと堕ちた。心が割れた。あぁ小さい頃から言われ続けてはいたけれども、それでもまだ、この年になってもまだ、それは変わらないのかと、そう思った。そんなにも私を自分たちの子供と思えないのなら、どうして私を産んだんだ、と思った。あんたさえいなければ、という言葉が、甦った。そうだ、私さえいなければよかったんだ、私さえいなければ、母や父はこんなに苦しむことはなかったんだ、すべてが私のせいなのだ、とも。
私は母に似たかった。顔も容姿もすべて、母に似ていたかった。そうしたら、母は私を認めてくれるかもしれない、と。その日から突然、私はモノが食べられなくなった。
それが転じて過食嘔吐になったときには、もう我武者羅だった。食べることは罪であり、でも私はその罪を犯す存在。赦されない存在。所詮は赦されない存在、と。私は自分に自分でレッテルを貼った。
嘔吐しながら、私は便器の中浮かび上がる母の顔を見つめていた。母の顔に向かっていつも嘔吐した。それがなおさらに、私の罪悪感を煽った。
ねぇ穴ぼこさん、私はあの頃、一体どうするのが、一番よかったんだろう。いや、そんなこと今更問うても仕方ないことは分かっているのだけれども。
あなたの中心には怒りが在って。私はできるならそれを昇華させたいと思っている。でも。
あなたに私が出来ることは何なんだろう。改めて、私は問いかける。今の私が今、あなたにできることは、何なんだろう。
自分を赦すこと、認めること、受け容れること。そんな単語が、私の中にふつふつと浮かぶ。簡単なようでいて、すごく難しい。
でも気のせいだろうか、穴ぼこと「サミシイ」は、根っこのところで繋がっている気がするのだ。気のせいだろうか?
穴ぼこは、なんだか少し、遠くなった。私が座った位置から、少し遠ざかり、私を見守っている。そうか、私は自分のことにばかりかまけて、穴ぼこに耳を傾けるのをおざなりにしていた。そのことに気づいた。
ごめんね。私は謝る。また改めて出直してくるよ、と声を掛ける。立ち上がりながら、ふと、私は母に対して怒っていたんだ、同時に、自分が生まれ存在していることに、怒っていたんだと思いつく。
これは一体、どうやったら修正がきくんだろう。特に後者、自分が産まれ存在していることに怒っている、というその怒りを、穏やかにさせる術は?
とりあえず一度考えるのを棚上げしよう。今多分私は、過去にぐるぐる巻きになっている。
「サミシイ」に会いにゆく。おはよう、「サミシイ」。私は声を掛ける。「サミシイ」の目は、潤んでいた。もしかしたら私が来ないと思ったのかもしれない。遅くなってごめんね、と私は声を掛ける。
私は「サミシイ」に、昨日の授業での、アートセラピーやその後の分かち合いの様子などを話して聞かせる。しんどかったけれど、実りの多いものだったよ、と伝える。そしてその後、ちょっと嬉しいことがあったんだ、と話す。人と人との間にいると、こんな素敵なこともあるんだよ、と。
「サミシイ」には、人と人との間にいる、というそのこと自体が、あまり想像できないかのようだった。でもいい、ここから始まるんだ。育て直し、生き直し。
辛いことも、嬉しいことも、楽しいことも、悲しいことも、それぞれに、分かち合っていけたらいいと思う。そうして、私と「サミシイ」が共に、成長していけたらいい、と、そう思う。
私が話をしている間、「サミシイ」はただじっと聴いていた。聴きながら、つい昨日生まれた緑を、眺めていた。
砂地に緑が咲き誇るなどということは、本来あり得ないだろう。それでも。いつかこの地が、緑溢れる場所になったら、どれほど素敵だろう、とも思う。
私はじゃぁまた来るねと挨拶し、その場を後にする。

授業の後、友人と話をした。その折、友人が、私は自己開示が全くできないのだ、ということを言っていた。気づいたら、みんなの喜ぶ顔、嬉しい顔が見たい自分がいて、そのためなら役割を買って出る、という自分になっていた、と。そうしているうちに自分の本当の気持ちがどんなものだか、分からなくなってしまった、忘れてしまった、と。そういったことを彼女は話していた。また、自己開示を、たとえばしたとして、それに対して批判的な意見や拒絶が返ってくることが何よりも怖い、それなら何も言わないでいる方がいいんじゃないか、とも言っていた。
彼女は幼い頃から、道化役をかって出ていた。そうしていることが当たり前で、そうじゃない自分など、もう考えられなくなっていた。そうして気づけば大人と呼ばれる年頃になり、子供も居り。でも、学校で勉強をするほど、いろいろなところで躓く、と。このままでいいんだろうか、ということも思うし、このままじゃだめだとも思う。でも、どうしたらいいのか、よく分からない。
彼女の話に耳を傾けながら、今、彼女はどれだけの思いで必死にこちらに向かって自己開示してくれているだろう、と思う。それはきっと、彼女にとってとても大変な作業で。それを今為してくれていることに、私はまず感謝した。
自分には価値がない、自分だけでは何の価値もない、相手の望むとおりの役割を果たしてこそ、ようやく自分には価値が生まれる。彼女はそんなふうに考えているようだった。でもそれだと、相手の反応次第で、自分の価値が崩れ落ちることも、ある。あぁやっぱり、所詮私は、と、さらに落ち込んでしまうことだって、ある。
自分で自分の価値を認めてあげること、大切なんだなと改めて思う。誰と比較することもなく、自分で自分を批判することもなく、あるがままの自分を受け入れ、認め、赦してあげること、とてもとても、大切なことなのだろうと思う。
ひとっとびにできることじゃぁない。手が届くことじゃぁないけれど。
苦悩している彼女の横顔を見ながら、私は祈る。どうか自分には価値があることを、友人がいつか満面の笑顔で自ら抱きしめてあげられるようになりますよう。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。私は左に、娘は右に。
見上げると、青空が広がってきた。雲のかかる部分が多いとはいえ、それでも青空は青空。気持ちがいい。空を見上げて歩いていたら、もう少しで階段から落ちるところだった。危ない危ない。
海と川とが繋がる場所。釣りをしている人の姿が。この川でもこんなふうに釣りをしている人がいるとは。それを見やりながら、私は海鳥の姿を探す。数羽だけれど、橋の下に集っている。何を合図にしたのか、それらが一斉に飛び立つ。飛び出す瞬間の羽の動きが、私は大好きだ。
さぁ、今日も一日が始まる。重たい鞄を背負い直し、私はまた一歩、歩を進める。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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