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2010年04月17日(土)

がしがしがし。音がする。起き上がって見てみると、ココアとゴロ、両方ともが、籠の扉のところに齧りついている。おはようゴロ、おはようココア。私は声を掛ける。待ってましたとばかりにさらに勢いづくゴロとココア。私は苦笑する。ちょっと待って、今は無理だからと断って、窓辺に行く。窓を開けると冷気が瞬く間に滑り込んでくる。雨だ。いや、違う、雨じゃない、霙だ。ぱちぱちと音を立てて降っている。アスファルトに叩きつけるように降るそれは、弾かれてぱちんと飛び上がる。私は手を伸ばしてみる。手のひらの上、落ちてくる霙は、一瞬ぱちんと弾かれ、再び落ちて溶けてゆく。
イフェイオンの上にも霙が降る。でも土の上だからだろう、落ちてもそれは自然で。弾かれることもなくすんなりと沈んでゆく。
薔薇たちのプランターは庇の下に置いてあるから、今のところ大丈夫だ。これが斜めに入ってきたらいっぺんでやられてしまうが。風が強くならないことを祈るばかり。
部屋に戻ると、テーブルの上、山百合とガーベラとが咲いている。明るい橙色と明るい煉瓦色とのグラデーション。そこだけほっくりと灯りが点ったような気配。私はそれらを水切りし、再び活ける。多分、この週末で終わりなんだろう、特に山百合は。花弁にずいぶん皺が寄っている。ここまで咲いてくれたことに感謝するばかり。
ココアとゴロは、まだがしがしと扉のところに齧りついている。私はしゃがみこんで、まずココアを手に乗せる。ココアはやったとばかりに、私の腕を伝い、肩にまで上がってくる。そして私のうなじのあたりをぐるぐると回る。てちてちと、小さな手で私のうなじを叩くのがこそばゆい。その間に私は、昨日残した洗い物を済ますことにする。昨日はちゃんとお弁当を作って持たせたというのに、帰宅してからも娘はさらに、うどんを食べ、おにぎりを食べた。ついでにヨーグルトも。太っちゃうよ、と声は掛けたが、今太ってないからいいんだもん!と返事があった。確かに、いくら食べても彼女は太ることがない。羨ましい。
洗い物を済ますと、今度はゴロ。ゴロを肩に乗せるのだが、彼女は掴まっていることがとても下手で。ずりずりと落ちてきそうになる。そのたび私はお尻を押してやる。洗い物を拭いて、片付けている間、何度お尻を押したか。それでも、そうやって構っていることが、彼女は嬉しいのか、なかなか離れようとはしない。
洗面台に向かい、顔を洗う。鏡の中、映る顔は少し白く。ぼんやりしている。まだ眠気が残っているのかもしれないと、もう一度冷水で顔を洗ってみる。
そうして瞼を閉じ、内奥に耳を傾ける。胸の奥の方、背中に近いあたりに鈍い痛みを感じる。いや、痛みというより、苦い何かだ。何だろう。私は目を凝らす。それはよく見ると、私の背中の内側にぺたり、貼り付いており。まるでアメーバーのような感じがする。とりあえず、挨拶してみる。おはよう。ぺたりと貼り付いているアメーバーは、そんな声に関係なく、まるで増殖しようとしているかのような雰囲気。細胞分裂でもして増えていくつもりなんだろうか。それほど、私は何か、溜め込んでいるものをもっているんだろうか。そんなつもりは全くないのだけれども。
アメーバーさん、あなたは何がそんなに不愉快なの? そう、不愉快、そんな感じがしたのだ。何故かよく分からないけれども。私はそうして尋ねてみる。アメーバーからは何の返事もない。ただ、アメーバーの体はよく見ると、暗緑色の光をまとっており。ところどころ、光る点があるのだった。
すると、いきなり返事がある。そりゃ不愉快なんだよ、君がはっきりしないから。言われて、私は困る。何のことだか全く分からない。不愉快って言われても、私はそんな不愉快じゃないんだけれども、と思う。でもそのまま、耳を傾けていることにする。
なんだか知らないけど、やけに厄介事を抱え込むじゃぁないか、それが不愉快なんだよ。そう言われても。私はそんなつもりは全くないのだけれども。それが不愉快なんだって言ってるんだよ。
アメーバーは不愉快極まりないといった風情で貼り付いている。私の言葉で余計に不愉快さは増しているようで、体が縦に横にと膨張する。
自覚がないっていうところに、腹が立つんだよ、そうやって、自分を浪費しているって気がつかないわけ? アメーバーは続ける。人がいいっていうのにも、程があるんだよ、それで自分がぶっ倒れてたら、意味ないじゃん。アメーバーは呆れたように言う。私は閉口する。ぶっ倒れてたら意味がないって、それはそうだ。私が何かを引き受けて、そのたびぶっ倒れているんじゃぁ何の意味もない。
しかも、私たちのような者の、つまり、君の内側にいるものの声に耳を傾けるより、外に傾けることの方が、君は格段に多くて、それもいらいらする。アメーバーは続ける。もっと自分の内側とうまくつきあってくれよ、でないと、こっちはもう勝手に振舞うしかなくなるよ? 君のことなんてお構いなしに、っていうか、君がこっちを構っていないわけだから、こっちはこっちでやるしかなくなるじゃないか、それでいいわけ?
私は首を傾げる。最近できるだけ、内側の声に耳を傾けているつもりだった。でもそれじゃぁ全く足りていないということを、アメーバーは言っているのだろうか。
それで何となく、合点がいった。そうか、こうして耳を傾け始めた私だけれども、アメーバーに気づくのにはずっと時間がかかって。だからアメーバーは不愉快なのだ、自分がさらにないがしろにされているような気分がしたんだ、きっと。私はごめんね、と謝ってみる。アメーバーは、大きな溜息をひとつ、つく。
人生、有限なんだからさ、限りがあるわけなんだからさ、自分をこそ大切にしなくてどうするよ、自分の世話、他の誰がみてくれるよ、みてくれないだろ? 死んでから後悔したって遅いんだよ? 分かってる? あぁ、うん、それは、分かってる。いや、まだあなたが言うほど分かっていないかもしれないけれども、少しは分かってる。アメーバーはまたひとつ、溜息をつく。
ついこの間のことだってそうだよ、誰かしらの話を聴きながら、君は、羨ましいってことだって悔しいってことだって思ったはずなんだよ、でもそれを、無視したろ? 無視…したのかな? 少なくとも、見ないふりしたろ? 見ないふりっていうか、あぁそういう自分はいやだなぁとは思った。ほら! え? そうやってこっちを無視していくんだよ、君は。
私はアメーバーが不愉快極まりないと主張する理由が、少しずつ分かってきた。アメーバーはつまり、私の内奥にそのつど湧き出てくる私の素直な何かを、私が見てみぬふりをしたり、否定までいかなくても、或る意味での拒絶をしたりすることを、ずっと見てきたのだ。それが、厭で厭でたまらないのだ。なるほど、そうか。それもごもっともだ。
分かった、じゃぁ、私は、これからは、否定はしないようにする。あぁ、そういう感情や感じがわいてくるんだな、とか、そこにそれが在るんだな、って、いうふうに、受け容れて、できるかぎり受け容れていくようにするから。それでいいのかな?
アメーバーは、じっとこっちを見ている。そんなこと今更できるわけ? といったふうに、こちらを見ている。私はただ黙って、アメーバーを見つめ返す。
否定しないことが大事なんだよね。拒絶しないことが大事なんだよね。違うかな? …。私がそれをあるがままに受け容れて、認めることが、大切なんだよね?
アメーバーは黙っている。しばらくそうやって黙ってこちらを見つめている。
受け容れた上で、認めた上で、そこからまたどうするかは、私が為していけばいいんだよね? 私は重ねて聴いてみる。
アメーバーの、それまで縦横に膨張して、不愉快さを一面に出していたのが、ふと止まった。私はそれを感じながら続ける。とにかくやってみるよ。やってみて、また違うなと思ったら話し合おう。その時アメーバーがふと言った。
嫉妬も羨望も恐怖も、否定するもんじゃぁないよ、それはそれで、在るものなんだよ、在って当然なんだから。できるのは、否定することじゃなくて、受け容れて、認めて、その上で越えていくことなんじゃぁないのか?
あぁ、そうだ、と思った。だから私は頷く。ありがとう、教えてくれて。そうだよね、私はそうしているつもりで、でも見ないようにしたり拒絶したりしているところが確かにあった、うん、これからは、そうしないようにしていくよ。ありがとう。
アメーバーはその途端、ひゅん、と小さくなって。いや、貼り付いてはいるのだが、アメーバのようにどくどくしたものではなくなって。ぺたりと壁に貼り付いているシミのような、そんな代物になった。
目を開けると、アメーバーの、あの暗緑色の体と光る点々が、まだ目の中に残っていた。

霙は止むことはなく。降り続き。朝一番のバスは、始発にも関わらず混んでおり。私たちは後ろの席に何とか座る。窓にぱつぱつと当たる霙。その音を聴きながら、私たちはバスに揺られてゆく。
じゃぁね、それじゃあね、手を振って別れる。娘は右へ、私は左へ。
電車に乗り込み、しばらくすると、家々の屋根がうっすらと雪をまとうようになった。あぁそんなにも冷え込んでいるのかと改めて思う。緑の畑に、雪が積もっている様は、何だか不思議な気がする。でも、その色合いは美しく鮮やかで、思わず目が止まる。
窓の向こう、地平線に沿って、空を覆うのよりもずっと濃くて厚い厚い雲が澱んでいる。あの中では今一体何が起きているんだろう。すっかり姿が隠された山では、今何が起きているんだろう。
さぁ、今日もまた、一日が始まる。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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