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2010年05月14日(金)

体が重だるい。起き上がりたくない。そう思いながら起き上がった。部屋の中が薄暗い。窓を開けると、一面に雲が広がっている。昨日のあの天気は一体どこへ消えたのだろうと首を傾げたくなるほどのもくもくした雲で。私はしばしそれに見入ってしまう。ふと光を感じて西を見やる。西の空の雲が薄く、そちから光が滲み出しているのだ。不思議な光景だと思った。朝の空なのに西の空が明るい。なんだか今は朝じゃないような、そんな気さえしてくる。
街路樹が揺れている。さわさわと揺れている。流れ来る風に揺れている。街路樹の足元を見れば、オレンジ色のポピーもまた揺れている。オレンジ色も、だいぶ色褪せてきた。うっすらと白味がかってきた。もうじき花が終わり、種の時期になるのだな、と思う。
そういえば最近、雀の姿を見ない。ごみ収集の日の朝、大きな烏は見るものの、雀の姿がない。改めて辺りを見回すのだが、何処にもいない。一体何処に行ってしまったんだろう。どこか宿を見つけたんだろうか。
流れる風を感じながら、私はしゃがみこむ。しゃがみこんでベビーロマンティカの花を見やる。ぽっくりと咲いたその花。何処か古びた家具を思わせるようなそんな姿。そろそろこれも切り花にしてやる時期かもしれない、と思う。いきなり四つも五つも蕾をつけて、樹はきっと今必死だろう。ぐるんぐるんにエネルギーを回しているんじゃないだろうか。花がこのくらい開いてくれば、あとは切り花にしてもちゃんと楽しむことができるのだから、今日帰ってきたら切ってやろうと思う。残りの蕾たちの付け根には、それぞれ粉が噴いており。それは花弁の方にも少しかかっているから、咲いたらできるだけ早く切ってやらなければならない。きっと一番外側の花弁の先には、粉がくっついたままで咲くんだろう。それがこれ以上はせめて広がらぬよう、切ってやらなければ。あと少し、あと少し、だ。
マリリン・モンローの蕾は、綻び始めたものの、その速度は非常にゆっくりで。まだまだ花が咲くには時間がかかりそうだ。濃いクリーム色の一番外側の花弁は、ちょっと疲れてきた、といった感じがする。これまでずっと蕾を守り続けて外界に晒され続けてきたのだもの、それも当然。私は指先でそっと撫でてやる。もうちょっとだよ、もう少しだよ、と励ましながら。
ホワイトクリスマスは相変わらず、しんしんとそこに在る。気品というのは、こういうものなのか、と、彼女を見ていると思う。おのずと滲み出てくるもの。決して嫌味でもなんでもなく、自然にこちらにも伝わってくる、そういうもの。その根元はすでに、節くれだっていて、ホワイトクリスマスが越えてきた年月を思わせる。
パスカリの一本は、新芽が病に冒されており。これはまた摘まねばなるまいな、と思う。摘まねばならないのだが、なんだかちょっと躊躇う。こちら側のプランターの樹たちは、何故かみんなこじんまりしてしまって、それ以上大きくなろうとしない。これは何故なんだろうと改めて私は首を傾げる。土も肥料も、同じ量をあげている。違うのはプランターの形。それだけ。それだけなのだが、こんなにも育ち方が違う。このプランターの深さが合っていないんだろうか。もっと深いものにしてやった方がよかったんだろうか。今更そんなことを考えても仕方がないのに私はつい考えてしまう。何かが違うんだ、きっと。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹の蕾。日に日に大きく膨らんでいっている。私は今朝もその蕾をゆっくり指の腹で撫でる。粉を拭き取るようにして撫でる。もちろんそれで病が治るわけではない。分かっている。分かっているが、せめて表面に出てきた粉だけでも拭ってやりたい。そう思うから。
玄関に回ってラヴェンダーのプランターを覗き込む。ラヴェンダーの一本を切り詰めてやったのだが、萎びた葉はそのままになってしまっている。切り詰めるのが遅かったか。私は唇を噛む。ここまで頑張ってくれているのに、どうしよう。どうしたらいいんだろう。うまい方法が見つからない。その傍らで、もう一方のラヴェンダーはしゃんと背を伸ばしている。全身から次々噴出す新芽を、重たそうに抱えながらも、背を伸ばしている。そういえば、冬の間は、こちらの方が元気がなかったんだっけ、と思い出す。もうこちらはそのまま駄目になってしまうのかなと何度も思った。それが今はどうだろう。ここまで育ってきている。植物は本当に強い、と思う。
目を凝らすと、デージーの芽が。小さな小さな、本当に小さなその葉を、ぴんと伸ばして、全身で太陽の光を浴びようとしている。今朝その光はほとんど感じられない。それでも、彼らは必死に両手を広げている。信じているのだな、と思った。光は必ずそこに在る、と、彼らは信じているのだ。そして、何度裏切られても、信じることをやめないのだ。そうした強さが、彼らを支えているのだ。
何度裏切られても信じ続ける強さ。私には在るんだろうか。残念ながら、私には、そこまでのものは、ない。何度も裏切られていくうちに、それを断つか、次に進むかを選択する。いつまでも待っていた時期があった。そう、何処までも信じて、待ち続けることをしていた時期もあった。でも、それでは私は前に進んでいくことができないことにも気づいた。だから、何度か裏切りが続けば、私はそれを手放す。今は、そういう私が、在る。
あぁ、根っこを持つか持たぬかの違いが、そうしたところに現れるのかもしれないな、とふいに思った。植物は、ここでただひたすら待ち続けるしか術はない。私はといえば、足を持っている。その足で、立つ場所を選ぶことができる。だからこそ、私は歩き続けて、探し続けてゆくのだな、と。ふいに思った。
校庭は、昨日集っていた子供の足跡でもういっぱいになっている。隅から隅まで、足跡だらけだ。なんだかちょっと笑ってしまう。あんな場所にまで足跡が残っているなんて。そう思って笑ってしまう。そういえば私も子供の頃、大人がとんでもないと思う場所に、よく入り込んで遊んでいた。かくれんぼをした日など、特にそうだった。子供らが探し出す場所はとてつもない場所ばかりで。手足が擦り切れると分かっていながらも、大きな大きな薄の茂みの中に入ってみたり、家と家の狭間の、本当に人ひとり入れるかというような狭い隙間に、体を忍び込ませて隠れたり。思い出すととても懐かしい。
プールは灰色の空を映して、しんと静まり返っている。東から吹いて来る風が小さな漣を描いている。
部屋に戻ると、ゴロが音もなく回し車を回している。おはようゴロ。私は声を掛ける。ゴロはその声に反応して、こちらをついと見上げる。それにしてもあなた、大きくなっちゃったねぇ、と私は笑う。なんだかちょっと貫禄がついてきた、というような、そんな体型。でーんとお尻が大きくなって、頼りなかった胴体にもしっかり肉がついて。これ、お年頃の女の子なら絶対、ダイエットするって思う体型なんだろうなと思ってしまう。
ゴロを手のひらに乗せながら、私は昨日の友人との電話を思い出す。その友人は、数年前に起きた出来事も、ちゃんと覚えていてくれて。だから話がすっと進んだ。ねぇさんが、今ショックを受けているのは当たり前だと思うよ。と彼女が言う。私の知っているねぇさんは、何か事を始めたら、とことんそれに打ち込むでしょう、そうした打ち込んだことがないがしろにされたら、傷つくでしょう。うん。そしてその相手が相手なんだもん、今のようなショックを受けてて、当たり前だと思うよ、っていうか、そうじゃなきゃ、気持ち悪いよ。そう言って彼女が笑う。そうか、気持ち悪いか。私も笑う。
でもさ、本がね、在るんだよね。うん、そうだよね。本が在る、本が見える、それだけで、ずきんと来るんだよね。うんうん、そうだよね。でも、ねぇさんは何もおかしなこと言ってないと思うよ。なんというかさぁ、本当にこれでよかったのかな、って、そんなことさえ思ってしまうんだよね。こんなことになるなら、って思ってしまう自分がいる。でも。でもね、そうしかできなかった自分も在て。うんうん、それでよかったんだよ。あぁ、もう私にやれることは、やり尽くしたなぁって、そう思う。うん、そうだよ。もう十分やったよ、ねぇさん。
そう、思い出すほどに、思い返すほどに、思うのだ。もう、私に出来ることは全部やった、と。なのにこの切なさは何なんだろう。
やれることをやり尽くした、その最後の最後、こうした結果に終わったことが、私はひどく悲しいのだなぁと思う。そうか、私は報われたかったのか、と、そのことに気づいて苦笑する。そんな、何でもかんでも、丸く収まる、なんてことは、あり得ないと、もう十二分に分かっているはずなのに。
でも。
もう切り替えようと思う。私には私の毎日が在る。もう過去になってしまったことは、変えようがなく。過去と他人は変えられない、本当にそうなのだなと思う。だとしたら、私に今できることは。それは、私が私の今を十分に生きることだ、と。そう、思う。
ただ。しかと、覚えておこうと思う。今回のことは、しかと心に刻んでおこうと思う。私がどういう人間で、こういうときにどうなったかということを、しっかり刻んでおこう、と。そして、できるなら二度と、繰り返すまい、と思う。

風呂に入りながら、髪を丹念に洗う。最近トリートメントを疎かにしていたせいか、何となく艶がなくなってきた。年のせいだろ、と思わなくもないのだが、でも、努力することでどうにかなるものなら、と、時間をかけて洗う。
ふと思った。私が、今、女を主張しているところが唯一あるとしたら、それは髪の毛かも、と。あぁそうか、そのくらいは私にもできていることなのだな、とはっと思った。私は湯船に浸かりながら、目を閉じてみる。目を閉じて、何処へともなく言ってみる。
私はこの部分だけは、髪の毛だけは譲れないらしいよ。こればっかりは、大事にしたいらしいよ。うん、私にも、そういう部分がちゃんと、残ってるよ。
聴こえただろうか。あの痛みたちに。届いているだろうか。
分からないけれど。でも。私はなんとなく、微笑んでしまう。よかった、と思う。私の髪はそろそろ腰に届く。手入れの為に切ることもあるんだろうが、それでも、私はよほどのことがない限り伸ばし続けるんだと思う。こうやって夜毎髪を手入れしながら。

ステレオからは、Secret Gardenが流れている。Dawn of a new century。この曲は、進むにつれ、ずんずんと音が膨らんでゆき、聴いていると、一歩一歩前へ進んでゆけるような気持ちにさせられる。好きな曲の一つだ。
お湯を沸かし、お茶を入れる。今日は授業があるから、水筒にも生姜茶を作る。今日はマイクロカウンセリングの二回目だ。実習授業。ひととおり復習はしたものの、ちょっと緊張している。別にうまくできる必要なんてないのだが、そうじゃなくて、何だろう、ちゃんとひとつずつ踏んでいけるだろうか、と、それが私を緊張させる。
ひとつとして落とすわけにはいかない。

誰かのせいにして、それで逃げても、私は結局、そこに戻ってくる。それなら最初から、自分主体で考える方がいい。自分が何をしたのか。自分がどうしたのか。自分が何を選び、歩いてきたのか。そのことを認め受け容れて、それでようやく、次に進むことができる。
失敗なんて、いくらだってする。後悔だっていくらだってする。でもそれはそれでいい。失敗したら、後悔したら、その時立ち止まって、思い返してみればいい。おのずと見えてくるものがあるはずだ。そうしたら、それをちゃんと受け容れて、そうしてまた次に進めばいい。
生き急いでいる時期があった。すべてを駆け抜けてゆこうとしていた時期があった。でも今は違う。今は、生き続けることを思う。私が残りの人生、しかと生き続けるために、今何ができるのか。そのことを、思う。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。見上げると空には、少しずつ青空が広がってきている。よかった。
天気雨だろうか。空が晴れてきているのに、ぽつり、ぽつりと雨粒が落ちてくる。本当にぽつり、ぽつりと途切れ途切れに。バス停に立って私は空を見上げる。大丈夫、傘はいらない、必ず晴れる。
バスに揺られながら、本を開く。読んでも読んでも頭に入ってこない。観念して本を閉じ、窓の外を見やる。
そういえば父から昨日電話があった。頼まれたことを予定表に記しておかなければ。
ふと、遠くの西の町に住む友人の顔が浮かぶ。元気でいるかい。私は心の中話しかける。最近元気がなさそうだけれど、大丈夫かい。手紙を書こう書こうと思って、のびのびになっている。今日帰ってきたら必ず、手紙を書こう。私はそれも含め、予定表に記す。
川を渡るところで立ち止まる。少しずつ雲間から漏れ始めてきた陽光を受け、ほんのりと光っている川面。流れ続ける川。私はしばしその様に見入る。
さぁ、今日も一日が始まる。しっかり生きていかなければ。私はまた一歩、踏み出す。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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