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ビジネス書を読むことは読書ではないという考え方

最近、仕事のためにビジネス書を読む必要があり、本来読みたいと思っているミステリーやSF、ノンフィクション、経済学などを読む時間が全く取れていません。

つまり、ビジネス書は読んでいるので読書時間の確保はできているのですが、そうすると休みの日も仕事のことを考えていることになります。

これらはすぐに仕事の役に立つもので、成果を感じることができる価値のある読書だと思います。そして読まなければ仕事で困ってしまうので読まざるを得ない側面も大きいです。

仕事については、やらなければいけないことも多くありながら、楽しんでいることも事実ではあるので、休みの日に仕事のことを考える状況にそれ程ストレスを感じているわけではありません。

しかし、自由に読書ができる時間を取れていない事に関しては、非常にもったいなく感じています。

先日、読書の趣味を共有できる知人に「最近本読んでる?」と聞かれ「仕事に必要なビジネス書を読んでいるだけになっている。これはこれで楽しんでるからいいんだけど」と回答したら「俺にとってビジネス書を読むのは読書ではなく仕事だよ」という答えが返ってきました。

確かにそれは一理あるかもしれない、と唸ってしまいました。

読書をすることの効用は、自分が人生において体験できないことを本を通して追体験できる点にあります。

小説やノンフィクションは、これらの追体験の機会を読者に提供してくれています。そしてその読書体験を自分の人生に反映させていくのです。

しかし、ビジネス書の効用はあくまでも自分の仕事の範囲内です。小説やノンフィクションを読むことで体験できる「誰かの物語を味わう」ことはどうしてもできません。

フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー」やレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』の様に、若き日の少年期との訣別を表現することは小説にしか成し得ないことだと思います。

西村賢太の私小説や、中島らもの『今夜、すべてのバーで』の様に、社会の規範に則せない人物の生き方を感じ取ることも、人の弱さと徹底的に向き合うことも、小説だからこそできる表現方法です。

やっぱり忙しさもほどほどに抑えて、早く現実世界とかけ離れたスケールの読書をしなければならない。そう誓ったつい最近の出来事でした。

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