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「僕のなかの壊れていない部分」

白石一文さんの小説「僕のなかの壊れていない部分」読みました。

主人公の思考の深さ故の生きづらさに息苦しさを憶えながらも、彼を社会に接着してくれる女性たちとふたりの友を巡る物語と感情の起伏に没頭し、気づいたら解説まで読み切っていました。

ぼくこわ

愛するという行為は、自分に主なんぞ無い状態で、相手の中に生きるということで初めて達成されるらしいのです。だから、自分の命は自分のものだという認識のもとに成り立つ社会には、愛など存在しない。人間は自分の意思をもって生まれてきたわけではないから、その生命を自分の手でどうこうしようという資格は自分にはないわけで、さらに、生まれてきたということは死にむけて歩を進めることであり、己のために生きる限り、死に向かう恐怖から解放されることはない。その恐怖は、与えられた人生を自分以外の誰か/何かのために使うことでしか和らげられないのだと。(私自身そんな高尚な生き方をしてこなかったので全ては理解できませんが、でもやっぱり、歳を重ねるに連れ、人生とか社会に対する諦めを強めてきた自覚はあるので、本来的な美徳として言わんとすることは分かりました)

主人公は幼い頃住職にたくさんの教えを受けたこともありかなり仏教的な思想を持っているようですが、とにかくそういう風に、生というモノを捉えていたわけです。ところがこの利己主義社会において、そんな生き方は全く報われないということは頭でわかっているから、胸に刻まれたその信念とは裏腹な生き方をしている自分や、大切な周りの人に対して苛立ちを憶え、その矛盾に苦しみながら不安定な人生を送ってゆくのです。

精神と物理の矛盾故か、あらゆる一般解に自身を適合させない粘着質な発言を繰り返し、女達を困らせます。でもその異端児さが人々を魅了するんですね。「あの人は変な人。だけど、他の男が持ち合わせていない特別な何かを纏っているの」と。謎めいた男はモテるんですね。
最初は謎めいていて良いのでしょうけど、何しろ彼の心は「壊れている」ので、どこかで彼女たちを疲弊させてしまったんでしょう。生涯を共にしたら巻き添えをくらって自分の人生まで壊されてしまう、そう思った女たちは見切りをつけて彼から遠ざかっていきます。

解説にもありましたが、「僕のなかの壊れていない部分はどこなのだと、それが知りたくてついつい頁が進む。最後まで答えが明確に提示されることはありませんでしたが、読み終わって、ちょっとぼーっとして、私なりに行き着いた結論は、
「誰しもが、どこかは壊れている」ということです。

そう思って、変な話ですが、なんだかすごく安心してしまいました。皆どこかはぶっ壊れていて、どこかはちゃんと社会とつながっている。どこが「壊れて」いて、どこが「壊れていない」=「常識的」と考えるかは、人の数だけ尺度があるのだと思います。

多分、あなたも壊れているし、私も壊れている。

主人公は、下らない世の中にウンザリし、社会と繋がる気力を弱めていたので「壊れている部分」がちょっと多かったんだと思います。

それでも彼と向き合って、薄汚れた社会の中で二人なりの希望の光を見出そうと努力をする枝里子という女性に、私は拍手を送りたいと思いました。
世の中の真理は突き詰められないけども、それについて考えることを放棄せず、でもわからないなりに二人なりの幸せを形にしようと前を向いて歩を進める彼女の生き方は、強く美しいと思ったし、それがひとりの人間に出来得る、最大にして唯一の人生への貢献なんじゃないかと、思いましたよ。私には枝里子のような、相手に想いを馳せる力が明らかに欠けていますが、できることなら彼女のように生きたいです。

何でも無い日常が描かれた作品ですが、日々を生きるということについて、これほどまでに思考や生き様を奥深く難解に描写している小説は初めて読みました。自分について、自分を構成する周りについて、今一度顧みるきっかけとなりました。貴重な小説を読ませて頂き、ありがとうございました!

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