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2010年07月27日(火)

雷がきらり、きらりと夜空に光る。まるで瞬くように。私は雷を遠巻きに眺めているのは好きだ。窓の内側から、しばし見惚れる。しばらくして娘から電話が掛かってくる。ママ、大雨だ、大雨。サンダルがぐちょぐちょだ! 大笑いするかのような娘の声が受話器の向こうから響いてくる。つられて私も笑う。気をつけて帰っておいでね。うん、大丈夫ー! あっけなく電話は切れる。
窓を開け放して眠るわけにもいかず、仕方なく窓を閉める。閉めた途端むわっとした空気が部屋に篭る。これじゃ眠れそうにない、と思いながら隣を見ると、娘はあっという間にくうくう寝息を立てている。見事な寝入りっぷりだ。私は羨ましくそれを見つめながら、じっと横になっている。
少し前、友人とやりとりしたことを思い出す。また猫と暮らしたいと願う友人。でも友人も私と同じくPTSD持ちだ。しかも一人暮らし。病人が一人暮らしで猫を飼うというのは、なかなか世間に受け容れられないらしい。彼女はこれまで、生まれて二週間の子猫を育てたこともあれば、目の見えない大人猫をしっかり見送るところまで一人でしている。それでもだめなのか。その現実を見せ付けられて、私は自分の幸運さを思う。私が猫を飼い始めたそのとき、確かに私はまだ病気ではなかった。ペットショップの広告でちらり見つけ、どうしてもと思い連絡したところ、先方がにこにこ笑いながら二匹の子猫を連れてきてくれた。元気なトラ猫一匹と、もう一匹、籠の中からなかなか出てこようとしないぶち猫一匹。先方は、元気な方を勧めてくれたのだが、私は何故か、その出てこようとしない一匹が気になって仕方がなかった。私が引き受けてやらないと、この子はこのまま出てこないんじゃないか、なんて勝手に思った。そうしてその子を貰うことにした。二匹目も、同じ飼い主さんが、母親が同じだから、つまりは兄妹になるから、一緒に飼ってやってほしい、と連れてきてくれた。その頃私はすでに病持ちだったが、そんなこと先方には関係なかったらしい。でも、今友人の現状を見ていると、私の場合は本当に幸運だったとしか言いようがない。「仕方ないんだよ、里親募集のところ、みんなそうだから」。友人がか弱く笑う。でも。どうにかならないものなのか。私は悲しくなる。これからも動物病院やペットショップの広告をよく見ておくからね、と約束し、電話を切る。
病気持ちであることは、確かに、他のことにもいろいろ影響する。私が仕事を探す場合にだって、影響している。共存できないものなのか。PTSDなんて、いつ治るか分からない病気だ。治らなければ一生動物と暮らすことができないということなんだろうか。何処までも仕事も何も中途半端で行かなくちゃならないってことなんだろうか。悲しい。本当に悲しい。
白み始めた空の下、私は窓を開け、外に出る。昨日の雷が嘘のように晴れ渡っている。薄い水色の絵の具をひいたような空。私は大きく深呼吸してみる。ふと見ると、桃色の薔薇の三つ目も咲いている。あぁよかった、これで三つ、ちゃんと咲いた。ぽろん、ぽろん。指で弾くと、音色が聴こえてきそうだ。
アメリカンブルーも一輪咲いた。真っ青な花びら。それを見ているだけで心がほっと落ち着く。新しいプランターの中、根付いてくれたようで、それもまた嬉しい。
ラヴェンダーとデージー、絡まり合ったものをそれぞれ解く。黄色いデージーの花が忙しげに次々咲いている。その花を一輪も落とさぬよう気をつけながら、絡まった枝葉を解いてゆくと、やっぱりラヴェンダーの香りがふわんと、その間から漂ってくる。いい匂い。きれいな匂い。
マリリン・モンローとホワイトクリスマス。それぞれ、ようやく新芽を芽吹かせ始めた。ほんのちょこっと顔を出し始めた新芽。かわいらしい。他に気配は何処にもないか、私はあちこち樹を見つめる。一つ、二つ、これがそうなんじゃないかというものを見つける。力を蓄えて、また秋に向けて芽吹いていってほしい。祈るようにそう思う。
ミミエデンはもうだいぶ紅色が消え、緑色に変わっていっている。人がもし紅色から緑色のグラデーションを作ったら、なんだか奇妙な色合いになるんだろうに、こうして自然が生み出す色は、実に滑らかで、止まることがない。歪みもなく、粉を噴くこともなく、無事に開いた新葉。これからたくさんの陽を浴びて、元気に育っていってほしい。
ベビーロマンティカは、一輪目が咲いた。葉の影になっていて、ちょっと表からは分からないけれども。明るい煉瓦色と黄色のあいのこのような色味。香りは私には殆ど感じられないのがちょっと残念だけれども。
パスカリも、白い蕾をくいと持ち上げて、空に向かっている。勢いよく根元から出てきた新しい枝に、古い枝が重なって邪魔をしている。どうしよう。やっぱりこれは、古い枝を切ってやるしかないんだろうか。迷いに迷った挙句、古い枝を二分の一のところで切り落とし、切り落としたものは挿し木にする。
ふと顔を上げると、金魚と目が合う。そうだ、昨日餌をやるのを忘れてた。私は慌てて餌を振り入れる。ゆっくりとした動作で、いつものように一度潜り、それから浮き上がって餌を突付く金魚たち。このゆったりとした速度、私にはないテンポだなぁと、いつも苦笑してしまう。
行きつけの喫茶店でいつも会う留学生と、娘を交えておしゃべり。草食男子について調べてるんだって、と娘に話すと、娘がいきなり、草食男子、うちの塾にもいるよ、と喋り出す。すごく弱っちくて、いつでもいじめられてるんだよね。からかわれてるっていうか。え、そういうのを草食男子って言うの? オトナとコドモでは、意味が違うんですね、きっと。微妙だなぁ、なんか。三人とも笑い出す。
ねぇママ、Hちゃんに猫、見つけてあげられないかなぁ。うーん、じゃあ今度、学童のNさんたちに訊いてみるだけ訊いてみようか。うん、そうだね、NさんもTさんも猫大好きだから、何か知ってるかもしれない。うん、そうしよう。
ねぇママ、うちは病気でも、ハムスター飼ってるよね。うん、そうだね。でもそれは、買ったからね。買うのはいいの? 買うのはいいのかもしれない。サトオヤっていうのになるのが駄目なの? そうなんだと思う。なんか変だねぇ。何が変だと思う? だって、Hちゃんは、これまでにもサトオヤになったことあるじゃん。そうだね。そういう経験があっても、駄目ってなるの? 病気持ちだとそんなにいろんなことが駄目なの? そうだね、そういう世の中だね。冷たいね。え? 冷たい。オトナって冷たい。いや、大人が冷たいんじゃなくて、世の中の仕組みが、或る意味、或る部分で、とても冷たいのかもしれない。Hちゃんはさ、自分が具合悪くても、ちゃんと猫さんの世話、してたよね。どんなに自分が具合悪くても、猫さんのご飯とか、ちゃんと用意してたよね。そうだね。一緒に遊んであげてたし、それでも駄目なんだね。そうだね。なんかそういうの、やだね。そうだね。
私は、虐待を受けて棄てられた猫たちのことを、ふと思う。猫たちのことを思うからこそ、猫をサポートする団体の人たちだって神経質になるのだ。次は、次こそはこの猫たちに幸せになってほしいと願うから。…分かっている。十分にそれは分かっている。
何処にも行けなくなった思いが、私の中、充満する。私に何ができるんだろう。何かできないんだろうか。どうしようもないんだろうか。

北海道に住む友人から、本当に久しぶりに葉書が届く。彼女の文字はいつでも、流れるように美しい。万年筆で書かれた文字を、私は何度も辿る。最近ちょっと具合が悪いのだけれども、長年やり続けて来たビーズが商品として売れるようになって、それで何とかやっている、と書いてある。そうか、そうだった、彼女は北海道に渡ってからビーズを習い始めたのだった。いや、もともと手先の器用な子だった。でも、まだ彼女がこちらで暮らしていた頃は、PTSDの症状が酷く、手元も危うかった。それがビーズを始めただなんて。パニックを起こしながらもビーズを探しに買いに出て、そうして商品となるまで作り上げているなんて。嬉しい。
彼女も性犯罪被害者の一人だ。そしてまたDV被害者でもある。この場所に辿り着くまで、長い長い道程が在った。そんな彼女の道程を思うと、私は祈らずにはいられなくなる。できるだけ長く、彼女の平安が続きますように、と。

二人一緒に自転車に跨る。ママァ、本当に私も一緒に行くの? うん。ママのそばで勉強してればいいじゃん。勉強やだよぉ。そんなこと言ってないで。ほら、さっさと走る!
信号を渡り、公園へ。蝉の声が辺りにくわんくわん響いている。娘がぽっかり口を開ける。ママ、すごい蝉の声だね。うん、すごいでしょう? ここは樹がいっぱいあるからね、蝉さんにとっても居心地がいいんだよ。それにしたってすごいねぇ。私たちは池の端に立って、辺りを見まわす。あ、あそこに三匹いるよ、蝉。こっちにもいるよ。娘が次々指差す。見てご覧、私はその足元を指差す。ここから出てきて、生きている間、一生懸命啼き続けるんだよ、蝉は。地面の中の生活ってどういうんだろ。どういうんだろって? 真っ暗でさ、お日様の光も無くて、つまんなくないのかな。わかんない。どうなんだろ。人間みたいに長生きできればいいのにね。ははは、そうだねぇ。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。銀杏並木の影で、信号が青になるのを待つ。陽射しが強い。
ママァ、海が濃いね。辿り着いた海と川とが繋がる場所で、娘が言う。確かに今日の海の色は濃い。緑色と紺色を混ぜたような、微妙な色をしている。
ほら、行くよ。私は彼女に声を掛ける。
さぁ、今日も一日が始まる。私たちは真っ直ぐに、川を上ってゆく。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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