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わたしの学び直しーーー"ほぐす学び_2022" session6は「自由に語る」

"ほぐす学び_2022"に参加しています。先週6回目のsessionを終えました。
いつもは課題図書を読み込んで参加し、先生の話しを聞いたりそれぞれの感想や思いを語り合うのですが、今回は課題図書なし。これまでのsessionを振り返り自由に語る回でした。


session6:自由に語る ー休むー

session6はこれまでの学びを振り返りながらそれらの”つながり”を感じてみようという時間でした。

  • 相互理解により「学びの器を作り」

  • レヴィンで「場の中で科学する」

  • ユングや河合隼雄で「人間の深みに降りて」

  • ユクスキュルや今西進化論で「社会を広く捉える」

  • ロボットと人間との共生を通して「共生の先端を考える」

  • 私たちは何にアフォードされているのか。アフォーダンスについて考える。

学んだことについてわかっているのかがどうかがわからないという状態だ。しかし、各sessionで口にした自分の言葉や、グループ対話で場を共にした方が発した言葉が強く印象に残っている。その言葉の破片たちが回を追うごとにつながっていく感覚を得ている。最終的にどんなところにたどり着くのか楽しみでもある。

“つながり”を言葉にしてみる

場の理論:人の行動には、その人の特性と周囲の環境が関係している



じぶん自身もまた、「場」を形成する環境の一要素であることを認識した。人の行動には、その行動が生じる環境がある。なぜその人はそんなことをするのか?その理由、その背景があって人は行動を起こす。その人向き合うとき、その事だけを見るのではなく、その行動の背景、環境を見る必要がある。
身近な話しに手繰り寄せると、私と家族との関係性、起こる事象についても当てはまる。相手はじぶんの鏡と言われるが、環境の一要素であるじぶんが変わることで、相手が変わることを体感している。相手に変わってほしいと願うことは、相手の行動を形成する環境の一つでもあるじぶんも変えるということなのだ。


B=f(P,E)
B…behavior:行動(意図的活動、願望、思考、会話、言動、夢、努力…)
P…Personality:人間性(性格、態度…)
E…Environment:環境(社会的状況、他人の行動…)

「場の理論」

環世界という概念を知った

一つ屋根の下で暮らす家族であろうとも、それぞれがじぶんの環世界を生きている。長い時間を共にして、同じ出来事を経験していても、生きている世界が違う、一人一人の物語を生きているのだ。異なる世界を生きる人々が縁あって一箇所に集まり、暮らしを共にしているのが「家族」なのではないか。血縁関係とかは関係ないのかもしれない。一人一人が違う人間で違う世界を生きているから。レヴィンの「場の理論」でいうと、お互いが環境として影響を与えあっている。

競争ではなく共存で一緒に暮らす

棲み分けることで、多くの種が生き残ることができる。これは今よく聞くダイバーシティというものだろうか。異なる種を滅ぼしてしまうことなく、それぞれが、それぞれの生を生きている。そこで、疑問が生じる。競争のない世界では進化や成長は生まれるのだろうか。この疑問こそが前提として、「人は進化しなければならない、成長しなければならない」と考えていることの現れだと思う。

なぜ人は進化しなければならないのか?なぜ成長しなければならないのか?

「進化したもののみが生き残る・・・」これまでの人生のどこかで聞いたダーウィンの進化論や、長い社会生活の中で成長せよ、と周囲からの働きかけや期待を感じてきたことによるのかもしれない。
今西進化論では、一個体が突然変異を起こして変わるのではなく、変わる時は種全体が同時に変わっていくと言っている。人間が皆でスマホを使い始めたように、皆でマスクをつけ始めたように。
進化を焦らなくても生き続けることができるとしたらどうだろうか?わたしたちの生きることへの構えは変わるのだろうか。

家族関係において、対立の形ではなく、互いの存在を認め、共に生きる形を作ることができたらいいなと思うようになった。それによって互いが滅びることなく、同じ家族という住処すみかの中で暮らしていくことができる。

ロボットを通して「人間らしさ」を知る

ロボットと人間の共存について学ぶ際に、岡田美智男さんが開発する弱いロボットの存在につい初めて知った。弱いロボットは弱さがあることで、人間を味方につけて共存しようとする。
なぜ「弱さ」が大切なのだろうか?
完璧ではない、弱さがあることで、周囲がその弱さを補完しようとする。「弱さ」には周囲を動かす力がある。その相互補完の関係を一つのシステムというそうだ。システムが成り立つにはその「弱さ」を隠さず、さらけ出していることが重要になる。弱さを受け取れないと、周囲は助けに動かない。
これは、ロボットと人間の共存に限った話ではないと思った。人間社会においても弱さをさらけ出すことで周囲に助けてもらうチャンスを作ることができる。
人が持っている「弱さ」は、隠すものではなく、むしろさらけ出して、誰かに補完してもらうためのものだ。

ロボットと人間の共生において、「ロボットと家族になれるのか?」と問いをもった。それはつまり、ロボットは人間になれるのか?ということだ。
ロボットに人間らしさを組み込むことは難しいと研究者は言う。なぜならば、人間らしさとは「意外性」であるからだ。なぜこんなことをしてしまうのか、、、なぜこんなことをいってしまうのか、、、プログラミングでは組み込めない、ランダムとも異なる、その意外性が人間らしさだと教えてもらった。

こじれてしまった家族関係において、私が憎たらしく感じていたのは、その人間の意外性に対してであった。
「なんでこんなことやっちゃうの?なんでこんなこと言っちゃうの?」
人間の意外性が憎くなっていた。完璧であること、ロボットのような存在を求めていたんだと気づいた。

では、ロボットとの暮らしはどうだろう?

想像してみると物足りなさを感じた(ロボットがドラえもんなら話は別かもしれない)。憎たらしさを感じる部分は、人間らしさの現れなのだ。ロボットはわざわざ非効率なことはしないだろう、何も生み出さないことを言いはしないだろう。人間だからやっちゃうのだ。そして、私もずいぶんこれまでやってしまっている、言ってしまっている。やはりそれも、人間らしさなのだ。ロボットと人間は喧嘩できるのだろうか。
そんなことを考えていたら、憎ったらしいー!と感じていたことが、人間味に溢れ、なんだか愛おしくも感じた。身体に血が通ったような、ジンワリと温かくなってくるのを感じた。忘れてしまっていた人間らしさを取り戻した瞬間だったように思う。

忙しく生きる毎日の中、無駄を排除し生産性を高めることばかりを考えていた。感情の起伏は心が疲れる。いつしか一喜一憂せぬように淡々と事に向かうことで省力化を図っていた。「弱くないロボット」を目指していたのだ。でもわたしはロボットにはなれなかった。ロボットを目指す中で、人間らしさの面白みに気付いてい他のかもしれない。

人間は完璧じゃない。
完璧じゃないからこそ、一つ屋根の下に集まり一つのシステムを作って生きている。それが家族であり、わたしたちが生きている社会も一つのシステムなんだと思えた。互いが相手の弱さを責め、強くなれ!と求めるよりも、その弱さを認め、補完しあって生きることの方が共生がうまくいくのではないか。
ロボットは私に「人間らしさ」について教えてくれた。

非効率で無駄に見えることは、人間らしさでもある。わたしが嫌っていたことが、人間が人間たる証だと思うと、その人間の哀しい部分が愛おしく感じた。
人間の哀しみは、、、愛おしさでもあるのかもしれない。

これまでの自分にはなかった視点を学べたことで、世界を見る目が変わったように思う。直接何かに役立つスキルや知識を学ぶわけではないが、こうして自分の生活に手繰り寄せて、よりよく生きるヒントを得ることができる。

身の回りにはたくさんのモノや人、事象が溢れている。その中で何をどうピックするかで人生は作られていく。
長年着古してきた頑丈な毛糸のセーター、今ようやく少しずつ少しずつほどけてきた気がしている。セーターを編むことよりも、出来上がったセーター解くことのほうが難しいように感じる。
新しいセーターを編み直すことにウキウキワクワクするけれど、その前に、今しっかりと着込んでいるセーターを少しずつ解いていこう。

なんだか身体も心も軽くなってきた。

これまでのsessionについての感想・メモはこちらです。


#ほぐす学び
#本屋アルゼンチン








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