見出し画像

2010年04月08日(木)

起きようと思った瞬間、夢を見ていることに気づいた。その夢を見ていたくて、しばらく目を閉じたままでいた。目が覚めているのと覚めていないのとの狭間で、しばらくうとうとしていた。夢はあっけなく終わり、私は瞼を開ける。天井は昨日と変わりなくそこに在り。私は起き上がる。
窓を開ける。とても寒くなる、と言っていたわりには、あたたかい気がする。もっともっと寒いことを期待していたのだが。ちょっと残念。でも冷えた分、空は晴れ渡り。綺麗な朝焼けが望めそうな。そんな、高い高い空。
イフェイオンが風に揺れている。私の髪も風に揺れる。空の高いところを鳶がくるりと回っている。ゆっくりとゆったりと。その様はとても優雅で。私はちょっと羨ましくなる。こんなとき、翼を持たない自分の背中を、少し意識する。
白い粉を噴いた葉を、数枚見つけ、それぞれに摘んでやる。摘みながら私は正直、他のことを考えている。
部屋に戻り、顔を洗う。洗い立ての顔を鏡に映し、覗き込もうと思ったけれど、やめておいた。何だかちょっと、自分の顔を見るのも今は嫌だ。
自分の内奥に潜ろうとして、すぐ気づく。私の喉元に、引っかかっている重たいもの。重たい、というか、いがいがしているというか。いや、何といったらいいのだろう、苦い苦い、しこりだ。それが現れたのは何故か、私にはもうすでに分かっている。
おはようしこりさん。私は挨拶をする。あなたには言いたいことが山ほどあるのよね。これでもかってほどあるのよね。でも言えないでいるのよね。私は声を掛ける。するとしこりは、さらに苦く苦くなって、私の喉を圧迫する。
そうなんだ、よかったね、と一緒に喜んであげられたなら、よかったのかもしれない。でも、私はそこまで心が広くはない。私にも私の感情というものが在って。だから、私は彼女に寄り添うばかりには、到底なれなくて。
一体彼女は、どういうつもりで私にあんなことを言ったのだろう。ああ言われることで、私がどんな気持ちになるかなんて、全く考えなかったんだろうか。私がどれほど折れ曲がり、しんどくなるのか、考えなかったんだろうか。考えなかったんだろう。だから、あんなにあっさりと、しかも喜び勇んで、私に話をしたのだろう。
それが分かっているから、私は何も言えなくなった。何も、言えることがなくなった。言っても、通じないと思った。私はもう、何も言わなかった。
でもそうやって彼女との話を切り上げた後も、私の中にはどす黒いものが残った。苦い痛みだ。そう、このしこりが、現れたんだ。
私はしこりに話しかける。あなたは言いたいことが山ほどあって、でもそれがどんなことか分かっているから尚更に言えなくて、だからそんなに苦い塊になってしまったんだよね、と。しこりはそれを主張するかのように、さらに苦く苦く染まっていった。それを言ったら、私が崩れてしまいそうだから、だから、あなたは、必死で言わないでいるために、そうやってしこりになっているのよね。私はさらに声を掛ける。しこりは、まるで泣き出さんばかりの勢いで、暴れている。
これまでも、いろいろな場面で、そういうことは、在った。在ったけれど、そのたび流してきた。こういうこともあるさ、と流してきた。でも、今回は、流すのにはとても時間がかかりそうだ。
私は試しに、口に出して言ってみることにした。あなたは怒っているのよね? それどころか、怒りは憎しみにさえ変わりかねない勢いなのよね? 私が言った途端、しこりは、ぱたりと抗うのを止めた。じっとしているしこりに、私はさらに言ってみた。でも何より嫌なのは、そういう自分になること、そういう自分がいるということを認めること、なのよね。認められなくて、そんな自分が存在することが赦せなくて、あなたは戸惑っているのよね。
しこりは、ただそこに在った。相変わらず苦く苦く苦く、そこに在った。私はそれをこれでもかというほど味わった。
あなたは、彼女を自分が飛び出すことで傷つけてしまうかもしれないってこと、思っているんだよね。傷つけたくないけれど、同時に、傷つけずにはいられない気持ちもあるんだよね。あなたは訴えたいんだよね。でも、それをしたら、と思うと、躊躇してしまうんだよね。だからそこで、そんなふうにしこっているんだよね。
私はただ、そう言って、しこりを見つめる。しこりは、じっと黙って、そこに在た。私を、じっと見つめていた。
ひとつ言えることは、とてもとても当たり前のことなのだけれども、彼女と私は、生活の在り方、立場、環境、すべて、違うってことだよ。あまりにも違う世界に生きているってことなんだよ。うん。そのことが、昨日、改めて私にも分かった。それでも、って思うところがあったから、今までいられたわけなんだけれど。でも私は、あなたの存在を無視してまで、それでもと思うことは、できそうにないってことも、分かったよ。
私はしこりを見つめたままで続ける。そうして尋ねてみる。
ねぇ、今私に、一番、何をして欲しい?

しこりは、泣いていた。わんわんと泣いていた。かわいそうなほど、身を震わせて泣いていた。だから私は彼女が泣きやむまで、そばにいることにした。
彼女が泣き止むのを待って、私は彼女の鼓動に、耳を傾けてみた。彼女の鼓動は、とくんとくんと鳴っていて。規則正しく鳴っていて。そして見やれば、最初の頃よりもずっと、小さい姿になっていた。
私は私で、私にできることをやっていけばいいんだよ。身の丈に合った、生き方をしていけばいい。そうして、交われる部分で交わっていけばいいんだよ、交われないものは交われない、そういう立ち位置で、これから接していけばいいんだよ。
大丈夫。私は、あなたがここに在ること、ちゃんと覚えているし、忘れたりしない。私の中に苦くて悲しくて辛いものがあることを、無視したりしない。そうして、あなたがSOSを出したなら、私は間違いなく、あなたの元に飛んでくるから。あなたをないがしろにしたりは、しないから。
私の代わりに、ずいぶん傷ついたね。ごめんね、ありがとう。
あなたのおかげで、私は大丈夫になった。でも、もしかしたらまた似たような場面があるかもしれない、そのときはまたあなたに迷惑をかけてしまうかもしれない。そのときは、よろしくね。
しこりは、しゅんっとさらに小さくなり、小さな塊になって、私の手のひらの上に落ちた。まるでそれは昔見た映画の、飛行石のようだった。鈍く光って、それでも光って、私の手の上に在った。
私はそれを大事に、喉の奥に、しまった。

テーブルの上、山百合とガーベラとが並んで咲いている。明るい橙色と、明るい煉瓦色。同系色の色合いが、テーブルの上を一段あたたかくさせてくれている。
お湯を沸かし、生姜茶を入れる。後でハーブティーも飲むつもりだが、とりあえず生姜茶。
さぁ一仕事、やろう。

はとこの兄が舌癌の手術を受けた。大叔父は名前を聴いたことのないようなこれまた癌で手術を受けた。二人とも、私にとってとても近しい人間たち。
亡くなった祖母のことを思い出す。がりがりに痩せて、最後骸骨のようになって死んだ祖母。最後まで自分が女であることを大切にし、同時に嘆き、泣いていた祖母。抗癌剤で抜け落ちてゆく髪を、それでも大事に結っていた祖母。
誰も彼も、私の周りは、癌に侵されてゆく。それが、切ない。

友人が、最近過食嘔吐をしてしまうのだと打ち明けてくれる。満腹感が全く得られないのだという。満腹感が全くないから、次々食べてしまうのだが、食べ過ぎて吐いてしまうのだ、という。まるで自分の中にブラックホールがあるかのようだ、と彼女は言った。私は即座に、自分の中の穴ぼこを思い出した。そうして、私は自分の穴ぼこの話を彼女に打ち明けてみる。こんな穴ぼこが、私にも在るよ、と。
これまでの彼女のことを考えてみれば、そんな穴が現れることも、全く不思議なことではなかった。まるで現れるべくして現れた、かのような。
それでも何だろう、前回会ったときよりも、彼女は明るい顔をしていた。すっきりした顔をしていた。それがとても、印象的だった。

朝の仕事がいつもより早く終わったので、娘を誘って辺りを自転車で走る。ほら、あれがダイコンハナナの花だよ、薄紫の絨毯みたいだね。私は指を指して娘に教える。娘が、私はあれより黄色い菜の花のほうがかわいいと思う、と言い出す。私は笑いながら、さらに走ってゆく。
朝の風は冷たく、私の首筋を撫でてゆく。背中が鳥肌立つのが分かるが、それもまた、或る意味気持ちがいい。長い坂をひたすら下って、川まで。海と川が繋がる場所に、ちょうど鴎と鳩たちが集っている。
ママ! ほら、鳩の真似! そう言いながら娘が鳩の、頭を振って歩く真似をする。でもそれはどちらかというと、鶏に似ていると思えるのは気のせいだろうか。
ママ、私ね、ママの子供に産まれてよかった! 突然後ろから娘が言い出す。な、何を突然?! 私は慌てる。慌てて自転車を止める。すると娘が後ろからやってきて、にっと笑う。だってさー。何? ママって、普通のお母さんと違うんだもん。へ? どういう意味、それ? なんかさー、お母さんっぽいときも確かにあるけど、たいがいが、お母さんっぽくないよね。んー? うまくいえないけどさ! …。

友人が言う。ねぇさんにとって、写真は、自分の中の膿を浄化する術なんだよね、と。だから必要不可欠な存在なんだよね、と。それは、撮られているととてもよく分かる、と。
本当にそうだと思う。でもそれが相手に伝わってるってことが、私にとっては何より嬉しかった。ありがたかった。
そういう友人がそばにいるということに、感謝、した。

じゃぁね、それじゃぁね。新学期、新たに新一年生が三人加わった登校班。私は見送って、そうして自転車を漕ぎ始める。
公園の桜はもうずいぶん散ってきた。今週末にはもう、花が残っていないんじゃないかと思えるほど。結局今年お花見はできなかった。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。風がびゅうびゅう唸っている。それに従って桜の花びらがびゅるると散ってゆく。もう足元は、桜の花びらの山。
残り少ない空き地の、雑草たちも緑に染まり始めた。じきにこうした空き地もなくなってゆくのだろうと思うと少し寂しい。
風を切って走る。首筋を駆け抜ける風。モミジフウも上の方が少し揺れている。
さぁ、今日も一日が始まる。

ここから先は

0字
クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

よかったらサポートお願いいたします。いただいたサポートは、写真家および言葉紡ぎ屋としての活動費あるいは私の一息つくための珈琲代として使わせていただきます・・・!