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2010年05月13日(木)

目を開けると午前四時半。少し早いかもしれないが、このまま起き上がることにする。何となく頭が重だるい。まぁこれも、昨日のような出来事があれば仕方がないか、と気にしないことにする。薬を飲むほどの痛みでもないのだから大丈夫だろう。
窓を開けると、明るい陽射しが東から真っ直ぐに伸びてきているところで。地平線あたりに雲がもくもくと溜まっている他は、まっさらな空で。なんだか気持ちよくて私は大きく伸びをする。そういえば昨日の天気は不安定だった。雨が止んだかと思えばまた降り出したり。でも今日は一日すっきりと晴れるだろう。空を見ていてそう思う。
街路樹の葉が風になびいている。風に翻り、ばたばたとはためく葉たち。私の立つところにはそこまで風は届いてこないが、きっと通りを勢いよく風が渡っているんだろう。眩しさを感じて目に手を翳し見やれば、ちょうどトタン屋根に陽射しが伸びてきたところで。金色に輝くその屋根は、街景の中浮かび上がっており。そこだけ別世界のような具合になっている。地平線辺りを漂う雲も、流れている。ゆっくりゆっくりと。すべてがそうして、動いている。とどまるものは、何も、ない。
しゃがみこみ、薔薇たちを見やる。ベビーロマンティカの蕾たちがそれぞれ、綻び始めている。昨日切ってやった花は、今はテーブルの上。まさにぱっくりと咲いている。綻び始めた花びらの、先端は明るい煉瓦色に染まり、そして全体はとても濃い黄色。朱色に近い黄色。嬉しいはずなのに、今日はその気持ちが萎える。その理由は分かっている。分かっているけれど、今は棚上げ。もう少し棚上げ。
マリリン・モンローの蕾も、速度はゆっくりだが、それでも綻び始めている。濃いクリーム色は濃緑色の葉たちの中、ひときわ鮮やかにそそり立っており。凛々と天を向いてそれは在り。切ないほどそれは潔い姿で。私は自然指を伸ばし、蕾に触れる。しんとした冷たさの中にも、温度が在り。私はその温度を確かめる。
パスカリの新芽が、粉を噴いている。私はひとつ溜息をついて、それをそっと摘む。病気になるのは仕方がない。これはもう、どうしようもない。なるときは誰だってそうなる。だから私は飽きずに摘み続けるわけだが、それにしたって。こんなにも出てくるもの出てくるものすべてが、病葉だったら、きっと本人が一番切ないだろうに、と思う。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹の、病に冒された蕾。それでも膨らんできている蕾。私は今朝もそれを見つめる。じっと見つめながら、まだ切ることが私にはできない、と思う。咲いても、粉だらけの花弁になってしまって、もしかしたら樹にとってとてつもない負担になるかもしれないと思うのに。ふと思い出す。私が妊娠した折のことを。誰もが、障害児が生まれるに違いない、中絶しろ、と言った。まともな子が生まれるわけがない、だから早々に中絶してくれ、と。でもあの時私には、そんな選択肢はなかった。孕んだ命を生み出さずに、自らの手で断ってしまうという選択肢は、なかった。この樹たちにとっても、それは同じなんじゃなかろうか。病気に冒されていようと何だろうと、芽吹く命たちを育まずにはいられない。そういうものなんじゃぁなかろうか。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。一本のラヴェンダーはまだ先端をくたりと萎れさせており。今日帰ってきたら、これをある程度のところで切ってやろうと私は心に決める。これ以上このままにしておくわけには、いかない。
そんなラヴェンダーの周り、デージーの芽が、小さく小さく開いている。朝陽を浴びていると、特に、その光の中に埋もれてしまって芽の在り処が分からなくなる。じっと目を凝らさないと逃してしまうほど、それは小さい。それでも生きている。生きて、いる。
校庭に燦々と降り注ぐ朝陽を見ながら、今日はすべてが切ない、と思った。何もかもが切なく見える。切なく映る。それは私の心を反映しているんだと分かっているが。それにしたって、こんなにも一変するものなんだろうか、と改めて思う。するのだよな、と私は納得する。そういうものだ。
部屋に戻り、顔を洗う。思い切り水を出し、勢いよく洗う。鏡の中、映る自分の顔が、どこか歪んで見えるのは、多分、気のせいじゃ、ない。
昨日、一冊の本が届いた。それは予定より一年以上遅れての、出版物だった。それだけ時間がかかったのだなと思いながら、私は封を開ける。一枚目の包装を解いたところで、手が止まった。何となく、見たいような見たくないような、そんな気持ちだった。
この本の出版が形になってきた頃、ひとつの騒動があった。私のまとめた資料が勝手に用いられる、というものだった。それは私にとって大切な大切なものだったから、私は抗った。黙って勝手に出版するという術はないだろう、と、抗った。最終的に、協力者のところに名前が連ねられることに決まりはしたが、私の心持はすっきりしなかった。すっきりしないまま、今日に至っている。
そうして本が届いた。本当なら。喜ばしいものだった。その作家にとって、作家の作品たちにとって、それは集大成といえる代物で。その作家を愛する一人として、私は素直に喜びたかった。でも。
喜べない自分が、在た。
それでも私は本を届けてくださった礼を述べようと、先方に電話をした。すると、開口一番、言われた。これで満足ですか、と。
唖然とした。呆然とした。何が満足なんだろう、と思った。満足もへったくれもあるか、と思った。そして、こんな言葉をいきなり使える相手の心を、疑った。
その人とは、長い時間を共に過ごしてきた。彼女が鬱病に陥った折、私はそばにいた。彼女からのSOSの電話を、いつでも受けた。また、私もその頃病が酷かった。私が発作を起こし、苦しんでいる最中、彼女から電話が掛かってきて、それによって私はどれほど支えられたことか知れない。
そういう、濃密な時間が在った。何年という長い時間だった。そうした中で、彼女から口伝えで教えられたことを私はひとつひとつまとめていった。資料としてまとめた。展覧会を催したりもしたことがあったっけ。思い出すときりがない。
そんな彼女からいきなり、その言葉を突きつけられたという現実に、私は呆然とした。悲しいと思った。そう、悲しかった。たまらないと思った。
言葉は暴力だとよく言うけれど、本当にそうだと思った。諸刃の剣とは、よく言ったものだ、と改めて思った。
彼女の話を聴いていると、まるで私は、金と利権の亡者のようだった。彼女の頭や心の中で、私はもうそういう存在になっているのだと、その時私は改めて知らされた。それはもう、拭いようのないものだった。彼女は私の声など、全く聴いていなかった。
一方通行になってしまったその電話を、私はじっと見つめた。これ以上話しても、何にも生まれないことを、痛感した。
切った電話を、しばらく私は見つめていた。そうして膝の上には、ずっしりと重い、一冊の本が在るのだった。
あの出版社で私は被害者になった。そうして最終的に会社を辞めた。辞めてから、途方に暮れていた私の、一つの支えになったのが、あの作家と彼女との出会いだった。あの時期、彼女やあの作家の存在がなければ、私は超えられてこなかった時間が在った。
そうした過去を、ひとつひとつ、私は噛み締める。噛み締めながら、じわじわと滲み出してくるものを感じていた。そう、もうこれらは、過去、なのだ、と。
過去にそういうことが在った、そのことは、事実だ。紛れもない事実。でも、今はもう、違えてしまったのだ、という、これもまた、歴然とした事実、なのだ、と。
私は膝の上、重い重い本を開く。巻末を見れば、そこに間違いなく私の名が在った。でも今となっては切ない、刻印だった。
私が主張したことは、間違っていたんだろうか。あの時そのまま見て見ぬふりをすれば、よかったんだろうか。いや、それは違う。それはそれ、だ。それはそれ、だけれど。
こんなにも切ないのは何故なんだろう。たまらないのは何故なんだろう。
そうか、私はあなたにだけは、そんなことを言ってほしくない、と、そう思っていたんだ。そのことに気づく。他の誰が何と言おうと構わないが、せめてあなたにだけは、そんなことは言ってほしくない、と、そう思っていたんだ。
私は自分の中で、じわじわと広がってゆくどす黒いものを感じていた。それは痛みを伴っており。私の体を蝕んだ。
同時に、もはやもうあれらは過去なのだ、と、その思いも浮かんできた。すべては過去なのだ。そして今、私たちはもはや、交わりようのないところにそれぞれ、在る。それが、事実。
私は膝の上の本を、そっと閉じた。もう今はこれ以上、見るのはやめようと思った。箱に丁寧に仕舞い、本棚の前にそっと、置いた。いつかこの本を、素直に嬉しいという気持ちで開けるときが来るだろうか。来ると、いい。そう願いつつ。私は本から手を放した。
この本は、一つの別れの形なんだな、と。そう思いながら。
そして、思った。彼女にこれからよほどのことが起きない限り、私は彼女のところへ行くことはないだろう。訪ねることも、電話をすることも、ないだろう。今までありがとう。あの頃の私の支えとして、あなたは間違いなく存在していた。そのことに、ありがとう。そして、どうかこれからの時間が、あなたの、残り少ない時間が、どうか幸多きものでありますよう。

ふと思うのは。少し前の私だったら、こういうことに、耐えられなかったと思う。泣き喚いて、泣き叫んで、抗っていただろうと思う。
でも何故だろう、今は、そうは、ならない。
確かに今私は悲しい。辛い。切ない。胸がいっぱいだ。それでも。涙も零れなければ、叫ぶことも、ない。ただじっと、この現実を受け止めようとしている自分が、在る。
同時に、泣くこともできないのは、辛いなぁと苦笑する。せめて涙一粒でも零れるなら、それに任せて感情を流すことができるんだろうに。今の私はそれも、したくないらしい。
だから私は、淡々と、これを味わおうと思う。この現実を、ただじっと、少し離れた場所から、見つめていようと思う。

ママ、最近ゴロ太ったと思わない? うん、もうココアより大きくなっちゃったよ。これ、ちょっと太りすぎだと思わない? ミルクよりはずっと小さいけどさぁ、なんか体格いいよね。ちょっとねぇ。食べすぎなんだよ、餌の量とか変えた? ううん。そんなことはないけど。話しながら、娘はココアを、私はゴロを手のひらの乗せて撫でている。本当に、ゴロはココアより遅く生まれたにも関わらず、今比べると、ひとまわり大きくなってしまった。大丈夫なんだろうか。ちょっと心配。
ママ、ママ! 何? こっち見てよっ。だから何? 声だけじゃなくてこっち見てよっ。あぁ、ごめん、何? こっち見て欲しかっただけだよっ! な、何よ、それだけ? それだけじゃないってば、ちゃんとこっち見て返事してよ。あぁ、まぁ、うん。ごめん。ママ、今日変だよっ。あぁ、ちょっと仕事でいろいろあって。…。ごめんね。だからって、ちゃんとこっち見てね! ハイ。
怒られてしまった。ごめんと謝ったものの、今日は勘弁してくれという思いもどこかに在った。同時に、ちゃんと線引きをしなければ、とも思った。日常に差し支えるようじゃ、まだまだだな、私。そう思った。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。玄関を開けると光の洪水で。でも風が思ったよりも強い。
自転車に跨り、坂道を一気に下りてゆく。信号を渡って公園へ。池の端に千鳥はいなくて。代わりにざわざわわという葉群れの擦れる音が響いている。今日は池の水面にも、大きな波紋が生じている。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。こちらはもっと風が強くて、銀杏の葉が千切れんばかりの勢いで風に嬲られている。その脇を走り抜け、信号をまた渡ってモミジフウの樹のところへ。ビルの間を抜ける風が、轟々と唸り声を上げている。私はその狭間に立って樹を見上げる。真っ直ぐにそそり立つ樹の、その立ち姿をしっかりと目に刻み込む。
そのままさらに走って海へ。港はもう忙しげに幾隻もの船が行き交っており。汽笛が何処からか響いてくる。巡視船が勢いよく走り出す。
もう一日は始まっている。私も走り出さなければ。再び自転車に跨り、私は勢いよくペダルを漕ぐ。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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