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2010年05月04日(火)

起き上がると一番に、辺りが薄暗いと感じた。もっとすっきりと晴れ渡る空を私が想像していたからに違いない。そんな薄暗い部屋、窓を思い切り開ける。ひんやりした空気が一気に流れ込んでくる。私はそのままベランダに出て、大きく伸びをする。
まだ人気のない街は静まり返り、しんしんとそこに在る。ベランダから手を伸ばせば届くところに、街路樹の若葉が手を広げている。私はそれにそっと触れてみる。空気よりさらにひんやりした若葉。そして何よりも、柔らかい。私がもし爪を立てたら、途端に破れてしまうんだろう。その儚げな、それでいて力強い若葉に、しばし見惚れる。
しゃがみこんで、ミミエデンの枝を覗き込む。何の変化も、もちろんまだあるわけでなく。それでも、何だろう、覗き込まずにはいられない。どうか生きてほしい、どうか枝葉を広げて欲しい、そう思うから。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる薔薇の、根元から出てきた新しい芽には、確かに花芽がついているのだが、危うい。白い粉が噴いてきそうな気配だ。私は指でそっとそっと触れてみる。せっかく出てきたというのに、早々に摘まなければならなくならないようにと、今はただ祈るしかない。
他のものたちの新芽にも、ちらほら、粉の噴いたものが見られ、私は順繰りに摘んでゆく。どうして今年は、こんなにもうどん粉病が激しいのだろう。何が悪かったのだろう。分からない。分からないから困る。近々また、石灰を撒いてみようか。私は心の中、そう決める。それで何か少しでも、変わってくれるといいのだけれども。
ベビーロマンティカは今四つの蕾をつけている。そのうちの、一番太っている蕾が、ちょうどこちらを向いて、じっとしている。私もそれを見つめ返す。明るい煉瓦色の花弁の色が見え始めたその蕾。他のもの達は哀しいかな、蕾と茎とが繋がるところに粉をそれぞれ噴いており。でもここまで来たのだからと摘まずにいる。花芽を摘んでしまうのはさすがに、躊躇われる。せめて咲いてから、早々に切って、切花にくらいはしてやりたい。
マリリン・モンローは二つの蕾をつけており。そのうちの一つが今ぱんぱんに膨らんでいる。薄いクリーム色の花弁はとてもやわらかい色合い。やさしく儚げな、色。そういえば交流分析の本を読むと、マリリン・モンローの人生脚本についてが書かれているところによく出会う。彼女にとりついていた禁止令が、彼女をあそこまで追い込んでしまったという記述を読むたび、私は想像する。彼女のその禁止令が働いただろう場面を。そして、自分に置き換える。私は果たして、それらを書き換えることができるだろうか、できているだろうか、と。
ホワイトクリスマスは、今ちょっと小休止、といったところか。新芽をゆっくりゆっくり出してきてはいるが。ふと思った。肥料が足りないのかもしれない。全体的に肥料が足りないのか、もしかして。そういえば液肥や堆肥はそれなりに継ぎ足してはいるが、それ以外のケアなど私は殆ど何もしていない。普通薔薇を育てる人は、もっとこまめに世話をするんだろう。あぁいけない、また他人と比較している自分がいる。比較して自己嫌悪に陥ったって何の得にもならない。そう思い苦笑する。とりあえず、近々肥料を買ってきて、継ぎ足してやろう。そう決める。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。そこに変化はなく。ラヴェンダーが新芽を重たそうに湛えている。デージーの種はやっぱり駄目だったんだろうか。残念だなぁと思いつつ、校庭の方を見やる。校庭の足跡はちょっと寂しげに見える。子供らがこのところ留守にしているせいかもしれない。校庭の端、プールは今、ちょっと弱々しい東から伸びる陽光を受け、輝こうとしているところ。でも東の空はうっすらと雲がかかっており。
部屋に戻り、顔を洗う。昨日帰ってきて、殆ど何もせずに寝床に入ってしまった。顔を洗うことさえしなかった。娘に踏まれても、起き上がらなかった。人ごみに出ると、どうも駄目だ。でも何だろう、たっぷり横になったせいか、体は復活している感じがする。
目を閉じて、体の内奥に神経を集中させる。
そこには「サミシイ」が在た。私は「サミシイ」におはようと挨拶をする。「サミシイ」はちらりとこちらを見て、小さく笑った。
あぁ私のことを、ちゃんと見て笑ってくれた、とその時思った。初めてに近いかもしれない。彼女がそんなふうにして笑うのは。
それは本当に小さな小さな、笑顔だったけれど。でも。確かに彼女は笑っていた。
私は「サミシイ」の傍らに立ち、彼女と同じ方向を眺める。いつの間にか、そこには空と海とが現れており。私は少し吃驚する。この景色は、一体何処から生まれたのだろう。
それは、私が何度も通ったことのある、あの砂丘に似ていた。丘はもっとなだらかで、そのなだらかな中に「サミシイ」が在るのだが、それでも、海と空との在り方は、あの砂丘にそっくりだった。
遠く遠くに小さく広がる空と海とを、私は、「サミシイ」の隣に立って、しばらく眺めた。
そしてふと、思った。「サミシイ」はもう過去を生きているわけでなく、もしかしたら今を生きているのかもしれない、と。
少なくとも、「サミシイ」はもう嘆いてはいなかった。
今まで蓄積されていたものたちを、すべて受け容れ、そこに在った。もし今「サミシイ」に過去のことを並べて見せたとしても、「そんなことがあったよね」と、彼女はさらりと流してしまいそうな、そんな雰囲気だった。
私はなんだか、とてもとても嬉しくなった。でもそれは激しい嬉しさではなく、じわじわと滲み出してくるような、やわらかな嬉しいだった。
私はまた来るね、と、「サミシイ」に言い、手を振った。本当は、彼女の手を握りたかったのだけれど、なんだかそれはまだ早いような気がして、今日はやめておいた。今度会うときにはきっと。そう思った。

友人の話をあれやこれや聴かせてもらう。聴きながら、私は、自分の中の軸についてあれこれ思い巡らす。
あんなことをされた、こんなことをされた、と思っていたことがあった。あんなこともあって、こんなこともあって、だから私はしんどくて仕方がないと思っていた時期があった。たまらないと思っていた。こんな人生ならもういらないと思った。
でも何だろう、視点をちょっと変えてみると、それらはがらりと色を変えた。
そういったこと全部、自分が選択してきたことなのだ、というふうに視点を変えたら、すべてが変わって見えてきた。そうしたら、それまでもう、前になんか進めないと思っていたものが、すっと前に進めるようになった。
どんなことでも、最終的に自分が選択し、自分で進んできたのだと、自分で責任を引き受けたら、いろんなことが楽になった。すっきりと合点がいった。
どこかで私は逃げていたのだろう。きっと。逃げをやめたら、私はすんなり前に進めるようになった。
もちろんそれでも、いろいろなことに悩むし、躓くし、落ち込んだりもする。それでも何だろう、大丈夫だとどこかで思える。思っている。ここを越えればまた、明るい場所が待っていると、信じることが、今はできる。

世界は比較で溢れている。これでもかというほど比較比較比較、で成り立っている。そんな中に在って、自分もやはり、比較をせずにはいられなかったりする。
でも、それなら、比較してしまう自分を自覚していようと思う。そうして常に、自問していようと思う。自分の尺度は、と。自分の軸は、と。他人の物差しで自分を計るのではなく、自分自身の物差しで計ってやりたい。だからこそ、自覚していよう、と思う。

友人が話してくれる。インナーチャイルドの存在すら、今感じられないのだ、と。もうずっと無視してきたから、踏みつけてきたから、見ないようにしてきたから、今もはやどこにそれが在るかさえ、分からないのだと。
何かをしたい、と自分から思う、その思いさえ、定かでないのだ、と。
私はその話に耳を傾けながら、自分にも問うてみる。
そして、思う。今そのことに気づいたということが、大切なのだろうな、と。そこから始めればいいのだ、と。
分からない分からないと声を上げるだけでは、きっと駄目なのだ。インナーチャイルドの声は本当に小さいから、震えているから、きっと今の私たちの叫び声にかき消されてしまう。だから、耳を澄ますことが大事なのだと思う。何処にいるの、と、常に問いかけて、耳を澄ましていることが、大切なのだと思う。
抱きしめてほしかった自分、無条件に愛しているよと言って欲しかった自分、ただ笑いかけてほしかっただけの自分、そういった自分は必ず、どこかに埋まっているから。ただ今もう、疲れ果てて、諦めすぎて、声を上げることさえやめてしまっているのだから。
ゆっくり、辿っていくことが大事なのだ。きっと。

私が原稿を書いていると、娘がいきなり顔を出してくる。そうして彼女の言うところの変な顔シリーズを次々やってみせる。それを無視して私が原稿を書いていると、彼女はさらに変な顔をしてみせる。とうとう私が笑うと、「まったくもー、無視すんなよー!」と彼女もげらげら笑い出す。
つくづく思う。彼女のこういうところは、一体何処から生まれたんだろう。私は一度としてやったことがない。私の近しい人たちの間で、こういう仕草をやってのける人は誰もいない。だから彼女の天性のものなんだとは思うのだが。
私の腹から生まれた代物でありながら、全く別個なんだなと、改めて思う。それが私には嬉しい。

朝の仕事を早々に終えて、弁当作りに取り掛かる。取り掛かって、はっと気づいた。梅干も何も、要するにおにぎりの具材を何も用意していなかった。慌てて私は棚を開け、ごそごそ引っ掻き回す。とりあえず、かつおぶしがあった。これで何とかいけるだろう。おかかおにぎり。
開け放した窓からは、ひゅうひゅうと風が滑り込んでくる。その風を感じながら、唐揚げを作り、野菜を茹で、おにぎりを握る。ステレオからは、Coccoの焼け野が原が流れている。娘がそれに合わせて踊っている。もちろん頭にはミルクを乗せて。
さぁ今日も、一日が始まる。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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