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5月

気づけば5月も終わろうとしている。ずいぶんと間が空いてしまったけれど、濃厚な日々を過ごしていた。言葉にするのが躊躇われるくらい。表立った感情の起伏はあまりなくても、常に思考が働いている日々。

これが数ヶ月のうちに起きたのかと半ば呆れるくらいに選択を繰り返しては、時には感情を揺れ動かされながらも、前を向いてきた。私はなにかを決める時にほとんど誰にも相談しないので、選択の結果やってくる感情の後処理ももちろんひとりで行う。時々ぽつりと誰かに話すことがあるけれど、事実を報告することがほとんどだ。実際、それもずいぶん減ったように思う。それは寂しいことではないと思っている。私がそうやって静かに選択を繰り返すことができるのは、私がひとりではないからだ。実際、それだけわかっていれば何度でも前を向くことができる。

もうすぐ6月がやってくる。6月がくるということは1年の半分が過ぎることになるし、自分の誕生日もあるし、どこかで節目として捉えているところがある。実際に、私の体は6月を節目に変わり始める。自分にしかわからない程度に。5月を終えようとする今、その時が近いと感じている。そのことに気づいて、また少し前を向こうと思える。いつだって体から教わることのほうが多いように思う。

芍薬と紫陽花を特別に好んでいるのだが、この時期にはそのどちらも花屋の店頭に並ぶ。私はそれらを欠かさずに部屋に飾り続けては愛でて、心を落ち着かせる。芍薬を、紫陽花を眺めては、それらにまつわる思い出もひっそりと思い浮かべる。少しだけ、思い出の中のあの人たちと話がしたいと思う。思い入れのある花があるというのは私にとってはそういうことだ。

未来は現在と過去の積み重ねで、未来をつくるのは現在の自分だ。そして、過去は変えられないようでいて現在の意識によって変えることができる。私の脳内には良い記憶もそうでない記憶ももちろんあるけれど、できるだけ良いものを取り出して過去を後悔とともに振り返らないようにしたいと思っている。だから私の芍薬と紫陽花に纏わる記憶は良いものばかり。つまり、取り出して眺めるこの時期の記憶のほとんどはやさしい。未来もそうあるといいけれど、なにしろ先のことなので私にもまだわからない。静かに誠実に今を積み重ねたら、未来もやさしい記憶が残るだろうか。そうだといいな。


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