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2010年04月25日(日)

目を覚ますと、がじがじと誰かが齧る音がする。そばに寄ってみるとそれはゴロで。ゴロまでが扉のところを大きな音をたてて齧るようになったかと、思わず私は笑ってしまう。おはようゴロ。ゴロは、後ろ足を踏ん張らせて、必死になって籠の入り口に齧りついている。それはミルクやココアに負けず劣らずの音で。その必死の様ゆえ、余計に私は笑ってしまう。ゴロをそっと肩に乗せ、私はベランダに出る。
空気が澄んでいる。そして空も。見上げる空に薄い雲はかかっているものの、とても明るい。薄い水色が輝いている。街路樹を見ると、この数日の間に若葉がぐんと大きくなり。微風にさやさやと揺れている。萌黄色と風のなんと美しいことか。私は思わず溜息をつく。ふと視界に動く気配。大通りを見やると、久しぶりに植木おじさんの姿。久しく見ていなかったが、元気だったのだと分かり、なんだかほっとする。おじさんは、自分が街路樹の根元に植えた花たちを、順繰りに見て回っているところ。
私は肩のゴロを気にしながらしゃがみこみ、イフェイオンの花殻を摘む。もう新しく咲く花はないんだろう。それがちょっと寂しい。でもまた、来年までのお別れと思えば、それもまた、よし。
ホワイトクリスマスから、新芽がぐいっと伸びている。いきなりこんなに伸びるものなんだろうかと私は首を傾げる。でもその新芽に、白い粉が噴いてきそうな気配を見つけ、がっくりする。私は、新芽のその一部を、摘んでみる。でも、こうして新芽が出るということは生きているということ。まだまだこれからだと思うことにする。
マリリン・モンローの蕾は順調に膨らんできており。もう見えている花弁が僅かだが、クリーム色がかってきた。蕾を見ていたら、ふと、脇の方の葉に、粉の噴いているものを見つける。私はすかさずそれを摘む。ベビーロマンティカの蕾の、茎の部分に、白い粉が噴いているのを見つける。さて、これはどうしたものか。蕾を摘むのは忍びない。それはさすがに。じっと見つめた後、私はそのままにしておくことに決める。
ミミエデンはこのところ静かだ。新芽を出す気配さえ今はない。ただじっと、体にエネルギーを貯めている、そんな気配がする。
それにしてもいい天気だ。私は立ち上がり、もう一度空を仰ぐ。東から伸び始めた陽光が、私の目を射る。ステレオからは、Secret GardenのSanctuaryが流れている。この光景を、静かに見守るような音。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを見つめる。数日前、デージーの種を植えた。種を植えるにはもう遅い時期かもしれないと思ったのだが、冷蔵庫に眠らせたままにしておくのはもったいないので、植えてみた。さて、芽は出るだろうか。もし花が咲いたら、黄色いかわいい花たちに会えるはずなのだが。
校庭の端、プールに今ちょうど、陽光が伸びてきている。水面がきらきらと輝き、それは金色の漣のようで。もし耳を澄ましたら、鈴の音がしゃんしゃんと小さく高く、響いてきそうな、そんな気がする。
ゴロを籠に戻し、洗面台で顔を洗う。冷え切った体がぶるり、震える。それでも水で顔を洗うのは気持ちいい。私は何度もばしゃばしゃと顔を洗う。
目を閉じ、体に潜ってみる。
穴ぼこに会いにゆく。会いに行って、ちょっと驚く。微かだけれど、確かに風が吹いている。気のせいじゃない。
嬉しくなって、私は穴ぼこの周りを少し、歩いてみる。そういえば、私は穴ぼこの、私が思うところの正面からしか、会ったことがなかったかもしれないと、今になって気づく。今の今までそのことに気づかなかったなんて。自分の愚かさに驚く。
後ろに回ってみると。穴ぼこの姿は微妙に正面とは違っていて。穴ぼこには変わりないのだが、小さな山のようにも見える。私はそこにしゃがみこんで、しばらく耳を澄ます。穴ぼこのこちら側はどんなふうになっているのだろうと、ただ耳を澄ます。
なんだか、ここには諦観が、在るような気がする。何もかもを諦めた後の、残骸のような、そんな匂い。私はふと、手を伸ばしてみる。そして穴ぼこの裏側に、触れて、みる。
かさかさと音を立てて、何かが崩れた。何だろう。
それは多分、ごぼごぼの痕だと思った。ごぼごぼの痕が乾いてかさぶたになって、こんなふうにかさかさの木屑のようになったんだ、と。でもそれにしては、量が、少ない。
あぁそうか、穴ぼこやごぼごぼは、自分でちゃんと再生しようとしていたのか、と。諦観に埋もれても、それでも、生きることをやめないでいようとしていたのだ、と、その時分かった。何に埋もれたとしても、生まれたからには生きるというその基本姿勢を、彼らは貫いていたんだ、と。その時知った。
だから、私は生かされてもきたのか、と。納得した。
後ろ側はまだまだ暗く、闇の中だった。だから私は、手探りで、その木屑を均した。誰かがここに来ても、ここを歩いていけるくらいに、丁寧に均した。
すると、自然、穴ぼこの姿が、露になった。それは傷だらけの、ブロックかコンクリートのようだった。いや、きっと本当はブロックでもコンクリートでもないんだろう、私が知っているものがそれらに似ているというだけで。それにしても本当に傷だらけだ。これでもかというほど。それはまるで、苦渋に塗れた誰かが抗ってつけた爪痕のようで。痛々しい。何重にも何重にも、それはついていた。
もしかしたら、昔々ここに、誰かがいたんだろうかと、思うほどの爪痕だった。
いたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。分からない。分かるのは、少なくとも今は、もうここには誰も、私と穴ぼこ以外の誰も、いないということだけで。
私は改めて、穴ぼこの正面に回り、傍らに座り込む。穴ぼこは相変わらず静かだ。静かに、でも、今まさにこの、微かな風のそよぐ音を、聴いているかのようだった。
後ろ側に比べたら、この正面の方の、何と明るいことか。少なくとも私は自分の手や足や、輪郭が分かる。土の具合も分かる。穴ぼこの姿もありありと分かる。
こんなにも違うものなのだな、光がほんの少しでもあるかないか、その違いは。ほんの一筋でも、光が降りてくる、その力のなんと、偉大なことか。
穴ぼこは、少しずつまた、呼吸するエネルギーを、今、貯めているんだと思った。少しずつ少しずつだけれども、彼女はまた生きようとしており。だからこその今のこの静けさなのだと思った。
まだまだ普通に言ったら、心地いいわけじゃぁないだろう。でも、それでも、この静けさは、私には心地いい。清々しく澄み渡った空気が、心地いい。
穴ぼこをふと見ると、穴ぼこもこちらを見つめているかのようだった。少なくとも、彼女は私がここに在ることを、拒絶してはいないことを、改めて感じる。
そうして私は立ち上がり、また来るねと挨拶をして、その場を後にする。
「サミシイ」に会いに行った。「サミシイ」は相変わらず体育座りをしてそこに在た。私は挨拶し、傍らに座り込む。
何処からか、笛の音が響いてきた。ふと見ると、「サミシイ」がオカリナを吹いている。何処にオカリナなんて隠して持っていたんだろう。
そういえばかつて私は、散々オカリナを吹いて時間を過ごしていた時期があった。リコーダーに飽き足らず、オカリナに手を出したのだ。ソプラノのオカリナから始めて、アルトのオカリナもお小遣いを貯めて買った。私にとって、ソプラノの音より、アルトの音の方が、その頃、しっくり来たのを覚えている。低くすーっと、空気に溶け込むかのように響いてゆくその音色が、たまらなく好きだった。
楽譜なんて何処にもない旋律を、即興でひたすら奏でた。時が経つのも忘れ、オカリナを吹いていた。そうして気づけばいつも、空は夕暮れていた。
転校、転校で、私は人との関係に疲れていた。人の中にいたいと思いつつも、入りきれない自分を感じていた。毎日毎日具合が悪くなって、保健室に運ばれ、結局早退という日々の繰り返し。母の手作りの服をからかわれ、小突かれる毎日。勉強が少しできるというだけで、のけものにされる毎日。自分の意見なんて言った日には、とてつもなく避けられ、果ては生意気だと足を引っ掛けられる毎日。すべてがもう嫌だった。それでも何だろう、学校に行かない、という選択肢は、その頃の私には、無く。ただひたすら、針の筵のような毎日を過ごしていた。そんな中で、ピアノやオカリナという音たちは、私を救ってくれた。何故だろう、あの頃、寂しいという感情はほとんどなかった。それよりも、疲労感と嫌悪感、孤立感、そして諦観のようなものばかりが在った。私はもう、こういう星のもとに生まれたのだから、と、半ば達観していた。
我に返ると、まだ「サミシイ」のオカリナの音は続いており。ふと気づく、それはかつて私が即興で吹いたことのある旋律で。懐かしい、何処か哀しい音だった。
そして思う。もしかして「サミシイ」は、その頃何を感じていたのだろう。
口を持たないはずの「サミシイ」が、見えない口でオカリナを咥えて吹いているその姿は、何の違和感もなく私の心に伝わってきており。
何処までも何処までも、その音色は響いてゆくのだった。

お湯を沸かし、生姜茶を入れる。ステレオからは、Secret GardenのLore of the loomが流れている。私は開けたままの窓から、再び外を見やる。明るい陽射しが燦々と街に降り注いでいる。

「混乱や対立、恥ずかしさや憤慨を生み出すものはこの、げんにあるものや、あるがままの自分の回避です。あなたは私や誰かに、自分が何であるかを話す必要はありません。しかし、それがどういうものであれ、愉快なものであろうと不愉快なものであろうと、あるがままの自分について気づいていることは必要です。それと共に生き、それを正当化したり拒絶したりしないことが必要です。それと共に生きなさい、それに名前をつける〔=レッテルを貼る〕ことなく。というのも、その名前は非難か正当化だからです。それと共に生きなさい。恐怖をもつことなく。というのも、恐怖は交わりを妨げるからです」

薄い上着を羽織り、自転車に跨る。坂道を下ると現れる公園。公園の緑はますます青く茂り。あぁこれから日毎この緑は濃く深くなってゆくのだな、と思う。
大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。
並木道の銀杏からは、小さな赤子のような若葉が夥しい数湧き出ており。向こう側に広がる光の渦を求め、全員がその手をざわざわと伸ばしているかのようで。
通り沿いの躑躅は、まさに今満開。でも何だろう、私は、濃いピンク色の躑躅が苦手だ。躑躅なら、白か薄いピンク色がいい。
娘からメールが届く。おはようございます。ただ一言。私は笑いながら、洗濯物を済ませて今自転車で移動中だよ、と返事を打つ。
雀が三羽、自転車に驚いて飛び立つ。この空き地も、いつまで残っているんだろう。じきに建物に埋もれてしまうに違いない。それでも雀はここに来てくれるんだろうか。
さぁ今日もまた一日が始まる。青になった信号を合図に、私は勢いよくペダルを踏み込む。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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