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2010年09月02日(木)

いつの間に寝入ってしまったんだろう。目を覚ましたら娘のにっと笑った顔が間近にあって驚いた。どうしたの? どうしたのってママが珍しく寝てるから。あ、帰って来たんだ。もうずっと前に帰ってきてるよ。ママが寝てて気づかなかっただけじゃん。あぁ、ごめんごめん、どうしたんだろ何で寝てるんだろ。なんでってママが寝たから寝てたんでしょ。娘に笑われ、私は頭を掻きながら起き上がる。あ、お風呂、水風呂用意しといたんだよ。わー、入る! って、今何時? もう十時半。えぇーっ。私は娘を風呂に追いやり、娘の塾のお弁当箱やら水筒やらを洗いにかかる。本当に、一体いつ寝入ったんだか。全く記憶にない。情けない。
そうだ、電話番をしていて、その間に多分寝入ったんだ。友人に、たまには横になって眠れるときは眠った方がいいんだよ、と言われたことを思い出す。その言葉どおりに横になったってことだろうか? そのあたりが曖昧で思い出せない。娘は風呂場で何やら歌を歌っている。その声が、部屋中に響き渡る。
結局十一時半過ぎ、娘と一緒に再び横になり。娘は途端に寝息を立て始める。そりゃそうだ、塾がないときはいつも九時には寝かせている。塾があるとどうしてもこうやって時間がおせおせになってしまう。と思っているところに、娘の腕が飛んできた。痛い、と思って反射的に叩いてしまう。が、娘はびくともしない。ちょっとほっとしながら、私は娘の腕を所定の位置に戻す。
うとうとしながらも、あの泥のような眠りは再び訪れず。数時間ごろごろ寝床で頑張ってみたが、横になっているのも体が痛いので仕方なく起き上がる。せっかく起きたのだから、と、写真展のとき配布するプリントを、作成することにする。
毎年やっていることだが、この配布プリント、結構手間がかかる。できるだけ紙に無駄がないよう、テキストを配置し、順番を決め、そして印刷。たとえばたった二十人分作るのに、一人分が五枚だとして…。紙がいくらあってもはっきりいって足りない。それでも私がこれをやめないのは、これを書いてくれた被害者たちが私の後ろにいるからだ。私はこれを外に届ける役目を担っている。言ってみれば蝶番のような。だからこそ、やっていける。
ひたすらプリンターを回しながら、煙草に火をつける。その時突然、窓から蝉が飛び込んでくる。私はこういう突然のものが怖い。怖くて怖くて仕方がない。蝉と分かっていても、全身総毛立ってしまう。でも、一方の蝉も命がけだ。必死に布にしがみついている。どうしよう。娘の手ぬぐいが椅子にかかっているのを見つけ、咄嗟にそれで蝉を包み込む。でももう、抗う力が殆ど残っていないのだ、手ぬぐいの中、蝉はおとなしくしている。私はそれをベランダに出て、そっと振ってみる。ようやく飛び立って、そして街路樹の方へ飛んでいくのを確かめ、私は再び部屋に戻る。あぁびっくりした。でも、よかった。
紙が切れるたび、紙を継ぎ足す。一番心配なのはプリンターのインクがなくなることだ。とりあえず今夜は大丈夫そうだが、そろそろ買い足しておかないといけないかもしれない。
今、図書館で見つけた「心への侵入 性的虐待と性暴力の告発から」を読んでいる。いつも思うのだが、こうした本は、どんな人が普通手に取ってくれるのだろう。私にとっては当たり前の種類の本だが、普通はどうなんだろう。やはり、手に取るのを躊躇うのだろうか。それともそもそもこういう本は人目につかないのだろうか。そういう棚に置かれるのが通常なのだろうか。どうなのだろう。
私はだいたいこの時期から、緊張し始める。展覧会が近づくからだ。今年は二回とも性犯罪被害者にモデルになってもらった写真を飾るから、余計に緊張が強くなる。
私はいい。私が選んでしていることだ。でもモデルになってくれた被害者たちはどうだろう。顔を晒すというそのことで、弊害はないだろうか。手記を書いてくれた人たちも、ペンネームを使ってもらってはいるが、あぁあいつだ、などと悪意を持って読む人はいないだろうか。いろんな穿った考えが出てきてしまって、いてもたってもいられなくなる。私は彼女たちをちゃんと守りきれるだろうか。そのことが、何よりも何よりも、心配になる。
それでも。
今ここで止まるわけにはいかなくて。私たちはここからもさらに生きていかなければならなくて。だからこそ、続けていかなければと思う。続けていくためにも、私はここに立っていなければならない。しかと。

空が明るくなってきた。今日は雲が殆どない。すかんと抜けたような空が広がっている。美しい鮮やかな水色の空。街路樹はもう悲鳴を上げる寸前じゃぁなかろうか。雨はもう長いこと降っていない。彼らに水を与える人は誰もいない。ベランダの手すりによりかかりながら、じっと街路樹を見つめる。訳もなく、ガンバレ、ガンバレ、と言葉が浮かぶ。でも正直、ガンバレという言葉はあまり好きではない。だってすでに頑張っているのだ。すでに頑張って、ここに在るのだ。だから、そういう相手にさらに頑張れなんて言うのは、おかしいといつも思う。だから、私は頑張れより踏ん張れと、伝えることが多い。
しゃがみこみ、ラヴェンダーとデージーの、絡まり合った枝葉を解く。そろそろこの作業も終わりに近づいているんだな、と、やるほどに思う。それにしても、あんなに小さかったデージーが、よくここまで茂ったものだと思う。まさにプランターの半分を占領して。もしかしたらラヴェンダーよりずっとこちらの方が勢いがよいのではと思える。まだ僅かに緑の残る枝葉。それを傷つけないよう、そっとそっと扱う。
吸血虫にやられたパスカリから、新芽が少しずつ芽吹き始めている。本当にちょこっとずつだけれど、確かに。これでまた、寿命が延びた、そんな気がして、嬉しくなる。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。新葉をぴんと広げ、そこからまたさらに新芽の徴を見せている。そしてその隣の、友人から頂いたものを挿し木したそれも、今紅い紅い新芽をぴょんっと先端に立てている。
横に横に広がっていっているパスカリ。その一本の先端にひとつの蕾。くいっと首を伸ばして、蕾が目立ち始めた。まだ私の小指の先より小さいけれど。そして、これもまた、友人からもらったパスカリを挿し木したもの、新芽がくいくい伸びてきている。こちらが花を咲かせるにはまだまだ時間がかかるだろうが、咲いたら一番に、彼女に届けたいと思っている。
ミミエデン、やはり昨日見つけた二つの徴は、蕾だったようで。昨日よりほんの僅か、前に出てきたその徴に、私はにんまりする。無理はするなよ、でも、咲いておくれよ、と心の中声を掛ける。
ベビーロマンティカは、よく見ると、五つの新しい蕾がついており。今膨らんでぱつんぱつんになっているものも含めれば六つの蕾。本当にベビーロマンティカは子沢山だなぁと、感心する。もしベビーロマンティカが人間だったら、女性だったら、今頃テレビに出るくらいの大家族を作っていたに違いない、なんて想像すると、おかしくなって笑ってしまう。
マリリン・モンローの新芽の間に、蕾の徴を見つけた。ひとつの蕾の徴。間違いない。私は膝に頬杖をつきながら、しばらくその徴を見つめる。今度はどれだけ大きくなるかな。肥料が足りないだろうから、こじんまりした花かもしれない。それでも、咲こうとしてくれる、そのことがもうすでに、嬉しい。
ホワイトクリスマスは沈黙の時間。でも。ホワイトクリスマスは悠然と、凛々と、そこに在る。
今朝、アメリカンブルーは四つの花を咲かせ。その花の色は、今朝の空の色にとてもよく似合っており。微かな風に揺れる真っ青な花。可憐な花。おはよう、と私は小さく声を掛ける。
部屋に戻り、お湯を沸かす。ふくぎ茶をポットいっぱいに作る。一杯分カップに注いで、氷を三つ入れる。私には三つで十分。カップを持って再び机に座る。窓から見上げる空も、すかんと抜けた青空で。今日もきっと暑くなるんだろう。それでも。こういう空の色は、いい。無条件にいい。そう感じられる自分も、まぁまぁ、かな、なんて思う。
空の色なんて、とてもとても、感じられなかった時期があった。そもそも空を見上げることもしなければ、窓を開けることもしなかった。ただ息をしている、それだけの時期があった。食事も摂れなければ眠ることもできない。唯一水分を補給するだけの日々。いや、山のような薬と水分とを補給する日々、と言うべきか。
部屋の空気が澱んでも、澱んでいることに気づいても、窓を開ける気力もなく。ただぺたんと、床に座って、時が過ぎるのをひたすら待った。まさに、生きながら死んでいるとは、ああいう状態のことを言うのかもしれない。
死ぬことさえ遠かった。私は当時十階の部屋に住んでおり。ここから飛び降りれば間違いなく死ねるだろうと思った。でも、そのベランダに出ることさえ、億劫だった。何もしたくない。このまま干からびたい。そう思った。そう願った。
生かされている、という受動態が、いつから生きているという能動的な形に変わったんだろう。その境目はあまり覚えていない。気づいたら私はここに在た。そこには、多くの友人たちの支えがあった。それがなかったら、私はこんなところまで歩いてこれなかった。だから思うのだ。人を木っ端微塵にするのも人なら、人を救うのもまた、同じ、人である、と。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。あ、ママ、今日私六時間あるからね! わかってるよー。
私は階段を駆け下り、自転車に跨る。坂道を下り、車がいないことをいいことに赤信号を渡り、公園へ。池の縁に立って見上げる空は、煌々と輝いており。私は目を閉じて耳を澄ます。蝉の声が響いている。でも、確実にその蝉の声は、痩せ細ってきている。あとどのくらい、私はこの声を聴いていられるだろう。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。ちょうど青になった信号を渡り、左へ折れる。真っ直ぐ走れば駅まで辿り着く。その手前に駐輪場があって。私はいつもそこに自転車を停める。
おはようございます。事務所に声を掛けると、おじさんがおはようと言って出てきてくれる。駐輪の札を貼ってもらって、自転車を停める。
大きく交差した歩道橋。もうすでに大勢の人が行き交っている。
さぁ、今日も一日が始まる。私は歩道橋の階段を駆け上がる。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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