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2010年08月07日(土)

娘の居ない夜。何となく心細くて、窓を開け放しては眠れない気がした。おかしなものだ、娘がいれば、蚊取り線香を焚いて、窓を半開にして横になることが平気だというのに。あの小さな体の何処に、そんな影響力を秘めているんだろう。結局私は窓を閉め、蒸し暑い部屋の中、横たわる。
うとうとしかけるのに、そのたび目が覚める。結局午前一時までそうして粘ったが、寝入ることは叶わず。私は起き上がり、窓を開け放つ。
煙草に火をつけ、PCの電源を入れる。昨日友人と話したことを、順番に辿る。辿りながら、今私が調べられることを、ひとつずつメモしてゆく。
昨日は最後の授業だった。小さな卒業証書が渡され、分かち合いをし、終わった者から順に教室を出てゆく。ひとつの儀式。涙する人もいれば、私のように淡々としている者もおり。そうして教室を出れば、もうあとは、ひとりでやっていくしか術はない。
以前から考えていることがある。性犯罪被害者のSOSを出せるスペース作りができないかということ。たとえば週に二日。電話を受けられる日を作るとか。そういったことからでいい、できないものだろうか、と。
本当は全日できればいいのだろうが、それは私には不可能だ。生活ができなくなる。それでは意味がない。私と娘の生活を成り立たせた上でやるのでなければ、意味がない。
どうやったらそれができるだろう。ずっと考えている。
授業の後、Aさんと落ち合い、喫茶店へ。今日の授業というか儀式のことをひとしきり話す。分かち合いは、ひとり一分という持ち時間だった。クラスメートが全員輪になり、ひとりひとり、順番に向き合い、挨拶を交わす。一分という時間は本当にあっという間で。はい、握手を交わしてください、という先生の言葉に、みんな慌てて握手を交わす、といった具合だった。私はといえば。私がドライすぎるのかもしれないが、初めて会った時の印象と今の印象との違いを相手に伝える、それに終始した。一分といったら、そのくらいしか言葉交わす術はなく。二つも三つも四つも伝えようと思ったら、時間はなくなるわけで。でも何だろう。授業の最中、多分私が一番泣き虫だった。それが、最後のこの分かち合いでは、私は涙することなく、笑ってみんなに手を振ることができた。そういうものなのかもしれない。AさんもAさんで、何かこう、ひとつふっきれたような表情を見せている。一時期彼女は、もう授業を途中でやめようか、と悩んだこともあった。それが、最後までちゃんと出席し、こうして卒業した。今の笑顔は、多分そういうことを経てきたからこそ在る笑顔なんだと私は思う。
ふと思い立ち、Aさんに、私の思っていることを打ち明ける。こんなスペースを作りたいと以前から思っていたのだけれども、と。うんうん、と聴いていた彼女が、私に何か手伝いができないかな、と呟く。あぁ、そうか、そういう手があった、と私は思わずもちろんと返事をする。今日というこの日まで学んできたものを、生かす手立てが、ここにあるじゃないか。そう思った。
私たちは早速、下調べに入ることにした。今全国にどれだけの関連団体があるのか。そこがそれぞれにどういったサポートをしてくれるのか。緊急のときはどうしたらいいのか。そういったことをまず、調べていかなければならない。
そのことを一通り話し、メモをし終えた頃、彼女がふっと、漏らした。私、今日六ヵ月後に届くという手紙を先生に渡すとき、自分の住所はどこにしたらいいんだろうって悩んだの。私は黙って耳を傾ける。旦那に女の人がいるの。もう数年前から。
彼女はいつも、淡々と話す。その話も、淡々と話されてゆく。私は、ただじっと、耳を傾けている。彼女が最後に言う。でも私、自分から話を切り出すことはしないと思う。私が切り出したら、君の幸せのために別れようって言い出す人だから。と。そう言って、彼女は小さく笑った。
私たちは、次に会う約束を交わし、手を振って別れた。彼女と会う直前、ふと思い立って買った花束を、彼女はその手に持って、大きく振ってくれた。私も大きく、手を振り返した。
夕暮れの道、自転車で走りながら、私は彼女との縁を思う。最初の授業で、彼女と組んで互いに他己紹介をし合った。それが、私と彼女の最初の縁だった。彼女が挫けそうになったとき、何故か彼女が私に話してくれた。そのことが私たちを強く結びつけた。それからもいろんな小さな出来事があって、それらを経て、私たちは今、在る。
ここからどんなふうに発展していくのか、それは分からないけれども。大事にしたい縁のひとつだと、思った。
帰宅し、娘に電話を掛ける。すかんと抜けたような声が、受話器の向こうで響いている。これからばぁばと散歩に行くんだ。そうなの? うん、栗鼠とかね、狸とか、会えたらいいな。この時間にいるのかなぁ? 朝早くじゃないと出てこないんじゃないの? うん、明日の朝も行くから! そかそか。
電話を切った途端、友人から電話が入る。お嬢はいるかい? いや、今日からじじばばのところ。なんだぁ、つまんない、一緒に夕飯食べようと思ったのに。あら、ごめんねー。また今度誘ってー。そんな電話。でもそうやって、いつも仕事の合間を縫って、私や娘を誘ってくれる友人の気持ちが、とても嬉しい。
ひとしきり調べものをし、私は大きく伸びをする。ベランダに出て、空を見上げれば、美しい水色の空が広がっている。もう朝だ。
見上げれば見上げるほど、今日もまた暑くなるのだろうなぁと感じられる空。私はそんな空の下、しゃがみこむ。ラヴェンダーとデージーの、絡まり合った枝をまず解きにかかる。ふと見れば、デージーの、もうずいぶん前に咲いた花が、茶色くなり始めている。あぁ、そうだった、デージーは種ができるのだった。普段球根や樹ばかりをいじっている私には、珍しい光景。じっと見入る。茶色く染まり始めた花は、小さく閉じており。これから種を孕み始めることを示している。そうか、まだ終わりじゃないんだ、これからまた続くんだ。私はそんな当たり前のことに、小さく感動する。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。またひとつ、蕾が現れた。まだまだ小さな蕾だけれど、確かにそこに在る。
その隣、友人がくれたものを挿し木した、それは、今日も元気に新葉を広げてくれている。なんだかこの葉を見ていると、あまりの元気な勢いに、ふと笑ってしまう。大丈夫、まだまだこれから、と励まされているような気がする。
ミミエデンを見て、何かおかしいのに気づく。確かに変だ。葉を裏返して、私は舌打ちする。また虫がついている。私は、一枚一枚、葉を指で拭ってゆく。私の指が拭うたび、小さな何かがぷつぷつ潰れる。念のため、薬も葉の裏側に撒いておくことにする。
ベビーロマンティカは、今一輪の花を咲かせようとしているところ。あちこちから萌え出ている新芽が初々しい色合いを醸し出しており。花の色と重なり合って、風に柔らかく揺れている。
アメリカンブルーは、今朝、三つもの花を咲かせてくれた。微かな風にも揺れるその枝葉。花も一緒にゆらゆら揺れている。空の色を凝縮させたような青い花。きれいなきれいな、青い花。
ホワイトクリスマスに、花芽を見つける。新芽の間から確かに花芽を出している。嬉しい、またホワイトクリスマスの花に会える。
マリリン・モンローは、そんなホワイトクリスマスに寄り添うかのように立って、新芽を三箇所、四箇所から萌え出させている。まだこちらに、花芽の気配は、ない。
部屋に戻ると、かりかり、と音がしている。覗き込むと、ミルクが籠の入り口に齧りついて、遊んで遊んでと騒いでいる。私はしゃがみこんで、ごめんね、と謝る。遊んであげたいんだけど、お嬢はいないのよ。私はあなたがちょっくら怖いから、外に出してやることができないの。しばらく我慢して。手を合わせて謝る。
お湯を沸かし、生姜茶を入れる。濃い目に作って、ひとつはそのまま、もう一杯分は冷蔵庫に入れておく。帰って来たときくいっと飲めるように。
再び椅子に座り、煙草に火をつける。とりあえず、朝の仕事に取り掛かろう。今頃娘も置き出して、ばぁばとの早朝散歩に出かけているかもしれない。栗鼠たちに会えると、いいな。

玄関を出、階段を駆け下りて自転車に跨る。坂を下り、信号を渡って公園へ。あぁ、そうか、今週末は夏祭りなのだ。公園のあちこちで、今、組立作業が始まっている。堤燈があちこちから吊り下がり、小さな舞台が作られ…。この辺りは子供より老人の方が多い。夏祭りもだから、老人たちの間を子供が走り回る、といった光景。今年もまた、そういう季節が来たんだな、と思う。
公園に入るのはやめて、そのまま大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。さすがに今日はがらんとしている。背広姿の人はまったく見られない。今頃みんな、それぞれの休日を楽しんでいるのだろうか。素敵な一日になるといい。
私は真っ直ぐ走って海の公園へ。小さな波が、ざんざんと音を立てている。濃紺色の海。美しい色だ。その時、きらり、魚が銀色の腹を見せて飛び上がった。
さぁ、今日も一日が始まる。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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