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2010年04月06日(火)

窓を開けると、ぬるく湿った空気がぶわんと顔に当たった。それは重たくなるほどに湿っており。私の肌に纏わりつくようだった。アスファルトはまだ所々濡れていた。見上げれば空も、落ちてきそうなほどに重たげだ。とりあえず止んでみたけど、気分によってはまた降りだすよ、と言っているかのよう。鼠色の空。
イフェイオンの盛りも終わりにさしかかっているようで。萎れ始めた花が幾つか。私は指でそれを摘む。今までありがとうねと思いを込めて、摘んでゆく。ムスカリはもう終わった。また来年までしばしの別れだ。これほどほったらかしにしているのに、よく咲いてくれたなぁと思う。
薔薇のプランターに雑草幾つか。白く小さな花もついているので、しばらくそのままにしておくことにする。花が散る前に抜けばいい。東の町に住む友人なら、これらの雑草の名前もちゃんと知っているんだろうなぁと、その友人の顔を思い出す。ここしばらく連絡を取っていないが元気だろうか。
ミミエデンの葉に白い粉の噴いたものを新たに二、三、見つける。今まで無事だったものが新たに粉を噴き始めた。正直ここまでしつこいと少々参る。気持ちがめげる。でもここで私が手を止めたら、ミミエデンは見事に粉噴きだらけになってしまう。それじゃぁあまりにもかわいそうだ。だから気持ちを奮い立たせる。そうして私は葉を今日も摘む。
部屋に戻り、白薔薇やガーベラたちの水切りをする。薔薇はもうそろそろ終わりに近いのだが、何とかまだもっていてくれている。もう少し、もう少し頑張れ、と私は声を掛ける。せっかくここに来てくれたのだもの、最後の最後までそばで咲いていてほしい。そんなことを思う。
山百合のおしべを切るべきか迷うが、そのままにしておくことにする。服についたら厄介だけれど、でも、花の色合いとして、このおしべがあるかないかは結構違う。橙色の、大きく開いた花弁の真ん中に、このこげ茶色のおしべの色があることで、締まりが出てくるからだ。私はそっと花弁に触れてみる。滑らかな、しっとりとした感触が指先から伝わってくる。ガーベラの薄いひらりとした花びらとは全く違う感触。
足元でゴロが頂戴頂戴をしている。少し前から娘が教えている仕草なのだが、何度でもやるから困ったものだ。ほっぺたにたくさんまだ餌を入れているというのに、それでも飽きずに頂戴と手を伸ばす。娘が起きるまで待っててね、と声を掛ける。
顔を洗い、鏡を覗く。少し疲れた顔。うまく眠ることができなかったせいかもしれない。私はほっぺたをぱんぱんと叩いてみる。そうして体の内奥に耳を傾けてみる。
下腹部の痛みは何処へいったのだろう。今朝は見当たらない。その辺りを訪ねて歩いてみたのだが、見当たらない。姿を隠してしまったんだろうか。とりあえず、昨日出会った辺りで立ち止まり、また来るね、と声に出してみる。
穴ぼこは、そこに在た。いつもの場所に、ぐわんと辺りを歪ませながら、闇の中に在た。おはよう穴ぼこさん。私は挨拶する。そうしてその傍らに座り込む。穴ぼこは昨日とちょっと変わって、蠢いているかのようだ。穴ぼこをちょっと覗き込む。穴ぼこの内側が、ぐわんぐわんと歪んで動いているのが分かる。私は試しに、穴ぼこに話しかけてみる。昔は確かに、私は私の気持ちを無視して、ちゃんとした子を演じていたよね。しっかりした子、ちゃんとした子、立派な子。みたいな。でも最近は、昔よりそうじゃなくなったと思うの。もちろんもっともっと変わってゆけるのかもしれないけれど、今まだ私には重しのようなものがついていて、うまくそこまでひとっとびにいけないの。でも、あなたがここで私に言っているのは、どういうことか、分かるの。だから、正直困っているの。
穴ぼこのざわめきが一瞬止んで、それからぐわんと大きくなる。大きくなって、また止まる。私はあなたがここに在ることにもう気づいてる、だから、いろんな瞬間に、あなたのことを思い出す、思い出して、今あなたならきっとこんなことを思っているだろうなって思いながら行為すると思うの。そこから始めるので構わないかしら? 穴ぼこはじっと黙っている。黙って、私を見つめている。
今正直、私はちょっと苦しいの。気づいたはいいけれど、どこから始めたらいいのか、それが全然分からなくて、困っているの。いろんなことに気づいているって、こんなに大変なことだと思わなかったっていうのもあるかもしれない。自分の中に渦巻くいろんな感情に敏感になっていると、自分がとても疲れてきてしまうこともあるくらいで。でも、大丈夫、あなたのことを私はちゃんと気づいているし、見過ごしたりはしないから。しんどくても、ちゃんと気づいているから。だから、そこから始めるんでいいかしら? 私は重ねて問うてみる。穴ぼこの本当に願っていることは、何なのだろう。そう思って、もう一度尋ねてみることにする。ねぇ、もう一度訊いてもいいかな、あなたが私に一番してほしいことって、何?
穴ぼこが、ざわっと蠢く。ちょっと怒っているかのようだった。それはそうだろう、私は同じ質問をしているのだから。彼女が憤慨するのも当たり前だ。でも仕方ない。今の私には、それをもう一度問うしか術がない。
でも穴ぼこは、それ以上は蠢かなかった。ただ黙って、そこに在た。そうして、私を見つめていた。じんじんと伝わってくるものがあった。せりあがってくるかのように伝わってくるものがあった。私の胸を圧迫するくらいに、せりあがって、そうして伝わってくるものがあった。
私が何より、私自身に正直であること、素直であること、そうして穴ぼこを忘れないこと、だ。
ありがとうね、もう一度応えてくれて。大丈夫、私はまたあなたに会いに来るし、あなたを忘れることはしないから。ちゃんと覚えているから。私はそう言って、微笑んでみる。そうして手を振って、また来るね、と挨拶して別れる。
「サミシイ」の砂は、足が少し埋もれるほど柔らかで。表面は冷たいけれど、埋もれたところはとてもあたたかで。それはきっと「サミシイ」の体温なのだろうと思う。おはよう「サミシイ」さん。私は挨拶をする。そうして私は砂の上に座り込む。
「サミシイ」はそういえばもう、「サミシイサミシイ」と連呼することはないし、もやもやとした感じもほとんどない。ただそこに、在る、という感じだけだ。砂に埋もれた顔半分の、出ている部分の目が、じっと、私を見つめている。
私は昨日考えたことを伝えてみる。私はもう、自分なんていなくなればいいなんてことは思わないよ、と。せっかくここまで生き延びてきたのだもの、もう自分なんて、ということは、思ったりしないと思うよ。
「サミシイ」はそんな私をじっとただじっと見つめている。信じかねている、というのとはまた違う、ただじっと、見つめているのだ。
考えてみれば、私は何度も、いなくなればいい、私さえいなくなればいい、ということを、実際の行為で為してきた。繰り返すしかできなかったあの頃のリストカットも、薬の馬鹿呑みも、そういった行為の一つだろう。周りが本当にどう思っていたのかはもう知らない。そういうことは知らないが、分かるものでもないが、少なくとも私は、私に、そういう制裁を為してきた。私が私にしてきたことだ。
それは間違いなく、私の責任だ。
そうしてちょっとだけ首を傾げる。私はあの頃、あの幼い頃、本当はどうしたかったんだろうか。生きたかったんだろうか。それが、正直、分からない。それさえ思うことができなかったような気もするし、生きたいと願っていたような気もする。
するとその気配に気づいたように、「サミシイ」がほんのちょっと動く気配がする。私はそれをじっと見つめている。
生きることがどんなことかさえ、まだ知らない頃だった。そんな頃だというのに、生きるには条件がいるとつきつけられたのだ。その条件をクリアしなければ、私というものは生きている値打ちはない、と、そう示された。その事が、たまらなかったんだ。
そんな、当たり前のことに、改めて気づく。
生きる値打ちはない、存在している価値はない。それらがまるでレッテルのように背中に貼り付けられて、それを背負って歩いてきた。それはどれほど重たいものだったろう。「サミシイ」にとって、どれほどそれは重いものだったろう。
そのことを思ったとき、ふと見ると、「サミシイ」がまた、小さくなっていた。ひとまわり、小さくなっていた。

娘のクラス替えは無事に済んだ。とりあえず好きな男の子と一緒のクラスになれたらしい。出席番号も近いらしく、席替えが楽しみだと布団の上で踊っている。
眠りにつく前、娘ががばりと私に覆いかぶさってきた。重いよー、重いよー、私が呻く。すると彼女はのたまった。「愛のお仕置きだー!」。何が愛のお仕置きなんだ、重たいだけじゃんか、と私が反論する。すると今度は「ヘイ、ハニー、これが愛ってもんだぜ」と言いながら、私の脇腹を一生懸命くすぐってくる。だから私もくすぐり返す。もちろん娘が早々に負けて、参ったを繰り返す羽目になる。
ふと思いついて、試しに娘に尋ねてみる。「ねぇ、愛ってなぁに?」。娘が即答する。「愛ってこういうことだよっ!」。そして私の頬にぶちゅーっとキスしてくる。
…なんかちょっと違う気がするけど。まぁいい。
というか。なんというか。こういうふうに表現できるって、すごいなぁと思う。私には決してできなかった。両親に、そんなことをする隙がなかった、というのもあったんだろうが、私もそういうことを試してみるという勇気はなかった。
娘よ、おまえのそういう勢い、素敵だと思うよ。そのまま、大きくなれや。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。重たい鼠色の空の下、自転車を蹴って走り出す。今日は駅三つ分、走る。
一つ目の川で、大勢の鴎に出会う。大勢いるのだが、群れている、というより、点在している、といった感じか。大勢居る鳩ともまた違う様相。
一羽が大きく羽を広げ、飛び立つ。続けて二羽、三羽と。その瞬間、空の雲が割れた。
ごおっと音を立てて漏れてくる光の中へ、鴎は飛び立っていく。
さぁ今日もまた一日が始まる。私は再び自転車のペダルに足をかける。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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