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2010年05月12日(水)

窓を開ける。まだ残る雨。私は空を見上げる。灰色の、うねりを伴った雲が空全体を覆っている。雨は未明には止むと、天気予報では言っていたのに。私は手を伸ばしてみる。小さな雨粒が、ぽつ、ぽつ、と落ちてくる。そんなにいっぱい雨粒を貯めて、雲は何をそんなに伝えたかったんだろう、とふと思う。もちろんそんなこと、想像してみたって分かるわけもなく。でも、何だろう、妙に気になる。
街路樹の若葉は、雨のお陰でその輝きを露にしており。そして数日前よりもずっと、茂っている。これで陽射しが出たなら、どれほどに輝くんだろうと思う。今はまだ、雲の灰色を映して暗い色をしているが、それでもその透明感はここにまで伝わってくるほどなのだから。通りを行き交う人や車はまだない。しんと静まり返っている街。ただじっとして、朝を待っている。
私はしゃがみこんでベビーロマンティカの開いた花を見やる。ぽっくりとした花の形をしている。丸みを帯びたその花弁は、幾重にも重なり合い。そしてしんしんと、天を向いている。今日帰ってきたら、早々に切り花にしようと思う。まだまだ蕾は残っているのだから、樹にエネルギーを残しておいてやらないと。それにしても、なんて暖かな色なんだろう、この花の色は。まさにぽっくり、という言葉がお似合いな様相。ぽっくり、ほっくり。そんな感じ。もしこの花と同じくらいの豆があったとして、それを長い時間かけてゆっくりと煮たら、このぽっくりという味が味わえそうな。そんな気がする。やわらかくて、ほんのり甘くて、ぽくぽくしている、そんな感じ。
マリリン・モンローの、蕾の色が、なんだかやけに濃くなってきた。薄いクリーム色だったのが、一夜にして、濃いクリーム色になってきたような、そんな気がする。どうしたんだろう。何があったんだろう。私は首を傾げる。それともこの色は外側の花びらだけなんだろうか。内側は、いつものように薄いクリーム色をしているんだろうか。まだ分からない。
ホワイトクリスマスはその横で、いつものようにしんしんと立っている。ホワイトクリスマスを木に譬えるなら、もしかしたらそれは樅の木かもしれないな、と思うことがある。もちろんうちのホワイトクリスマスはそんなに茂ってはいないのだが、それでも、何だろう、この立ち姿や、醸しだされる雰囲気が、樅の木を思わせるのだ。静かな静かな、それでいて多くを湛えた木。
パスカリは紅い新芽を広げ始めている。今のところ、粉は噴いていない。大丈夫そうだ。私は安堵する。でも、その隣の樹たちは、こぞって白い粉を噴かせている。古い葉は大丈夫なのだが、新芽の殆どが粉を噴いているという具合。私はそれをひとつひとつ摘んでゆく。粉を落とさぬよう気をつけながら摘んでゆく。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹の蕾。私が粉を拭ったその痕が、まだ鮮明に残っている。その部分だけ粉が拭われ、でも、またその下から新たに粉を噴きださせようとしているかの気配。一度捕えた獲物は離しはしないといったふうに、病はそこにとりついているかのようだ。それでも、蕾は膨らんできており。徐々に徐々にだけれども確実に膨らんできており。だから私は迷うのだ。どうしたらいいんだろう、と。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。ラヴェンダーの、くたんと萎れた先は、最初の具合よりはだいぶ復活しており。まだ首を垂らしてはいるが、それでもその萎れ加減は丸みを帯びてきており。私はほっとする。このまま復活してくれるかどうかは分からないが、それでもここまで戻ってきたのだ。枝が死んだわけじゃない。そのことがわかってほっとする。よかった。最終的に先をちょっと切らなければならなくなるかもしれないが、それでも、死んでいるわけじゃないということが分かったのだ。それだけでもよかった。
デージーの芽が、あちこちから噴き出してきている。小さな小さな、本当に小さな芽だ。ちょっと離れると、土の色に混じってしまって、芽の在り処が分からなくなるほど。だから私は目を凝らして、じっと見つめる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…。十個以上の芽が、あちこちから噴き出してきており。なんだか嬉しくなる。新しい命がここに確かに在る。そのことが、私には嬉しい。おかしな話だが、私はもう想像してしまうのだ、この子たちが無事に花を咲かせた後、私がまた種を拾い集める光景を。想像してしまうのだ。そうして、命が連なっていく様を、思い描いて嬉しくなる。
昨日一日降っていた雨のせいで、校庭には幾つもの水溜りができている。そういえば子供の頃、ああした水溜りにぼちゃんとはまるのが好きだった。なんだか宝の池に見えたのだ。その中にぼちゃんとはまりこむ。それだけで、ひとつ得したような気持ちになった。もちろん親には怒られるわけだが、それでもわくわくした。どきどきした。私は小さい頃蕁麻疹をもっていて、長靴などを履くと、靴が足に擦れる、その部分に、どわっと蕁麻疹が現れるという具合だった。そのせいで私は長靴を、あまり履くことができなかった。だから、長靴を履いて水溜りにぼちゃんとやる時は、特別なことだった。思い出すだけで、わくわくしてくる。今もし長靴を履けたら、私はまた、同じことをやるんだろうな、と思う。
校庭の周りに集う樹たちの緑が、鬱蒼とし始めている。この雨で一気に濃くなった、そんな気がする。私にとってはたとえば憂鬱な雨だったとしても、植物たちにとっては命を繋ぐ雨なんだなということを、改めて思う。
プールの水面、まだぽつり、ぽつりと雨粒の痕が生じている。それでもこの灰色の雲の向こうには光が溢れているのだろうなと感じられる。そのくらい、空は明るくなってきており。私は東の空を改めて見やる。雲を見つめていると、目がじんじんしてくる。それはあの向こうに光の洪水があるせいなんだと思う。
部屋に戻ると、Secret GardenのCelebrationがちょうど流れ始めているところで。私はこの曲も結構好きだ。聴いていると、音に合わせて気持ちがずんずんと明るくなっていく気がする。そういえばと思い出し、昨日煮た豆の様子を見やる。鍋の中、たっぷりと膨らんで柔らかくなった豆。一粒食べてみる。ちょっとお砂糖がいつもより多かったかもしれない。でもこの、豆を煮るという行為が、私は何より好きなのだ。長い長い時間をかけて、ことこと、ことことと煮詰めていく、その作業が、たまらなく好きだ。部屋の中、私と、ことことと鳴る豆の鍋しかない数時間。でも、その豆の音は、私を豊かにしてくれる。私は独りなのに、独りじゃないような。誰かとずっと静かに穏やかに会話しているかのような、そんな豊かさをもたらしてくれる。
洗面台で顔を洗う。昨日短く切り揃えた前髪が、ぴょんぴょん跳ねている。ちょっと短く切りすぎたかなと思ったりしないわけではないのだが、まぁ、長いのが苦手な私には、これもまぁちょうどいいのかもしれないと思い直す。
そういえば、昨日、尋ねられたっけ。離婚して、一人身になって、それから恋愛したりしてないんですか?と。尋ねられて、改めて考えてみた。そういえば、まともに恋愛するって、もう何年していないだろう、と。
私の昔を知る友人たちは、みな、私を、恋多き女と呼ぶ。確かに、途切れがなかった。途切れなく、誰かしらと付き合っていた。私も贅沢なことに、それが当たり前だとどこかで思っている節があった。
そうして結婚して、離婚して。離婚してから何故こんなにも恋愛していないんだろうと改めて考える。そうして彼女に応えたのは、今はそういう時期じゃないように思えるんだよねぇという言葉だった。彼女が再び問うてくる。そういう時期じゃないって? うーん、なんというか、もし恋愛するなら、娘にも誇れる恋愛したいと思うし、でも、それに見合うような出会い、今のところしていないし。だから、今は恋愛の時期じゃないのかなって思ったりするよ。そうなんですかー、でも、私がもし離婚して息子を引き取ったら、私も同じ考え方すると思うの。ひとりで育てようって思うと思うし、育て終えてから、それからまた後のことは考えればいいって思うと思う。ははは、でも結構焦ったりするんだよ、これでも。何を焦るんですか? いや、改めて考えるとさ、子供が成人した頃には私って一体何歳よ?!って思うと焦るわけよ。えー、あなたが焦るの? 絶対そんなことなさそうに見えるのに。えー、焦るよ、結構焦る。焦らなくていいですよ、全然、その時になってからで十分間に合いますよ。そうなのかなぁ、そう言われても、やっぱり焦るものは焦る。でも、それでも今は、こういう時期なのかなってことも思う。友人はそれなりにできるんだけれどね。それ以上は親しくならないんだよなぁ。ははは。あ、それ、なんか分かる気がします、一定の距離は保つんですよね、自然に自分で。そうそう、そうなの、どうせなら長く付き合いたいから、なおさらに一定の距離感をもって付き合うようになるんだよね。あー、そうそう、そうなんですよぉ。でも、やっぱり、独り親って大変ですか? うーん、大変、なのかなぁ、大変じゃないって言ったら嘘になる気がするんだけど、でも、大変だって思ってたら、逆に、やってられないかも。そういえば、元旦那からはちゃんと養育費とか貰ってるんですか? いや、貰ってない。ってか、今何処に居るのかも分からないし。何やってるのかも分からない。そういうもんかぁ、うーん、なんか、そういうのって変だよね。ははは、変なのかなぁ、どうなんだろう。別れたって二人の子供であるには違いないのにね。ま、そうだけど、私はもう、心の中では、私が独りで産んだ子供だって割り切ってるよ。そうなんだぁ。でもね、最近時々、ふっと怖くなる時があるんだよね。どういう時ですか? 今、娘が、録画した昔のドラマとか見てて、その時、お父さんが別れた子供を助けるシーンがあったりしてさ、その時に娘が、お父さんっていいよなぁ、私だって欲しいよ、って、独り言言ってたりするわけ。えー、そんなぁ。いや、彼女は私に向かって言ってるんじゃなくて、まさに独り言で言ってるんだけど、だからこそ逆に、切なくなるっていうか。うーん、うまく言えないんだけど…。あ、でも、独り言だからこそ切なくなるって、分かる気がする。うん、そうなの、そのたび、このままでいいのかなぁって思いになるんだよね、どうするのが本当は、この子の為に一番いいんだろう、って。うーん、でも、そういうことこそ、割り切っちゃっていいんじゃないですか? そうなのかなぁ。でないと、あなたが苦しくなる一方じゃなくって? まぁ、そうなんだけどね。うん、そうなんだけど。そういうところで、迷うんだ、どうするのが本当は一番いいのかな、って。そっかぁ…。
友人と別れ、雨の中歩きながらも、そのことが頭の中、ぐるぐる回っていた。どうするのが一番いいんだろう、と。娘にとって、どうするのが一番、幸せなんだろう。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。今日もお弁当の日。私は、とりあえず今冷蔵庫にあるものを確認する。キャベツとベーコンとを炒めて、その後小さな肉団子を作り、それぞれ弁当に詰めてゆく。最後にプチトマトを飾って、あとはおにぎりを添えてできあがり。簡単弁当。それでも文句一つ言わずに食べてくれる娘に、感謝。
煙草を一本吸ったら、朝の仕事に取り掛かろう。半分開けた窓から、少し冷たい空気が流れ込んでくる。そろそろ娘を起こす時間にもなるからと、私はお香を焚くことにする。今の手持ちの中では、グリーンティーの香りが一番好き。
そういえば今日は友人の誕生日だ。後でメッセージを送らないと。忘れないように私は手のひらにボールペンで小さくメモする。

じゃぁね、それじゃぁね。娘はココアを差し出す。差し出されたココアの背中を、私はこにょこにょと撫でてやる。行ってくるね。行ってらっしゃーい。
声に押されながら玄関を出ると、雨がちょうど止んでいる。これなら自転車で大丈夫だ、と私は決めて、自転車に跨る。数日乗らなかっただけで、体が自転車を恋しがっていたのが分かる。
坂を下り、信号を渡ると公園が目の前に。公園の緑は鬱蒼としており。それはまさに夏の前触れで。私はしばし立ち止まる。これっぽっちの雨で、こんなにも表情が濃くなるなんて。思いながら私は緑を見つめる。じきに、この緑の匂いが、この辺りにまで漂ってくるようになるんだと思うと、なんだかちょっとどきどきする。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏の葉もぐいっと枝から大きく手を広げてそこに在る。数日前とは見違える姿だ。
最近、無謀な運転をあまりしなくなった。変な話かもしれないが、人生脚本を思い浮かべてしまうのだ。無謀な運転をして、自分を危機に晒して。その構図に、自分のこれまでの人生の在り方を、見てしまう。でも、私はここで怪我をするわけにもいかないし、死ぬわけにもいかない。それなら、もうちょっとだけでもいい、安全運転をしようか、と、そんなふうに思うようになった。
信号待ちしていると、ぐいっと赤信号を無視して走り出す車の姿。青信号の方の車の列が、一瞬崩れる。クラクションが静かな街並みに鳴り響く。
その音につられるように、猫が躑躅の茂みから這い出してくる。のっそりと歩きながら、大きな欠伸。私と目が合うと、何だよ、といった顔をして、そのまますれ違ってゆく。
青信号に変わった。私は勢いよくペダルを踏み込む。
さぁ、また一日が始まってゆく。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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