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わたしの学び直しー"ほぐす学び_2022"session7・8「出かける〜還る」②

"ほぐす学び_2022"に参加しました。
12月10日土曜、遂に最終sessionを終えました。
①では、最終sessionを終えての感想を書いたので、②では学びを書いておきます。

「場」について


最終日は、福岡糸島・大入駅から歩いて1分のこっからオフィスに集まります。みんなで大きな円になって課題図書のプレゼンを聴く。薪ストーブの向かいの壁にプロジェクタ用のスクリーンがあって、円になって座るみんなが、発表者やスクリーンを見ている。

プレゼンが終わると、3、4人ずつのグループで小さな円になって対話がはじまる。画面の向こうの人たちが、今日は目の前にいる。この贅沢な一コマ一コマを、記憶に焼き付けておきたいと目を開き、心も脳みそも全開にする。
この「場」は、今この瞬間、ここにしかない。

あれから一月が経った。記憶を辿りながらこのnoteを書いているが、あの時のあの感情は、あの場でしか存在しえないのだと、身をもって感じている。
悲しくて、でも、だから美しい。

あの日、あの時、あの場所で・・・小田和正の曲が流れてきたあなたは、昭和を生きた同士です。
あの日、あの時、あの場所でのみ、味わえる感情がある。あった。
もう、ここにはない。
同じものはないけれど、あの場面を思い浮かべて、あの場での感情に想いを馳せることはできる。

今あなたはどんな「場」にいますか?
わたしはどんな「場」を作っていますか?
その「場」は今だけのものです。


最終sessionの3冊


最終sessionが終わり、時間が経ってしまいました。今書けることを忘れぬよう書いておきます。


ハブられても生き残るための深層心理学

著者は「帰ってきたヨッパライ」という曲が有名な、フォーク・クルセダーズという音楽バンドを作った”きたやまおさむ”さん。音楽活動を1年で終え、大学に戻り精神科医として活動されています。


人生を劇ととらえてみましょう。実際の演劇には、観客に見せる舞台だけでなく、役から降りて素顔に戻ることのできる楽屋があります。そして、人生にも、この楽屋に相当する部分がぜひとも必要なのです。そうすることで、人生の中での役割を考え直すことができるようになる。また、演じさせられている台本があることを知り、それを読むことで、よりよい台本があることを知り、それを読むことで、よりよい台本へと書き換えていく、あるいは、新しく創っていくことができると私は考えています。それによって、自分らしく生きることのできる人生を創ってまいりましょう。そう私は提案します。

引用:ハブられても生き残るための深層心理学 著書帯より

ハブられるのは誰か


・空気を読めない人
・自己中心的な人
・能力が問題になる人
・過敏で傷つきやすい人

引用:ハブられても生き残るための深層心理学より


本の中ではこの4つが挙げられている。
小学生低学年の頃、下駄箱の上履きに画鋲が入っていました。当時の私は「いじめ」という言葉を知りませんでした。それがいじめだともわからぬまま、なんでこんなことするんだろう、、と思いながら過ごしていました。途中で画鋲を入れた人を教えてくれた子がいたので、画鋲を入れ返しました。それからは、やられたらやり返すを繰り返していました。
いじめ、ハブる。自分の身に起きたこと、嫌だなと感じていたものには、名前があったことを、少し大きくなって知った。それがその時の自分を救っていたと思う。それは、無知であり鈍感であると言うのかもしれない。今は、社会に情報も言葉も溢れている。子どもも触れることができる。それによって、ハブられる、ことにも敏感になる。

二重性

社会には裏と表がある。多くの大人たちはこの二重性を維持しながら生きている。
赤ん坊には裏も表もない。成長して社会に適応していく過程で、二重性を身につけて維持する力を養っていく。
過程の中にも、裏と表がたくさんある。
重要なことは、家庭内においても、本人に秘密にされていることがすでに存在しているということ。家庭内であっても、すべてが明らかにされているわけではないということです。それをむしろ当たり前のことと思っていた方がよいのです。

引用:ハブられても生き残るための深層心理学より


劇的観点


人生を劇としてとらえてみる

実際の演劇には、観客に見せる舞台だけでなく、役から降りて素顔に戻ることのできる楽屋がある。
人生にも、この楽屋に相当する部分が必要だ。

私は思う。自分ひとりで考えていても、自分自身が役を演じていることに気づきにくい。誰かに自分のことを話していたら、ふと、自分のことが客観的に見えてきた経験はないだろうか。最初は怒りがこみあげ、聞いてくださいよ、こんなことがあって、、、と話してるうちに、そんな自分がオモロいやんとなる。人ごとのように感じたり、これドラマやん!と思う。自分物語を人に語りながら、悲劇に着地するよりも、喜劇にしてしまえ、笑ってもらおう!との思いが湧いてくる。悲劇のヒロインになろうとしている自分に気づいて、役を降りる瞬間だ。

私たちは役者なのだ。毎日演じているのだから、ときには、心の楽屋で素の自分に戻ろう。
私は人前で話すことが得意じゃない。生まれ故郷から外に出るたびに、なまりが変化して独特な感じになっていった。その分人の話を聴くことができると思っている。キャリアアドバイザーの仕事をしていたときも、面談に同席した上司が「お客さんと沈黙を過ごせるのがいいね」と言ってくれた。

人には「心の楽屋」が必要だ


私にとって書くことは”心の楽屋”のようなものだと気づく。
自分の話しを聞いてあげている時間が、心の中にあるものを書いて出して、それをもう一人の自分が受け取るという作業なのだ。だから書いて、出すことで、客観的に自分を見つめ直し、役を降りることができる。そこから、新たな台本を書いていくこともできる。

場所的自己


南先生の言葉「場所的自己」について、これから時間をかけて味わっていきたい。
家族といる自分、仕事している自分、友人といる自分、孤独な自分。
様々な自分を観察してみたい。


終わりの始まり。
sessionは終わってしまったけれど、ここから始まるんだと言われているように感じる。クルト・レヴィンの「場の理論」から始まった学びの旅はまだまだ続く。

これまでのsessionについての感想・メモはこちらです。


#ほぐす学び
#本屋アルゼンチン








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