見出し画像

2010年05月03日(月)

昨日よりも少し暗い部屋の中。起き上がり窓を開ける。ところどころに雲が広がっている空。あぁ雲が広がっている分だけ、空の明るさが少なく感じられたのかと、私は見上げながら思う。街路樹の若葉が風に揺れている。少し冷たい風が、東から流れている。通りを往く人も車もまだ、ない。しんと静まり返った街。私はぐるりとそれを見渡す。
私はしゃがみこみ、挿したばかりのミミエデンの枝を見つめる。こんな短い間でどうこう変化するわけではないことは知っている。知っているのだが、気になるのだ。どうしても気になる。だから私はじっと見つめる。やわらかな濡れた土に挿したミミエデンの枝は、まっすぐに天を向いている。ここからどう育ってくれるだろう。どこから新芽を出してくれるだろう。今はもうただひたすら、そのことが気になる。
ベビーロマンティカは相変わらず茂っており。そこだけ見ていると、まるで生い茂る新緑の樹のそばにいるかのよう。だから私は息をそっと吸いこんでみる。そこには新鮮な酸素がたくさん漂っているような気がするから。一番大きな蕾は、明るい煉瓦色に染まり、今か今かとその時を待っている。他の蕾たちも、それぞれに膨らんできており。それらはまだ萌黄色だけれども、それでも確実に膨らんできており。私はほっとする。
マリリン・モンローの蕾もまた、真っ直ぐに天を向いて立っている。その姿は何故こんなにも潔く見えるのだろう。惚れ惚れする。私はこの花の歴史は知らない。どういう経緯でマリリン・モンローと名づけられたのか、そういったことは何も知らない。だからあれこれ想像してみる。そして、この花を今マリリン・モンローが見たならば、何と感じるのだろう、と。
ホワイトクリスマスは徐々にではあるが新芽を広げており。危ういながら、まだ白い斑点にはなっていない、そんな感じだ。いずれ斑点が浮き出してきてしまうかもしれないが、それまではせめてこのままで、と思う。
パスカリはパスカリで、今まさに新芽の用意をしているといったところ。僅かに見えるその頭は、真っ赤に染まり、固く固く閉じている。これから萌え出るのだぞ、という力が漲っている。桃色のぼんぼりのような花のさく樹は、やはり先日見つけたものは花芽だったらしく。でもまだまだ小さく細い花芽で。頼りなげなその芽は、いつ風に折れてもおかしくないほどで。でも、折れないのだ。決して折れることはない。徐々に徐々に太くなり、そうして芽を伸ばすのだ。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗く。日に日に新芽を出してゆくラヴェンダーの、その力強さには目を見張るものがある。もう新芽がたくさんすぎて、支えるには重いだろうにと思うのに、それでも彼らは新芽を出す。次々に。今朝陽を浴びながら、一心に天に手を伸ばそうとしている。
校庭は昨日町内会の野球チームが集って練習をしていた、その痕に塗れている。走り回っていた子供らの足跡。ふと思った。校庭から足跡がなくなってしまったら、一体どんな光景がそこに広がるんだろう、と。子供らがいなくなってしまったら、校庭はもう、校庭じゃぁなくなるのかもしれない。そこはただのがらんどうになって、廃墟になるのかもしれない。どうかそんな日が来ることは、ありませんよう。
部屋に戻ると、がりがりと齧る音がしている。あぁミルクの齧る音だな、と見やれば、やはりミルクが扉のところにがっしと齧りついている。そしてゴロはゴロで、音もなく回し車を回している。おはようミルク、おはようゴロ。私は声を掛ける。こちらをぱっと見るゴロ。一方ミルクは、お構いなしにがしがしと扉を噛んでいる。私は実はミルクが苦手だ。なんだか勢いが良すぎて、噛まれそうで怖いのだ。でも、今遊んでやる娘がいない。私はこわごわ、ミルクの籠の扉を開ける。途端に飛び出してくるミルク。私は慌てながら、彼女を手のひらに掬い上げる。ひっきりなしに手のひらの上動き回るミルク。実はこれも怖い。私はびくびくしながら、彼女の背中を撫でる。それでようやく落ち着いてくれれば、言うことなしなのだが、彼女の場合そうはいかない。一度撫でると、もっとやれ、もっとやってくれ、と暴れ始めるからだ。もっと構って欲しいという気持ちはとてもよく分かる。分かるのだが、どう扱っていいのかが分からない。困った。私は、ひとしきり撫でて遊んで、そうして元の籠に戻す。まだまだ不満気のミルクに、小さく頭を下げて、今度はゴロへ。ゴロは怖くない。よほどのことがない限り噛み付いたりしないことが分かっているからだと思う。だから安心して手のひらに乗せることができる。ゴロは手のひらの上で、じっとしている。じっとしているのだが、頭だけ、あっちこっち動かして、でもちょっとすると、何故かこの子は後退する。だから手のひらから落ちそうになる。私は尻を押し上げてやる。
そのうちにココアも起きてきた。あちゃーと思いながら、私はココアにも挨拶し、今度はココアを手のひらに乗せる。そうだよねぇ、娘がいないから、寂しいんだよねぇ、退屈してるんだよねぇ。今日帰ってくるから、もうちょっとだから待っててねぇ。私は彼らに声を掛ける。ココアは私の腕をよじ登り、肩にまで上がって、ちょろちょろしている。ごめんね、ごめんね、と詫びながら、私はココアも籠に戻す。
洗面台で顔を洗う。少し寝不足気味な目がそこに在るのを感じる。鏡を覗くと、何となく腫れぼったい。私はとりあえずマッサージしてみることにする。それで腫れがとれてくれればいいのだけれども。
そうして目を閉じ、体の内奥へ意識を向ける。
胃が固い。そう思って振り返ると、穴ぼこが在た。おはよう穴ぼこさん。私は挨拶をする。そうして穴ぼこの傍らに、座り込む。
穴ぼこの周りにはもうちゃんと風が吹いており。その風はそよ風にも似た感じで。私の髪を撫でながら流れてゆく。私はその心地よさを思う存分味わう。そして、心底ほっとする。この場所に風が流れているというそのことに、ほっとする。
でも何だろう、今日の穴ぼこは、固く固く閉じているようだった。何かに向かって、閉じている、というような、そんな気配。
怖がっているのかな、と思い、しばし耳を澄ます。怖がっている、ともまたちょっと違う。もう少しこう、震えるような、不安に近いような、そんな、感じだ。
何があなたにとってそんなに不安なんだろう。私は尋ねてみる。穴ぼこは、ただじっと閉じて、まさにじっと、そこに在る。
これから何かがやって来る。まるで穴ぼこはそれから自分を守るかのようにしてそこに在る。そのことが、とても気になった。一体何がやって来るというんだろう。今の私の生活に、それはどう繋がっているのだろう。
いや、今の、ではない。私の内奥の、私の中に埋もれたものの、それらの残骸の波のような、そんな代物だ。そのことに、思い至った。
短い時間で、いろいろな変化があった。目に見える変化ではないけれども、私の中でいろいろなものが崩れもしたし、壊れもした。そうしたものがまるで、一気に、津波のようになって押し寄せてくるんじゃないか。まるで穴ぼこは、そう思っているかのようだった。そうなることによって、自分はまた、呑みこまれてしまうのではないか、と。それを恐れているかのようだった。
あぁそうか、今までの私なら確かに、それに呑みこまれて、倒れてしまっていただろう。この頃、倒れ果てる自分の姿を夢に見ることが多々あったが、それもその表れだったのかもしれない。
だから私は自問してみる。私は倒れるのだろうか、と。
答は、否、だった。もう倒れることは、ない。そう思った。
何故だろう、それには自信があった。もう倒れることはない。転ぶことはあっても、倒れ伏すことはない、そう今思う。それだけの道を経てきた。そう思う。
もしも、もしも倒れたとしても。私は大丈夫だ。また起き上がる。起き上がって、また歩き出す。そう思う。
だから、穴ぼこに言ってみる。大丈夫だよ、津波のように押し寄せてきたとしても、私は生き延びるから。そう言ってみる。過去の様々なものたちが津波のように襲ってきたとしても、私はそれによって今を諦めることはない、と。
穴ぼこは、ちょっと緩んだように見えた。一瞬だけど、そんなふうに見えた。私は変わらず、ずっと彼女の傍らに座っている。座って、ただそばに在る。
それにしても、何だろう、この自信は。まさに、これが自信ってものなのか、と私は改めて思う。決して揺らぐことのない、自分に対する思いが、そこに在った。確かな思いがそこに、在った。
穴ぼこの周りには風が相変わらず流れており。それは私の頬を心地よく撫でてゆき。そうして見やれば、穴ぼこのあの、かたくなに閉じられた気配はもうすっかり緩んでおり。
私は立ち上がる。また来るね、そう言って、その場を後にする。
お湯を沸かし、生姜茶を入れる。ステレオからはSecret GardenのCelebrationが流れている。窓の外はさっきよりも一層明るくなっており。開け放した窓からは、風が吹き込んでくる。窓際に干しておいた昨日洗ったセーターも、もうすっかり乾いた。口紅をさっと塗って、髪を一つに結わく。さぁ煙草を一本吸ったら、とりあえず朝の仕事に取り掛かろう。

「沈黙によって、体と精神と魂と、完全なる均衡が保たれる。自分の存在を、ひとつの統一として保っていられる人間は、生活にどんな波風がたとうとも、いつまでも平静で、動揺しないでいられる。木の葉が揺れても、湖のきらめく水面に波紋がおころうとも、平静でいられる。文字をもたなかった私たちの賢者たちにとっては、これこそが理想の態度であり、最上のふるまいだったのである。
 「沈黙とは何ですか」と問われたら、賢者はこう答えるだろう。「それは大いなる神秘だ」「聖なる沈黙、それは大いなる神秘の声なのだ」。
 「沈黙すれば、何が得られるのですか」と問われたら、賢者はこう答えるだろう。「それは、自分を自分自身で支配すること、真実の勇気であり、持続力であり、忍耐力であり、品位であり、敬意なのである。沈黙は、人格の礎石である」と。(「インディアンの言葉」ミッシェル・ピクマル編)

娘に電話を掛ける。今お風呂入ってんだよね! と笑う声は明るく弾んでいる。何かいいことあった? ん、別にないけどぉ、まぁ楽しいよ。そうなんだ、別にないけど楽しいんだ。うん、まぁね! こっちはミルクやココアの世話が大変だよ。あー、ミルクはすぐ興奮するからねぇ、また噛まれないようにしなよ! うんうん、分かってる。それにしてもさぁ、小さな声でしか話せないけど、テレビが全くない生活って、どうなの? ははは、まぁ、じじもばばも、テレビ嫌いだからね。なんか時代間違ってるって感じがするよっ。ははははは。

バスに乗り、駅へ。明るい陽光があちこちではじけている。ホームに立つと、疎らな人。昨日一昨日の駅の様子とは異なる。こういう閑散とした駅が好きだ、私は。そう思う。
走り出した電車の中、こっくりこっくりと居眠りをする人、必死にゲームをする人、携帯に見入る人、みなそれぞれ。私は本を閉じ、窓の外を見やる。
ちょうど電車は川に差し掛かったところで。川は燦々と降り注ぐ陽光を受けて、きらきらと輝いている。白く光るその水面。川岸には人が繰り出しており。釣りをしている人もいれば、バーベキューの用意をしているのだろう人たちの姿も。
降り立った駅も人影は疎ら。私は靴音を響かせて歩き出す。
さぁ今日も、また一日が始まる。

ここから先は

0字
クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

よかったらサポートお願いいたします。いただいたサポートは、写真家および言葉紡ぎ屋としての活動費あるいは私の一息つくための珈琲代として使わせていただきます・・・!