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2010年04月05日(月)

しとしとと降る雨。その気配は部屋の中にまで滲んでいる。窓を開けベランダに出る。ベランダの、まだ直していない洗濯物干し、斜めに立てかけてある竿に、雨粒が順繰り、並んでいる。私はそれを指でさぁっと撫でてみる。ぱらぱらぱらと飛び散る雨粒。でもそのすぐ後からまた、雨粒が溜まってゆく。同じ場所に。まるでそこには、雨粒の道があらかじめ敷かれているかのよう。
イフェイオンたちは変わらず元気に咲いていてくれている。その六角の星型の花弁には、雨粒がぽつり、ぽつりついている。指で弾くと、ぽろろん、と音を立てて雨粒が落ちてゆく。もちろんその音は私の目の中で。
ミミエデンはまだあれから新しい芽を出していない。だから病気がどうなっているのか、ちょっと今分からない。分からないが、すでに出ていた葉の中に、あやしいものが潜んでいる。私は念のため、それも指先でそっと摘む。
この週末の間にパスカリがぐんと葉を伸ばした。こんもりと茂みになり始めたその姿は、茂みが上のほうにあってちょっとアンバランス。でもかわいい。ベビーロマンティカとマリリン・モンローは相変わらず元気でいてくれているようで。これでもかこれでもかというほどに緑を茂らせている。この鉢の大きさで本当に足りているんだろうかと、ちょっと心配になる。
部屋に戻ると、ゴロが回し車を回しているところ。おはようゴロ。私は声を掛ける。彼女は声に気づかなかったのか、しばらく車を回し続けている。私はそれをただ見つめている。やがて回し車を止め、潤んだ瞳でこちらを見上げるゴロ。私がとんとん、と扉を叩くと、とことことやってきて、後ろ足で立つ。私はひくついている彼女の鼻先を、ちょんちょんと指先で触る。
顔を洗い、鏡を覗く。ちょっと白っぽい顔がぬぅっと鏡に浮かんでいる。おはよう。私は自分にも声を掛けてみる。そうして目を閉じ、自分の体の内奥に耳を澄ます。
今朝一番に感じたのは、下腹部の鈍い痛み。とてんと横たわるように小さくそこに在る鈍い痛みは、まるで、自分はここに在るのよと主張しているようで。私はちょっと笑う。そんなに主張しなくても、私はあなたがそこに在るのをちゃんと知っているよと声を掛けてみる。あぁ、そうなの、と、少し安心したような鈍い痛みは、ほうっと息をつく。私は少し離れたところから、彼女を見つめる。あなたは自分が女だってこと、ちゃんと今も意識している? といきなり言われて、私は慄く。いや、意識していないわけじゃぁないけれども、そう言われると、常に意識しているわけじゃぁなさそうだ、と思う。いやむしろ、やっぱり、自分が女だということは、あまり意識しないようにしているのかもしれない。まるであなたは自分の性を汚いものって思ってるみたい。痛みはそう言って嘆いている。だから私は言ってみる。あなたにはそう思えたのね。そうか、だとしたらごめんなさい。でも私も正直、どう扱っていいのか、いまだに良く分からないの。正直に言ってみる。自分が女だってことは分かっているのだけれども、それを、意識すると途端に不自由になる気がして、でもじゃぁどうしたらいいのかっていうのが、私には分からないのよ。汚いものって思っているわけじゃぁないけれど、女で在るが故に背負ったものが多すぎて、重すぎて、きついのかもしれない。私はできるだけ正直に彼女に言ってみる。彼女は黙ってしまった。あぁ、早く私の気持ちを言いすぎてしまったと私は途端に後悔する。まず彼女の気持ちを全部聴くべきだった、と後悔する。でももう遅い。彼女はじっと黙って、何か考えている。だから私も黙ることにする。黙ってただじっと、彼女を見つめている。汚いって言ったって、きついって言ったって、それがあなたなんじゃない。それが私なんじゃない。そんなこと言われたって私は困る。彼女がぼそり、そう言う。確かにそうだ。それがあなたで、それが私で、だからそんなこと言ったって何も始まらないのだ。あなたは私にどうしてほしいと思っているの? 私は尋ねてみる。すると彼女は、女であることを嫌がらないでほしいの、嫌わないでほしいの、と応えた。はっとする。私はつらいとは思ったことはあったが、嫌ってはいないつもりだった。それが彼女には、少なくとも彼女には、私が私を嫌悪しているように見えていたのかと。それが伝わった。
そう言われると、全身でいやそんなことはないと否定するだけの力が自分にはないことに気づいた。昔ほど自分を嫌っているわけではない。好きになろうと努力はしてきた。今ではそれなりに、自分のいろいろな部分を私なりにだけれども受け容れてきたつもりだった。でも。
あぁまだまだそう見えるのか、と。そう思った。ごめんね。私はとにかくも、彼女にそう伝えてみる。私はそこまで思っていたつもりはないのだけれども、あなたにそう思えたのね、だとしたらごめんね。そう言ってみる。彼女は黙ってこちらを見つめている。あなたに起きたことは、私だって分かっているけれど、でもだからって、私を否定するなんてことは、してほしくなかったの。彼女がぼそり、そう言った。その言葉は私には、重かった。いろいろなことが走馬灯のように私の中に浮かんできた。まるで彼女をスクリーンにしてそれが浮かび上がるかのようだった。様々な場面で、そうあれ以来様々な場面で、私は私の性を否定してきた、それは、間違いはない気がする。彼女の言う通りだ。そうすることで何とか私はその場を越えてきたのだ。そのことを認めたら、下腹部が余計に重くなった。どくん、と痛んだ。そっとその痛みに手を添えた。すると痛みはからからと回り始め、少し小さくなった。正直あなたに対して、私はまだまだ、どうしたらいいのか分からないの。でも、あなたがここでこうして思っていることは、ちゃんと分かった。だからまた改めてここに来たいのだけれど、それでもいいかしら? 私は尋ねてみる。彼女がこくんと頷く。私はありがとうと言って、手を振る。また来るね、と。
穴ぼこは、そうした私と彼女のやりとりを、離れた場所から見ていたようだった。ぐぅん、ぐぅんというような音と共に、穴ぼこが動いているのが分かる。おはよう穴ぼこさん。私は挨拶をする。穴ぼこは何も言わないが、間違いなく私と彼女とのやりとりを見ていたのだなと、それが伝わってくる。まるでそれは私にも関係している、と言わんばかりに。ねぇ穴ぼこさん。おはぎ、今度私が久しぶりに作ろうと思うのだけれども、あなたは食べる? 尋ねてみる。穴ぼこは何も反応しない。そうだよね、おばあちゃんのおはぎと私のおはぎとは違うよね。それに、あなたはそういうことが言いたいのとはまた違うんだもんね。好きなものを好きなように食べることができたあの頃が、懐かしいんだよね。食べることをどこかで拒絶している今の私がおはぎを作ったからって、あなたは食べたいわけじゃぁないよね。私はちょっと悲しくなってそう言ってしまう。そう、今私がおはぎを作って、私が食べてみたからといって、私はきっとどこかで拒絶するだろう。食べることを。これを食べていいのだろうか、と思うんだろう。いやそもそも、食べたいと思えるだろうか。素直に。
私は継げる言葉が思いつかず、黙り込む。穴ぼこはそんな私を見つめている。だから私は試しに言ってみる。ねぇあなたは、今、私に一番に何をしてほしい?
穴ぼこはただじっと私を見つめている。あぁそうか、穴ぼこはただ私に、素直になって欲しいだけなんだ、と気づく。誰かと比較したり、誰かの批判を気にしたりすることなく、私自身に素直になってほしいだけなんだ、と。それはとても、難しいことのように思えた。比較も批判も非難も、何もかもを流して或いは受け容れて、その上で私らしく私が笑っていられるようになるのは、とてもとても難しい、そう思えた。でも穴ぼこは、私にそれを願っているのだと、それが分かった。
私は穴ぼこと見つめ合う。どうしていいのか分からなくなってしまった。安請け合いはできない。できないことをできるなんて易々と言うことなんてできやしない。そんな言葉穴ぼこだって欲してはいない。
ちょっと気持ちを整理してから、またあなたに会いにきてもいいかしら? しばらく考えて、私は彼女にそう言ってみる。彼女はただ私を見つめている。じゃぁ、そうするから、また今度まで待っててね。また来るね。そう言って私は彼女に手を振る。
そうして私は次に、「サミシイ」に会いにゆく。「サミシイ」は相変わらず砂の上に横たわり、半ば砂に埋もれるようにして横たわり、私を見つめていた。おはよう、私は挨拶をする。あれからちょっと考えていたのだけれども、私、結構ひとりが好きな子供だったのね、と笑って言ってみる。いや、ひとりが好きだったわけじゃない、言葉の暴力に晒されるくらいなら、ひとりがよかったのだ、と、言ってからはっと気づく。あぁそうか、だから私はひとりになりたかったのか、と。そうして「サミシイ」を見つめると、今頃気づいたのかというような、寂しげな顔をしてこちらを見つめている。だから私は言ってみる。ごめんね、今気がついた。そうか、そうだったんだね。父母の、特に母の言葉の暴力に晒されるくらいなら、あなたはひとりでぽつねんと居る方がずっと楽だったんだね。でもそれが、できなかったんだね。あの頃の私は、それを選ぶ権利もまだ、なかったから。私はぼそりとそう言う。「サミシイ」は変わらず私を見つめている。
そう、あの頃私はまだ、何も選ぶ権利など持っていなかった。父母の庇護のもと、生きるしか術はなかった。その一番近しいはずの母の言葉の暴力はだから、或る種、絶対的だった。私が存在するからにはそれが在る、というような、そんな関係だった。だから私は、こんなふうになるなら私なんていなくなればいいと思ったのだった。
あの頃は、死ぬなんてことは、知らなかった。死ねば終わりにできるかもしれない、なんてことはだから、考えも及ばなかった。ただ、間違いなく自分なんていなくなればいい存在なのだ、と、いなくなればいいんだと、そう思っていた。
そしてそれは、私の人生全体を覆った。何かにぶつかるたび、あぁだから私なんていなくなればいいのだ、と、存在していることが間違いなのだと、思うようになったのだった。私の人生脚本のひとつは、あの頃にすでに、できあがっていたのだった。
ごめんね。自然に私はそう言っていた。守ってあげられなくてごめんね。そう言って、「サミシイ」を見つめた。その時ふっと、「サミシイ」の体が小さくなったように思えた。気のせいだったのだろうか、でも。ほんのひとまわりだけれども、小さくなった、そんな、そんな気がした。
また来るよ、だから、あなたの話をもっともっと聴かせてね。私はそう言ってみる。「サミシイ」はじっとこちらを見つめている。私は手を振って、その場を後にする。
どのくらい時間が経ったのだろう。分からない。気づけば、電話が鳴っていた。

お湯を沸かし、オレンジスパイサーというハーブティーを入れる。濃い目を飲みたくて、二袋入れてみた。大きなマグカップの中、濃く暗いオレンジ色の海が広がる。私はさっき見てきたことたち、感じてきたことたちを、心の中で反芻する。そうして、重くきつい気持ちになった。どれもこれも、私が放ってきたことたちだった。間違いなくそうだ。私が生き長らえるために、そのために、放置してきたものたちに間違いなかった。だからつまり、彼女たちを置き去りにしたのは、間違いなく私だった。
テーブルの上、百合が蕾を開かせた。橙色の花びら。すっと伸びるその姿は、なんて凛としているのだろう。その隣、白薔薇がまだ咲いていてくれている。薄い煉瓦色のガーベラと山百合と白薔薇。その色の対比が、テーブルの上、賑やかで。私はふっと心が和むのを感じる。

じゃぁね、それじゃぁね。また後でね! 手を振って別れる。娘は今日から小学五年生。私はバス停へ。
小降りだけれども雨は降り続く。今日一日こんな天気かもしれない。私は空を見上げながら思う。手を伸ばすと、雨粒がぽつり、ぽつり、私の指先に落ちてくる。
やって来たバスは珍しく空いており。私は後部座席に座り、本を広げる。一度広げてはみたが、集中できず、車窓を眺めることにする。港の方、けぶる景色。行き交う人たちはみな、傘の花をさしている。
海と川とが繋がる場所も、今日はどんよりとした色合いで。海鳥たちが橋の脇で休んでいるのが見える。こういう日、彼らはどんなふうに食事をするのだろう。
歩道橋を渡り、向こう側へ。
さぁ一日がまた始まってゆく。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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