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2010年04月14日(水)

体が冷たい、と思って目を覚ますと、布団をすっかり娘にぶん取られていた。娘はまるでハムスターの如く、体を丸め、布団にぐるりと包まって眠っている。私はといえば、薄手の毛布一枚きり。これじゃぁ寒いわけだと納得する。そういえば娘は昨日、下着一枚で寝入った。それできっと寒かったのだろう。それにしたって、厚手の毛布も上掛けも全部持っていくことはなかろうに。ちょっと恨めしい。
ゴロがこちらを窺っている。私の動く気配が伝わったのだろう、籠の扉のところにひっしと掴まって、何かを待っている様子。おはようゴロ。私は声を掛ける。彼女は鼻をひくひくさせ、こちらをじっと見つめている。あまりのその凝視する様子に負けて、私は彼女を肩に乗せる。ちょっとの間だけだよ、と言ってみるが、伝わったかどうか。ゴロは、私の左肩で、ちょろちょろ動きながらも、落ちないよう、ひっしと掴んでいる。私は娘の今日のお弁当の用意をさっさと済ますことにする。昨日作っておいた浅漬けの胡瓜と、シュウマイとメンチカツ、それから苺。おにぎりを握って、それで終わり。あまりに簡単な作業。それでも、コンビニ弁当よりは、いいだろう、と自分を納得させる。
ゴロを籠に戻し、窓を開ける。今日明日は冷えると言っていたのだが、そうでもないなと思う。空がとても明るい。もしかしたらきれいに晴れるかもしれない。空を見上げていた目を落とし、街路樹へ。萌黄色の新芽が、朝の光の中、きらきらしている。瑞々しい若葉。まだまだ赤子の手のひらのよう、小さくてやわくて。
イフェイオンの花は徐々に徐々に、終わりに近づいているのが分かる。枯れた花殻を三つ、四つ、摘む。そのまま視線をミミエデンに移すと、ようやく出てきた葉が粉を噴いているのを見つける。あぁ、ようやっと出てきたというのに。かわいそうに。思いながらも、摘まないわけにはいかない。ふと見ると、ベビーロマンティカの葉の一枚が、粉を噴いている。私は慌ててそちらも摘む。とうとうベビーロマンティカやマリリン・モンローにも現れ始めたか、という感じ。こちらにも念のため、近いうちに石灰を撒いておく必要があるかもしれない。パスカリたちは、今のところ、大丈夫そうだ。私は一旦部屋に戻る。
顔を洗い、鏡を覗く。ちょっと目が腫れぼったい。別に泣いたわけでも何でもないのだが、どうしたのだろう。首の位置が悪かったんだろうか。私はとりあえず軽くマッサージをしてみる。それでも右目のぽってりさは、解消されないのだが。
目を閉じ、体の内奥へ耳を澄ます。もやもやもちくちくも、すっかり片付けられ、隙間のできた胸の辺り。涼しい風が吹く。片付けられると、こんな隙間ができて、こんな風が吹くものなのだな、と、改めて思う。住み慣れた部屋であるのに、まるで引っ越してきたばかりの部屋であるかのようだ。でもそこはまだ何となく暗い。この暗いのには、何か理由があるんだろうか。私はじっと耳を澄ましてみる。
暗いは何処か、疲れており。疲れているというか、疲弊しており。何となく寂しげでもあった。何故そんなに疲れているの? 私はその暗いに向かって問いかけてみる。
暗いは、ただぼんやりと何処かを見やりながら、そこに在た。何だか何もかも放り出して、或る意味諦めているかのようで。私の中の後景のひとつなのかもしれない、と、その時思った。
いろいろなものを諦めてきた。自分が本当にしたいと思うこと、父母のさせたいすべきということではない、そこから外れたことたち。したくても、それはできなかった。とてもじゃないけれどもできなかった。父母から、おまえはこんな子だったのか、と言われるのが怖かったから。絶対に表には出せなかった。
でも、私はいつも、父母が認めるようなことではない、別のことを、あれこれ思い描いていた。でもそれを表に出したら、私はその瞬間、否定されるに違いなかった。否定されることが、怖かった。拒絶されることが、何より怖かった。これ以上拒絶されたら、もうそこに在ることはできないと思った。
だから、父母の気に入ることを、選んでやってきた。父母が認めてくれることを、何とか必死にやってきた。自分のしたいことは自分の中に押し込めて、父母が認めてくれることを、懸命に。
暗いは、そんな、私に虐げられてきたものの、象徴のようなものだと感じられた。私が虐げてきた私自身。そんな感じがした。
あなたは今私に何をしてほしい? 私は暗いに向かってさらに問いかける。
暗いは、やはり何処かをぼんやり見やったまま、そこに在る。
あぁそうか、もう主張することなど、忘れてしまったのだな、と気づいた。あまりに虐げられすぎて、忘れてしまったのだ、きっと。それが、分かった。
私が今あなたにできることがあるとしたら、どんなことだろう? 私は、暗いに向かってと同時に、自分自身にも尋ねてみる。
過去を塗り替えることは、できない。過去に戻ることも、これまたできない。だから、私は今ここから、やっていくしかない。
その、今ここから、私は、私がしたいことが何なのかを、自分を軸にして、やっていくことなんだろうな、と思った。他人軸ではない、自分を軸にして、それを、やっていくことなんだ、と。
暗いが、ちらりとこちらを見た。いや、気のせいかもしれないが、そんな気配がした。
私は暗いに寄り添って、じっと座っていた。耳を澄まして、座っていた。微風の吹き込む胸の辺り、暗いが横たわるその辺りで、じっと座っていた。
私の批判的な何かが、口を出した。そんなこと今更できるわけがないでしょうが、と。今の今まで気づかず、虐げ続けてきた代物を、今になって取り上げて、どうこうできるわけがないでしょうが、と。
確かに、そうなのかもしれないけれども。でも、私は今、暗いに気づいてしまった、気づいたからにはもう、無視はできない。私は暗いの存在をもう知っているのだから。私は言い返す。それに、今そんなふうに批判的になるあなたには、出てきて欲しくないの、ちょっとの間でいいから、向こうに言っていて欲しいの、とお願いする。
そうだ、いつだって、私がこうかもしれないと思うと、この、批判的なモノが出てきて、私の気持ちをへし折るのだ。それは、父母の様子を見て、私が父母の背中から感じて、私自身が自分の中に作り上げた、代物なのかもしれない。確かに父母も、鼻で嘲笑することが、多々あった。いや、それ以前に、鼻にもひっかけてもらえないことが、多々あった。でもこの批判的な何かは、私がそういったことから、作り上げてきた幻影なのだと思う。私が私を批判し、私の鼻を挫く、そういう代物だ。そう思った。
あとであなたの言い分はいくらでも聴くから、今は私は暗いの声が聴きたいの、だからもうちょっと待っていて、私はお願いする。
そうして再び、暗いのそばに座る。
暗いは、さっきより一層、諦めたような、疲弊したような気配を色濃くし、そこに在った。かわいそうに、そう思った。
そうだよね、羽ばたくこともできなければ、自分の足で歩いていくこともできない、そう思ったんだよね。所詮私は、と、そう思ったんだよね。私の思うことなんて誰も聴いてくれない、誰も耳を貸してはくれない、それどころか、拒絶され嘲笑われるだけなのだ、と、そう思って、あなたは口を噤むしかなかったんだよね。
叶うか叶わないか、分からないけれど、でも、それに向かっていくことは、間違いなんかじゃないよ。きっと。誰かにとって、じゃなく、私にとってどうなのか、ってことなんだよね。私にとってそれが、大切なことなら、それを為すために努力して、いいんだと思うよ。
批判的な何かがまた口を出す。何言ってんの、今更。もうそんなこと言ってられるような身分じゃぁないでしょうが、生活だって逼迫してるのに、そんな悠長なこと、どうして言えるのかねぇ、信じられない、そんなんだからいつまでも、おまえはどうしようもないって言われるんだよ。批判的な何かが、まさに嘲笑した。
私は溜息が出た。あぁ、私の中には、こんなにも強い批判的なモノがまだあったか、と。でもこれも、私の一部なんだということが、今なら分かる。私が育んできた、ものの、ひとつなんだ、と。
暗いは、さらに首を垂れ、まさにうなだれていた。
ねぇ暗いさん、私はまだまだこれから、あなたの話を聴きたいと思うのよ。だから、そこに在て、私を待っていてね。私は、またここに来るから。私は暗いに向かって言ってみる。ね、また来るから、待っていてね。約束したよ。
目を開けてからも、批判的な何かの声はぐるぐる私の中を回っており。
私はテーブルの上の花に目をやる。昨日山百合の一輪が、ぽてんと落ちた。突然のことだった。まさに、ぽてん、と。音を立てて落ちた。残り二輪、今、咲いている。何処までもってくれるだろう。もう少し、もう少し。その脇でガーベラが咲いている。ガーベラは、花弁を少し丸まらせながらも、まだもちそうだ。明るい煉瓦色のその色を眺めながら、私は自分の中の批判的な声に呑み込まれぬよう、背筋を伸ばす。

ママ、なんで演技とかってあるの? え? だってさー、いろんなドラマとかに、いろんな人が出て、いろんな演技してるじゃん。うーん、何でって言われてもなぁ…。演技するって面白いのかなぁ? あ、それはね、結構面白い、ママも昔やってた。えぇっ、そうなの? ママ、演技してたことあるの? うん、ある。楽しかったよ。どういうところが楽しいの? そうだなぁ、えぇっとね、自分の人生じゃあり得ないものを演技するわけでしょ、演技しながら、自分の人生じゃぁ味わえないものを味わうことができるんだよ。そういう意味で、面白い。ふーん、私なんて、自分やってるので精一杯なんだけどなぁ。ははは、そうだよね、そりゃそうだ。自分を生き切るのが、一番大変で、でもきっと一番、大事なことだよ。

じゃぁね、それじゃぁね、手を振って別れる玄関前。扉を開けた途端ぶわっと目の前に広がる朝の陽光。玄関脇で、挿し木したラヴェンダーが、風にそよよと揺れている。
少し出るのが遅くなった。私はペダルを漕ぐ足に力を込める。公園の緑は昨日よりさらに一層露になり。じきに、まるで燃えているかのような緑になるだろう。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。そうしてそのまま私は走る。モミジフウのところで立ち止まり、樹を見上げる。モミジフウも新芽の、今まさに吹き出さんばかりの新芽の塊を湛えており。東からの陽光を受け、幹が黒々と輝いている。
海と川とが繋がる場所、強い風に乗って、鴎が数羽、飛び交っている。波が荒い。白く砕ける波の色が、ひときわ鮮やかに浮き立つ。
さぁ今日もまた一日が始まる。私はくるりと海に背を向け、再び走り出す。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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