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2010年05月02日(日)

ひとりの寝床で目を覚ます。娘は実家に行って留守の夜、何となく寝床が広くて、寝心地がいいのか悪いのか、よく分からなかった。慣れというのは或る意味怖い。
窓を開けると、今日も明るい空。ちょっと塵がかっているように見えるのは気のせいだろうか。ひんやりとした空気が辺りに流れている。ステレオからは、有元利夫のロンドが流れ始める。澄んだ音色が空高くのぼってゆくようだ。街はまだ眠りの中。しんと静まり返っている。通りを渡ってゆく人も車も、まだひとつも、ない。この辺りの屋根の色はそういえば、暗い色が多いと改めて気づく。眺めながら、実家の辺りの光景を思い出す。住宅街だったせいか、明るい屋根も結構あった。贅沢にも庭がある家が殆どで、門構えもしっかりある家ばかりだった。この辺りの家々とは、ずいぶん違う。
私はしゃがみこみ、昨日新たに加わったプランターをじっと見つめる。昨日思い切って、ミミエデンを挿し木してみたのだ。まだ残っている少ない枝のひとつを、挿してみた。さぁまたここからだ、と思う。元々の樹が生き残ってくれることをもちろん願っているが、それがもし叶わなかったとしても、せめてこれだけは、そう思う。どうか新芽が出てきてくれますよう。
桃色のぼんぼりのような花が咲く薔薇の樹の名前を、また忘れてしまった。昨日ちゃんと調べたのだが。後でもう一度見てみないと。やっぱり自分の手でちゃんと書かないと、私は覚えないらしい。何でもそうなのだ、私は。昔から、勉強でも何でも、一度は自分の手で書いてみないと、実感が伴わない。今勉強している心理学のノートなど、もう二度三度書き直している。そうやって繰り返し書くことで、私はようやく覚えていく。もうちょっとちゃっちゃか覚えていけたらいいのだろうけれども。もうこれは昔からの癖なのだろうな、と思う。学生の頃もそうだった。試験前、何度でもノートを書き直し、書き加えた。そうやって繰り返し自分の手で作業することで、ようやく頭に入る。このどんくさい頭の構造、もうちょっとどうにかなればいいのになぁと思わないではないのだが。
ベビーロマンティカの蕾から、昨日よりまた少し、大きく明るい煉瓦色が漏れ出ている。染まり始めた蕾は、もうぷくんぷくんに膨らんでおり。いつ綻び始めてもおかしくないくらいに膨らんでおり。でもここからまた、少し時間がかかるのだよな、と思う。その待ち時間を越えてようやく、咲いてくれるのだ。それまで無事に育ってくれることを、今はただ、祈るばかり。
マリリン・モンローの蕾も、順調だ。薄いクリーム色がだんだんとはっきり現れてきており。まん丸に太ったそれは、もう私の人差し指の先ほどは大きく育っている。病葉も今のところ見られない。私はほっとしながら葉をそっと撫でる。少し固めの、頑丈そうな葉が、私の指先で、跳ねる。
ホワイトクリスマスの新芽も、怪しくはあるけれども、今のところ大丈夫そうだ。いつ斑点が現れてもおかしはないのだが、葉が必死になって伸びようとしている。その必死さ加減が、こちらにまでじんじんと伝わってくる。
植物のこうした懸命さは、いつでも私にエネルギーを与えてくれる。何というかこう、内側からじわじわと湧き出てくる泉のような、そうしたエネルギーだ。決して、どくどくと流れゆくものではなく、じわじわ、じわじわと溢れ出して来る、そうしたもの。それはやがて、私の中に広がり、私を彩ってゆく。
曲はSecret GardenのSanctuaryへ。私はそれをぼんやり聴きながら、今度は玄関に回る。扉は陽光ですでにあたたかくなっており。私はその温度を手のひらで確かめながら、そっとドアを開ける。東の空はまさに光の塊で。私は思い切り手を伸ばす。もちろん届くわけなどないのだが、そんなことは分かっているのだが、それでも伸ばしたくなる。目に見えない何かを掴もうとするかのように。
プランターの中、ラヴェンダーがまた新芽を蓄え、そこに在る。強い風が吹いたら飛ばされそうな儚さなのに、この力強さは一体何処からくるのだろう。撓ることはあっても決して折れない。このしなやかさ。憧れる。陽光を受け、緑はもう緑でなく、黄金色に輝く葉。指でそおっと輪郭をなぞる。そうして私は立ち上がり、廊下の端から校庭を見やる。
誰もいない校庭。ひっそりと静まり返っている。子供たちがいない間の校庭というのは、どうしてこんなにも寂しげなのだろう。いや、寂しげで、同時に、心待ちにしているといった気配が滲み出ている。子供たちをいついかなるときも待っている場所なのだな、と、改めて思う。
部屋に戻り、顔を洗う。鏡の中に浮かび上がる顔を見ながら、自分の中にエネルギーが今在ることを感じる。それは儚いエネルギーかもしれない。後になってみればそうなるかもしれない。が、それでも今在ることに、変わりはない。それがちょっと、嬉しい。
目を閉じ、体の内奥に耳を澄ます。
何だろう、今朝は結構体の中がすっきりしている。すぅっとした空気が流れているとでもいうのだろうか。そんな感じがする。何となくその風から、「サミシイ」を感じ、私は「サミシイ」に会いに行く。
「サミシイ」は、少し髪が伸びたようで。垂れた髪がほんの少し、風の形を描いていた。私はおはようと挨拶をする。そうして「サミシイ」の傍らに立つ。というのも、「サミシイ」が立っていたからだ。座っているのなら隣に座ろうと思っていたのだが。
「サミシイ」には相変わらず、口がない。口がないから、私は「サミシイ」の声を実際に聴いたことはない。いつも、映像のようなものが、私に直に伝わってくる、といえばいいのだろうか。そんな感じなのだ、「サミシイ」と話すときはいつも。
「サミシイ」は当てもなく歩いている、とことこと歩き回っているかのようだった。何をしているのかと問いかけようとして、私はやめる。邪魔をしてはいけないと思った。
「サミシイ」は、探し物をしているようだった。そうして、はっとした。「サミシイ」が探しているものが何なのか、直に伝わってきたからだ。「サミシイ」は、私の中心を探しているのだ。
私の中心。それは何だろう。どんな色をしているんだろう、どんな感触をしているのだろう。
「サミシイ」は、目を凝らしているわけではなかった。ただ、ぼんやりと、探しているのだった。あるかもしれないもの、あるはずのもの、あるべきもの。それを、探しているのだった。
私も辺りを見回してみた。砂に触れ、ちょっと探ってもみた。でも、もちろんそれは、容易に見つかるような代物ではなく。
そんな時、「サミシイ」とぱっと目が合った。「サミシイ」が、微かに笑った、そんな気がした。
ふと思った。人の中心って、何だろう。そもそも中心って何なんだろう。そんなもの、果たして在るんだろうか。皆に在るものなんだろうか。在るとしたらそれは、どんな形をしていて、どんな色をしていて、どんな感触なんだろう。私の心の中、そんな思いがぐるぐる回った。それはたとえば、大切にしているもの、とかなんだろうか。それとも、そうじゃなくまた別の、ものなんだろうか。
軸。軸のようなもの? かもしれない。私はそれをとうの昔に折ってしまった、そのことだけははっきり分かっている。だから、実感がないのだ。私の中心、軸、というような、そういうイメージが、浮かんでこないのだ。
いつもならここで、愕然とするところなのだが。何故かこのとき、私はそうはならなかった。何故だろう。それはきっと、「サミシイ」が決して焦っても何もいなかったからかもしれない。「サミシイ」は、まるで、死ぬまでに見つかればいいんじゃないのかな、というような、そんな雰囲気を醸しだしていたから。
そうか、と思った。そうか、死ぬまでにそれが見つかればいいのか、と、私は思って、ちょっと笑えた。なるほど、私はこれから、自分の軸を作っていけばいいのだし、何もそれは焦ることも何もないし、愕然として落ち込むことでもないんだな、と、納得した。人は人、私は私、私は私のテンポでやっていけば、それでいい。
そう思って隣の「サミシイ」を見やると、「サミシイ」はぼんやりと何処かを眺めていた。まるでそれは、風を感じ、眺めているかのようだった。「サミシイ」はひとりだけれども、決して閉じられてはいないのだと、その時改めて知った。あぁそうか、「サミシイ」は閉じてはいないのだ、今は外に開いていて、世界を感じながら、自分なりの方法で何かを探している最中なのだな、と。
それは、私を安心させた。私に力をくれた。あぁそうか、と、納得できた。ひとりと孤独は決して同じものではなく。そして私は今、ひとりではあるけれども、孤独ではなく。それはとても大切なことで。
私は世界に今開かれているのか。そのことを改めて私は自分に問う。

友人に預けていた額縁を受け取りに出掛ける。あまりの陽気のせいか、頭痛が抜けない。ちょっとふらつきながらも、心地よい風に励まされる。でも友人に全く元気がない。体調を崩しているのだという。一緒にご飯を食べるのだが、彼女はそれも残してしまう。横になりたいと言って伏せる彼女の傍らで、私は片付けものを手伝う。
ふと思った。彼女はいつもここで何を考えているのだろう。何を感じているのだろう。特に今、いろいろなことが変化しようとしている今、何を感じ、考えているのだろう。
我が家から眺める景色とは全く異なる景色が、窓の外に広がっている。それをぼんやり眺めながら、思う。早く彼女の具合がよくなりますように。と、祈るように思う。
帰りがけ、人ごみに酔ったのか、よろけてしまう。階段から落ちそうになって、咄嗟に額を庇い、額縁五つを載せたカートの下敷きになってしまった。大丈夫、今の衝撃なら額縁の中のガラスは無事なはず、そんなことを思いながら立ち上がろうとして、びりっと音がした。どこかにひっかかっていたのだろう、服が、思い切り、破けた。あらーっと思ったが後の祭り。前がびりりと破けた服のまま、歩くことに。恥ずかしくて俯いてしまう自分が、ちょっと笑えた。多分どこかに痣はできているんだろうか、それにしたって、額縁のガラスが割れていないということが、嬉しかった。今度の個展は約一ヵ月後。

娘に電話を掛けると、声が弾んでいる。何かいいことあったの? と尋ねると、まぁいろいろね! と返事が返ってきた。そうなんだ、いろいろいいことあったんだ、うん、まぁね。よかったね。うん。あ、ママ、ハムたちにちゃんと餌あげてね。お願いね。分かってるって。ちゃんとあげるよ。
電話を切った後、娘がいつもやっているように餌箱三つにそれぞれ餌を振り分ける。ミルクもゴロもココアも、みんな一斉に小屋から出てきて、扉のところで待機している。その姿がおかしくて私は笑ってしまう。でも彼らは真剣だ。私は笑いを堪えながら、それぞれに餌をやる。金魚にも合わせて、餌をやる。二匹の金魚は、おお、やっと餌の時間か、といったふうに大きな尾びれをひらりと揺らし、水面に浮いてくる。そうして口をパクパク開けて、器用に餌を吸い込んでゆく。
夜の時間が、ゆったりと、流れている。

自転車に跨り、坂道を勢いよく下ってゆく。公園の緑は今まさに東からの陽光を全身に浴びているところで。燦々と降り注ぐ陽光に、きらきらと輝いている。深く息を吸い込むと、緑の匂いが全身に広がってゆくような気がする。池の端で自転車を止め、しばし佇む。先日の千鳥たちは何処へ行っただろうか。そう思っていると、千鳥が二羽、ちょんちょんと躑躅の陰に現れる。また何か、藁のようなものを咥えている。まだ巣を作っている最中なのだろうか。私が在ることなどお構いなしに、彼らは忙しげだ。
私は音を立てないよう、そっと自転車を動かし、再び跨って大通りを渡る。そうして高架下を潜り、埋立地へ。
銀杏の樹たちはみな、赤子の手のような若葉を湛え、風にその手をひらひら揺らしている。真っ直ぐ走り、モミジフウのところへ。黒褐色の幹に、夥しい萌黄色の葉。勢いよく噴き出している。まさに葉が鈴生り、といった具合。
そのまま海まで走る。濃紺色の海は、白い波を立てており。その時、魚がぴょんっと跳ね上がった。まさに私の目の中、魚は銀色の腹を翻し、再び海に戻ってゆく。その見事な円弧の様は、私の目の中で残像を描く。
さぁ今日もまた一日が始まる。新しい今日という一日が。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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