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2010年04月09日(金)

目を覚ますと、回し車の音がからかららと響いている。これはココアなんだろうなと思いながら私は起き上がる。そうして窓を開ける。ぬるいとは言えないけれども、決して冷たくはない大気がそこに横たわっている。風がない。最初にそう思った。
ベランダに出て外を見やる。街路樹に、一昨日あたりから新芽が見られ始めるようになった。まさに萌黄色の、まだまだやわらかなその色合いが目に眩しい。ベランダの手すりに掴まって手を伸ばしてみる。わずかに指の先、触れる若葉。その感触は目にあったものと同じ、本当に本当にやわらかな、羽毛のようにやわらかな感触で。私は何だか自然に顔が綻んでくるのを感じる。
空はもうずいぶん明るくて、雲はほとんど見られない。晴れの空だ。私は姿勢を元に戻して、イフェイオンに目をやる。もう枯れてきた花もあり。茶色くなったその花殻を、私はひとつひとつ摘む。今までありがとう、ご苦労様、と思いを込めて。
ミミエデンは、あれからしばらく新芽を出していない。新芽を出していないから、病気の具合が良く分からない。心配だけれど、どうしようもない。ただ見守るばかり。その脇の、挿し木をしてある小さめのプランターの中、新芽を出しているものと、立ち枯れたものとがそれぞれ。私はもうすっかり枯れたものをそっと抜く。ごめんね、育ててあげられなくて、そう言いながら、抜く。正直、もうどれがどの樹だか、忘れてしまった。今若葉を湛えているものが、どの種類だかなんて、今の時点では分からない。さて、誰が生き残ってくれているんだろう。ちょっとどきどきする。もちろんまだまだ油断はならないのだけれども。
パスカリたちのプランターの方を振り返り、一枚一枚、葉を見つめる。今のところ病葉は新たにはない。一番端の、確か赤紫色の花を咲かせる樹が一番小さく、新芽は僅か。それでも小さな葉を空に向かって広げている姿は、何ともいえず健気だ。
部屋に戻り、顔を洗う。今朝はちょっとすっきりした顔が鏡の中に見られる。私は目を閉じ、内奥を辿る。
おはよう穴ぼこさん。私は挨拶する。私はそっと、穴ぼこの邪魔にならないよう、穴ぼこの中を覗く。あのマグマのようなものはもうそこにはなく。代わりに燃える炭火のような、そんな感じの色がそこに在った。燃えてはいるが、それはとても、穏やかだった。燃えていなければ、まるで私が持ち上げられそうな、そんな大きさ。でもまだ手は届かないのだが。
そこでふと、先日会話をしたときの、母の言葉を思い出す。あなたには怒りが足りない。そう言われたのだ。あなたは怒るよりも先に、自分を責めて落ちていく。そのくらいなら、怒りをもつほうが健康的だわよ。彼女はそう言っていた。
健康的なのかどうかは分からないが、私の中に怒りが足りない、ということは、何となく分かる気がした。
私はじっと耳を澄ます。空気が揺らいでいるのが分かる。炎は、燃え続けるために空気を食らっている。その、食らわれる空気が揺れている。
穴ぼこさん、あなたの中心は、何処にも向けられない怒りだったんだよね。私はその怒りを、いつか受け取りたいと思っている。そうして、もっと安全な場所に、怒りを移してあげたいと思っている。私は穴ぼこに伝えてみる。
今は、まだ燃えているから、このまま私がそれを手にしようとしたら火傷してしまうから、申し訳ないけれどもあなたの中に在てもらうしかないのだけれども、でもいずれ、その怒りにも居場所を見つけて、ちょうどよい場所に置いてあげたいと思っているんだ。
穴ぼこは、ちょっと不安な顔をしている。それはそうだ。これまで自分の中にずっと在ったものを、他のところに移すと言われて、不安に思わないものはいないだろう。慣れ親しんだものがどこかに行く、となったら、それは不安に違いない。
でも、同時にふっと思う。もしかして、この穴ぼこが、その、ちょうどよい場所なのか? と。私は穴ぼこをじっと見つめる。そうか、私を火傷させないように、ここに囲って、奥底に沈めておくのが、ちょうどよいと穴ぼこは思ったのだ。だからこその、この深遠なる穴なのだ。私は納得した。
ありがとう、そうなんだね、あなたは私をこれ以上傷つけないために、この穴を穿ったんだね。ごめん、そのことを、忘れていた。
穴ぼこは、まるで、ほっとしたように、ひゅぅっとひとまわり、小さくなった。闇は闇で、そこに在るけれども、それでも、私にはずいぶんその闇が、近しいものになってきたようにさえ感じられた。穴ぼこ自体、私にはもう、ずいぶん親しい者だった。
私の中に在る穴ぼこ。私のすべてではなく、私の一部である穴ぼこ。その中には怒りが在って、静かに燃えている。でもそれはいつか炭のように落ち着いてもくれるんだろう。いつかきっと。
じゃぁまた来るね。私は挨拶をしてその場を去る。
なんだかいつもより、背中がすっきりしているような、そんな気がした。
おはよう「サミシイ」。私は声を掛ける。「サミシイ」はもう、ちゃんと姿を現している。昨日と変わらず、体育座りをして、こちらを遠慮がちに見つめている。そうしてひとつ変わったものがあった。砂に、砂紋が現れたことだ。それまで砂は荒れ果てて、枯れ果てていた。これでもかというほど荒廃していた。その砂地に、砂紋が現れたのだ。
「サミシイ」の隣に座り、私はさらに目を閉じてみる。さらさらと静かに流れる砂の音が、聴こえてきそうなほどの静けさだ。
今気づいた。「サミシイ」は口を持っていなかった。口がないのだ。いや、目はあるのだが、鼻と口がない。ふと気づく。そうか、「サミシイ」にも怒りがどこかにあったのかもしれない、でもそれは全部内側に向くばかりで、外に向くことはなかったのかもしれない、と。自分を傷つける刃でしか、なかったのかもしれない。
鼻も口もない、という状態が、私にはなんだかとてもよく分かる気がした。鼻も口もその機能を失ってしまったのだ。外に向かう術が、もう何処にもなかったんだ、「サミシイ」はそういうところで生きてきたんだ、と、改めて気づく。
そうして、ふと感じる。「サミシイ」の中に横たわっているものは、哀しい、でもあったのかもしれない、と。切ない哀しみ。
そう思った瞬間、砂がふわっと舞い上がり。舞い上がった砂から、ほんの一握りの緑が産まれた。私の小指の先ほどの、小さな小さな芽。
それまで砂しかなかったその場所に、緑が産まれた。私は涙が出そうなほど嬉しかった。あぁ、私はもう大丈夫、と、そう思った。
振り向くと、「サミシイ」が不思議そうな顔をしていた。そうか、「サミシイ」にとっては、知らないものなのだ、と気づいた。そうか、そういうことを私は、「サミシイ」にこれから伝えて育てていくのだ、と気づいた。
だとしたら。伝えていきたいことが、私には山ほどあるように感じられた。寂しいや哀しいでできている「サミシイ」に私が伝えてゆけること。私がこれまで生きながら、味わってきた楽しいことや嬉しいこと、切ないこと、全部。
あぁ、そうやって私は私の中に育んでゆけるのか、と思ったら、とてもとても嬉しい気持ちがした。確かに、父や母との間で、営めなかったものたちが在る。それはどうしようもなく、在る。でもそれは、多分、今更求めても、きっと叶うことは、ない。
それを諦める、というわけではなく。私は私の中に、育めばいいのだ、と気づいた。それはとてつもなく、大きなことのように思えた。
そういえば。「サミシイ」は、小さい頃の私に、瓜二つだ。今更だけれど、気づいた。ここに口や鼻があったら、私そのものだ。私は私を、育て直せばいい、それだけの、ことだったんだ。
「サミシイ」、ありがとう。私は、抱きしめたくなるのを何とか堪えながらそう言った。「サミシイ」は訳が分からないような顔をしていたが、少しして、ほんのり頬を染めていた。それが「うれしい」なのかどうかは分からないけれども、それでも「サミシイ」が、ちょっとだけ、喜んでくれているような、そんな気が、した。
また来るね。私はそう言って、その場を後にした。
開け放した窓から、微風が吹き込んでくる。私はその風を僅かに感じながら、お湯を沸かす。どんなに清潔に保たれた部屋でも、きっと、窓を開けて風を時々流し込んでやらなければ、空気は澱む。水が腐っていくように、空気も澱む。だから私は、窓を開ける。

娘と今日のお昼はホットケーキを作ろうということになっており。私はスーパーでホイップクリームを買っていく。苺はすでに買ってある。
帰って来たばかりの娘と、ホイップクリームを泡立てる。なかなか時間がかかるもので、娘はもう飽きてしまった。疲れた疲れたと言いながら、肩を叩いている。残りを私がやることになり、私は開け放した窓のそば、立ったまましゃかしゃかと泡立て器をかき回す。
ホットケーキを焼き始めた娘だが、ひっくり返す方法が分からなかったらしい。呼ばれて私がひっくり返した時には、もう丸焦げになっていた。あちゃー、やっちゃったね。私たちは顔を見合わせて苦笑いする。私が食べるからいいよ。娘がそう言って、皿に盛る。そうして新しく生地を入れて、焼き始める。私はそれを後ろから見守っている。
ママ、ひっくり返して! 娘の声で、私はひっくり返す。今度はうまく焼き色がついたところで。私たちはほっとする。
そうして娘が二枚、私が一枚、ホイップクリームと苺で飾り付けして食べ始める。すると。私、実はホイップクリームって好きじゃないんだよね。え?! そうなの?! 子供ってみんなホイップクリームが好きだと思ってるでしょ。うん、思ってた。違うんだよなー、私、好きじゃないんだよなー。えー、最初に言ってよ、ママ、サービスのつもりで買ってきたのにぃ。ママ、考えが甘いんだよなぁ、このホイップクリームは甘くないけど。あ、ちょっとお砂糖少なめにした…。ママってちょっとズレてるよね。…スミマセン。
そう言いながらも、結局娘は食べきった。ホイップクリームを山ほど乗せて。

それじゃぁね、じゃぁね。昨日録画したテレビ番組を見るのに夢中になっている娘に声を掛ける。朝見たら、夜テレビなしだからね! わかってるよ!
外に出ると、少しひんやりした空気が私のうなじを撫でてゆく。私は階段を駆け下り、バスに飛び乗る。新一年生なのだろう、お母さんに連れられた男の子が、えっこらしょとバスに乗り込む。でも、お母さんと一緒にいるのがちょっと彼にはかっこ悪いらしい、一生懸命お母さんに、向こうに行ってて、向こうに行って!と言っている。なんだかそれが、かわいらしい。
川を渡るところで、私は立ち止まる。降り注ぐ陽光に輝く川面。きらきら、きらきらと輝きながら流れ続ける。
私は試しに、「サミシイ」に話しかけてみる。ねぇ見てごらん、きれいでしょう? こんな輝きに満ちた世界も、在るんだよ。寂しくて、哀しくて、たまらないこともたくさんあるけれども、それでも、世界は光に満ちて、満ち溢れて、いるんだよ。
川を渡って風が吹いてくる。爽やかな風。私はひとつ、深呼吸をする。
さぁ今日もまた、一日が、始まる。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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