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2010年05月08日(土)

午前三時。起き上がり、支度を始める。浴室に暗幕を張って、溶液を作り、引き伸ばし機をセットして。そうして作業に取り掛かる。
今回焼くのは八点。来月の個展で展示するのは七点。八点から一点落として七点に絞ることに決めている。もうほぼどれを落とすだろうということは自分で分かっている気がするのだが、でも最後の最後で迷っている。こっちにしようか、それともこっちにしようか。だからもう、がっと焼いてしまうことにした。
ピントを合わせる時、私は何故かいつも息を止めてしまう。それが多少長くても関係ない。息を止めないと、ピントを合わせられない。
私はデータというものを控えない。だからいつもぶっつけ本番だ。その時の気分、按配で、決めてしまう。これだからプロになれないんだなと苦笑するものの、それが私の性質なのだから、とも思っている。
何故だろう、暗室に篭っている時というのは、音楽が要らない。私はいつでも、何をするときでも音が必要になってくるというのに、この時ばかりは音は要らない。しんと静まり返った中、聴こえるのは紙の音、水の音、そして私の息遣いのみ。でもそれで、十分。
引き伸ばし機から、現像液に印画紙を入れる、そうして像がほんのりと浮かび上がってくるその瞬間が、私は好きだ。たまらない。どきどきする、のともちょっと違う、何て言ったらいいんだろう、どわっと体の内奥から何かが噴き出して来る、そんな感じがする。
一枚焼けると、勢いがついてきて、次々焼いてみたくなる。でもそこで勢いに任せると画が乱雑になってしまうから、自分の勢いを抑え、一つ一つの作業に神経を集中させる。
暗室、という、その暗闇であることも、私に大きく作用しているのかもしれない。落ち着くのだ、ほっとする。だから安心して手元に集中できる。
一枚、また一枚、そうやって仕上げてゆく。水洗する槽の中、印画紙がゆっくりと揺らめいている。私はようやく深呼吸する。
あっという間に二時間が過ぎた。ぎりぎりで八枚、仕上げることができた。着地点を決めていたから今回は二時間で済んだが、そうでなかったらとてもこれじゃぁ終わりにはならない。
昔、よく発作を起こしていた頃。あの頃、私は毎日のように暗室に篭った。たとえば腕を切り刻みたい衝動に駆られ、腕を切り刻み始めてはっと気づく。こんなんじゃいけない。そうして私は風呂場に飛び込み、暗室作業にとりかかる。そうすると、何故か、それまでの衝動が方向を変えてくれた。腕へひたすら向かっていた衝動が、印画紙へと方向を変え、私を救い上げてくれた。そうして気づけば朝を迎えるということが、一体何度あったことか。そんな時見る朝陽がどれほどに眩しく、でもいとおしかったか、を、今改めて思う。私の腕がちぎれずにここに在るのは、そうした行為があったおかげかもしれないと、大袈裟じゃぁなく、思う。
私はベランダに出て、もう一度大きく深呼吸する。ひんやりした空気が胸いっぱいに広がる。気持ちいい。風も心地よい具合に流れている。街路樹の若葉たちが、ひらひらとその風に揺れている。街路樹の足元に植わっているオレンジ色の花びらを見せているポピーも、一緒に揺れている。
私はベランダにしゃがみこみ、ミミエデンを見やる。ミミエデンの、古い株は、もう終わった。よく頑張ったなと思う。病に冒されながら、それでもここまで頑張ってくれた、ご苦労様、ありがとう。思いを込めて、私は株を撫でる。でもその脇で、今、挿し木したミミエデンが、まだ懸命に踏ん張っている。こちらはまだまだ息をしている。挿した当初より、少し、緑に艶が戻ってきた気がするのは気のせいだろうか。
ベビーロマンティカの蕾が、いつの間にか五つに増えている。気づかなかった。見落としていた。その新たな蕾たちは、葉の陰から顔を覗かせ、一生懸命空を見上げようと首を伸ばしているところだった。まるでミミエデンの分も、自分が花を咲かせてやろうとするかのように。
マリリン・モンローの蕾も、微かに風に揺れながら、それでも天を向いてそこに在る。蕾を指で弾いたら、きっと凛々という音が聴こえてくるんじゃないか、と、そう思えるほどの真っ直ぐな姿。見つめていると自然、こちらの背筋も伸びてくる。
挿し木たちを集めた小さなプランターの中、新芽がこぞって粉を噴いている。水を遣りすぎたか、私は慌てる。さぁ、挿し木の新芽を摘んでいいものかどうか。私は迷う。迷って迷って、今しばらく、そのままにしておくことに決める。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる薔薇の、花芽はすっかり粉を噴いており。でも、その花芽は確実に大きくなってきており。これを摘めというのか、と私は惑う。摘みたくない、と思う。できるなら咲かせてやりたい。どうしよう。困った。もうしばらくでもいいから、様子を見ようと決める。
パスカリたちは相変わらずこじんまりとまとまっており。今のところ新芽に粉のついている気配はない。このまましばらくいけそうだ。
そうして私は玄関に回る。回って、慌てて如雨露を取りに戻る。そうして早速水遣り。しんなりとよたっていたのだ、ラヴェンダーが。これは迂闊だった。ラヴェンダーは薔薇とは違って小刻みに水をやらないと、こういう具合になることを、すっかり忘れていた。如雨露から滴る水はあっという間に土に吸い込まれてゆき。これでもう大丈夫だろう。また水を吸い上げれば元に戻ってくれるはず。私はラヴェンダーにごめんねと詫びる。
部屋に戻り、再び風呂場へ。そろそろ水洗も終わった頃だろう。私は印画紙を一枚一枚干してゆく。風呂場の小窓を開け、その傍らに一枚一枚吊り下げる。もうその頃には、どれを落とすのか、決まっていた。本当は飾ってやりたいけれど、展示してやりたいけれど、またの機会にしよう、と決める。
食堂に戻ると、半分開けた窓から、風が流れ込んできていた。ゴロが起きている。おはようゴロ。私は彼女に声を掛ける。後ろ足で立ち、鼻先をひくつかせているゴロ。私はちょっとだけよと断って手のひらに乗せる。彼女はしょっちゅう後退して手のひらから落ちそうになるから、私は予め彼女のお尻に手を添える。彼女の顔を見て気づいた。今ほっぺたの中にはいっぱい餌が入っているのだな、と。笑えるくらいそれは、ぷっくりと膨らんでおり。でも彼女は上手に顔を洗ってみせてくれる。
私も顔を洗おうと、洗面台へ向かう。鏡の中、すっきりした自分の顔を見て、やっぱり暗室作業は自分に合っているのだな、と納得する。もともと私は写真というものが大嫌いだった。撮るのも撮られるのもキライ。カメラなんて冗談でも持ちたくない、というのが昔の私だった。そんな自分を思い返すと、今はちょっと笑える。なんであんなに拒絶していたんだろうな、と。魂を吸い取られるってわけでもないだろうに、でも、私は自分の姿が印画紙の上に残る、というそのことが、もう赦せなかったのだ。たまらなかったのだ。写真なんて、とだから思っていた。でも。その写真という術のおかげで、私はここまで越えてきた。不思議な縁だな、と思う。
目を瞑り、気持ちを体の内奥に集中させる。
鈍色の痛みたちは、まだそこに居残っており。当たり前だ、何も解決していないのだから、消え去るわけがない。でも何だろう、それらに向き合おうとする自分の体が、何だか重い。憂鬱とまではいかないが、重い。
考えていた。私は今酷く戸惑っているということを、改めて考えていた。
日々女っぽい体つき、仕草を身につけてゆく娘の傍らで、私は何をしているんだろう、と感じている自分がいることに気づいた。そして、こんな、自分の性を否定している母親が彼女のそばにいて、本当にいいんだろうか、大丈夫なんだろうか、と、不安に思っている自分がいることも発見した。
そして。私が娘と自分の性の在り方を、比較しているらしいことにも、気づいた。でも。
そこまでだった。
それ以上が、何も考えられなくなった。
だから私は耳を澄ましてみる。痛みたちに、耳を澄ましてみる。痛みたちは今、改めて私に何を伝えようとしているんだろう、と。
痛みたちは、そんな私を、どこかで拒絶しているかのようだった。拒絶、まではいかないとしても、何だろう、こう、認めていない、というような。そんな気配。
何がそんなに認められないの、と問おうとして、やめた。それは愚問だ。彼女らにとって、今の私の在り方が、認められないことは、もう分かっている。そして、彼女らが私にどうして欲しいかも、もう、ほとんど分かっている。
でも。
私はまだ、二の足を踏んでいた。越えるにはあまりに大きな隔たりだった。
ふと思った。そうした隔たりが生じてしまったのは、何故だったんだろう。ああした被害に遭っても、自分の性を受け止めている人たちは多々いる。私のような人間ももちろん在るが、そうじゃない人たちも多々在る。この差は、どこから生じているんだろう。
何か一つでも、クリアできることはないだろうか。私はあれこれ思い巡らしてみる。でも。でも、なのだ。でも、がついてしまうのだ。どうしても。
私は再び耳を澄ます。彼女たちは今何を思っているのだろう。
カナシイ、という響きが、漂ってきた。そういう自分で在ることが、カナシイ。彼女たちは、まるでそう歌っているかのようだった。
カナシイ。そう、カナシイかもしれない。彼女たちは、私が否定しているということは、もう自分たちは用なしで、それは、この世のすべてから用なしとみなされていると思っているかのようで。自分たちは存在しているのに、その存在をありとあらゆるところから、用はないとみなされている、と、思うしかないところに、彼女たちは在るかのようで。
それがどれほどカナシイものだか、私にも、ありありと伝わってきた。
でもじゃぁ、私はどうすればいいんだろう。そう思ったところで、はたと気づいた。
あぁ私は、否定しているわけじゃなく。別に今、明らかに彼女たちを否定しているわけじゃなく。ただ、この状態が、楽なんだ、ということに。改めて気づいた。
これも私の在り方のひとつであって。それは昔とは全く異なる立ち位置かもしれないけれども、でも、これもこれで私の一つの在り方であって。私は逆に、今はそうでありたいと、思っているところがあるんだということ。
私はだから、痛みたちに言ってみた。ねぇ、私、あなたたちを否定しているわけじゃないってこと、今改めて気づいた。否定しているわけじゃなくて、ただ、それを今、誇示する必要がないってだけなんだよ。確かに私は女の性からちょっと離れたところで今生きているけれども、でも、女や男をあまり意識したくないっていうのは、本当だけれど、でも、否定はしてない、よ。うん。それじゃ、だめなのかな?
痛みは、納得がいかない、というふうにこちらを見ていた。
だから私は続けて言ってみた。私、今は、自分が女に産まれて来たこと自体は、キライでも何でもないよ、むしろ、そうあってよかったって思ってる。女だからこそできたこと、経てこれたこと、たくさんあると思うから。もちろんそれによって失ってきたものも多々あることは事実だけれど。それでも、女に生まれてきたこと自体は、私は今は恨んでも後悔してもいない。そこからもう一度始めるんじゃ、だめなのかな? 今すぐに、この隔たりを飛び越えろって言われても、私多分、もっと怖気づいて、できなくなってしまう。それなら、この位置から、改めて始める、っていうことの方が、私にはできそうな気がする。いや、そうしたいと思うんだけど、それで、いいかな?
痛みたちは、黙っていた。納得してくれたわけじゃない。そのことは、ありありと分かった。でも。黙っていた。黙って、私を見つめていた。
あの子との生活も、これからもっともっと、性を意識しなくちゃならないことが出てくるんだと思う。あの子自身が、これからもっともっと女になってゆくわけだから、そのすぐそばに私は在るのだから、否応なく意識していかなくちゃならない。戸惑うよ、どうしていいんだろう、って。でも。少なくとも私は、あの子の性まで否定しようなんて気持ちは、さらさらないのだから。あの子と共存しながら、私は私で模索していきたいと思う。それじゃ、だめなのかな?
失った性を、滅多切りにされた性を、どうやったらもう一度素直に手にすることができるのか、今は全く分からないけれど、でも、ここから、やってはみるから。
本当は。本当は痛みたちは、私に、ひとっとびにこの隔たりを飛び越えて欲しかったんだろう。でも、私にそれは、できそうになかった。そのくらい、あまりに大きな隔たりだった。いろいろな出来事によって、その溝は、深く深く、抉られていた。
また来るよ。私はそう言って立ち上がる。痛みたちは、じっとこちらを見ていた。まるで推し量るように、こちらを見ていた。私の気持ちがどこまでのものなのか、推し量るように。
目を開けると、途端に周りの音が押し寄せてきた。多分ミルクだろう、回し車を回す音、ステレオから流れる曲はwindancer、風が窓を通り抜ける音、葉が擦れる音、世界には音が溢れている。

それじゃぁね、じゃぁね、手を振って別れる。娘はバス停へ、私は自転車に跨り坂を下る。公園は緑がこんもりと茂っており。朝陽は茂みの向こうで弾けている。もうじききっと、この辺りにまで緑の匂いが漂ってくるに違いない。そういう季節だ。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。
街路樹の銀杏たちが揺れている。埋立地はいつでも風が強い。立ち並ぶビルの隙間をぬって吹く風は、どこか乱暴で冷たい。その風に吹かれながら、私は海に向かってただ走る。
久しぶりに数羽の鴎と出会う。港の辺りを飛び交う鴎は、翼を銀色に輝かせ。それは鮮烈な色彩で。私は思わず目を細める。
海は濃紺に少し深緑を混ぜたような色合いで。もう港の中では忙しげに船が行き交っている。太陽は煌々とそこに在り。
さぁ、また一日が始まる。私は自転車に跨り、先を急ぐ。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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