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誰と戦うか

誰と戦うか?
この設定について話すことが多い。
だいたい、陰口や周りにいる弱い人に陥りがちな人が多く、「そこじゃなくて」という話をする機会はかなり多い。

そこで僕がいつも出すのが、「マリオカート」

タイムアタックでは、自分の過去の自己ベストと戦う。
追い越してゴールできたら、ベスト記録になる。
これは言い得て妙で、人生も同じだと考えており、誰かそこらへんのお手軽、自分よりも劣ってる人の劣っている側面を切り出して、「あの人はなぜこうしないのか」とか思うのは簡単。

誰でも油断、堕落、甘えはある。
得意もあるし苦手もある。
僕は身長189センチ。周りの人間に身長でマウントすれば、誰にでも勝てる。

ただそれでは結局、「何もしない」を選んでしまいがちになる。
身長が自分よりもでかい人は、やり過ごしたり、「でかいにも程がある」とか、「僕は身長もだけど、数学も得意」とか、好き勝手なパラメータで勝てる。「若い」とか「経験がある」もそれ。

タイムアタックの良いところは、過去の自分との戦いである。
手の内も、堕落した過去も、それでも、積み上がる勲章と実績。しかしながらもっと頑張っていたら、あそこで手を抜かなければあんな失敗はなかったであろうという葛藤。

それらを全て知っている、どんな自分かも知っており、そのうえで、最も相手すべきではない過去の自分との対峙。

僕は矛盾した行動指針を自分に課している。
「来年の自分を抜くこと」
焦り、背伸び、絶対やめた方がいいことに挑みつづける。
これらをやっているのは、来年の自分をいまこの時点で抜くためだ。

日本語としては矛盾している。なぜなら、いま時点で来年の自分を抜けば、来年の自分がよりパワフルになるから。来年の自分はさらに今日から一年の成長をオンしたものだからだ。

だから、来年の自分に対する恐怖心を弱めるためには、来年の自分を成長させない=今日からの毎日をヌルヌルで生きることをすればいい。リスクを取らなければいい。
だからそもそも自分とは対峙したくなくなる。目を背けて外に目をやりたくなる。

どこかの哲学者が、「失敗したくない、そうなるための唯一の方法は何もしないことだ」
と言っていた。
まさにその通りだと思う。

ライバルに勝つ。過去最高記録を塗り替えたら、ライバルがより強大になる。手強くなる。
広島の片田舎でぬるく生きてた僕が、徳島で最も大きな菓子製造メーカーのナンバーツーになり、山口の大手食品問屋のトップになり、これから、再生屋の世界でいよいよ表舞台に飛び出そうとしている。

正直に言って、プレッシャー以外の何者でもない。
しかしながら、なぜかこの、「より脳が嫌がることへの自爆突撃」のアルゴリズムを自分に課してしまっており、そのせいで、広島で生きている何百倍も、自分自身がボロボロになり、失敗し、周りにも迷惑をかけた。当然、恩返ししていることの方がはるかに多いと思っているが、正直な自分の感想としては、「なんでこんな事してるんじゃろ」の一言で片付いてしまう。
辞めたら余裕で辞めることのできてしまう事である。むしろ第三者から見たら、絶対やめた方がいいと思える。

さて、なぜそんなことをやっているかの議論ではなく、自分との対峙に話を戻せば、自分との対峙は、最初は本当にストレスだった。
不動産ではおそらくかなりの知識量だが捨ててしまった。スタートアップに集中すれば、カグメイクは今頃、どのステージに立っていただろう。再生に集中すれば、天下一武道会には出れるだろう。
しかしとにかく、僕が見てるのは、誰からどう見られているか、ではなくて、過去最高の自分、来年の自分の、背中なんだ。
マリオカートをやったことのある人ならわかるかもしれない。
もちろん、抜いた記録を出した時以外は全て敗北である。スタートして10秒で中断して再プレイの連続である。
最高記録がたまたま、三周目に最速出してたときはさらにタチが悪い。

人は、自分自身に矢印が向けられるのを非常に嫌がる。
だから僕自身もそうならないために誰かや何かと比べて逃げに逃げていた。今もきっとそうは言いながら逃げまくっているんだ。それを僕は僕として知っている。

という、自分との対峙はかなり厳しいながらも、この自分自身のアルゴリズムとの対峙に慣れてくると面白いもので、周りに自分の、その時の気分に合わせた都合のいい仮想敵を捏造しなくなる。

誰かがやらないから
会社が報いてくれそうにないから
応援がないから

そんな邪な感情は無くなり、
「そうそう、過去に決めたやるべき事リストを粛々と行おう」というエッセンシャルな感情になる。

やればやるほど、想定していた来年の自分が強大になる。ペースをゆるめたく、、、、ならない。
ならない理由は、紛れもなく、半透明に見えている一年後の自分は、今日を365回紡げばそこにいる強大な自分の着ぐるみの中に入っていられるからだ。よりもっと強い自分の中にいる未来でありたい。

とにかく永遠にきつい

しかしながら、感情が自分の中心からどこか良くわからないことに寄り道することが減り、とにかくひたすら、「ありたい自分」「あってもらえたらどれ程嬉しいか」な自分に近づける。

いま、そんな生活を3年続けてきて、それより前から言えば、「自分を変えよう」と設定して15年が経過して、今となっては、「ムキムキな体」を手に入れてはいるものの、結局、24時間しかない、365日しかないという部分で言えば、僕もあなたも変わらないはず。なんなら、僕よりもあなたの方が有利だと思えることなんて無限にあるのではないか。

人生においては、「設定」がとても大切だと思う。
その「設定」が的確であれば、ハムスターのようにずっと同じ車輪を回し続けられるし、設定が間違っていると、「強いて言えば何かをしている。」というだけで1日が終わる。誰かからどう見られてるかにいちいち理由をつけて、ハリボテの成果や目標を綺麗に作れるようになる。

ももクロの最初のコンサートで、めちゃくちゃだったけど、しおりんが、「大丈夫だよここまで頑張っんだから」と言った一言が僕にとってすごく大切な金言だ。上手かどうかではないんだ。頑張ったかどうかなんだ。自分の裁判官である自分が、「頑張ったって思ってくれるかどうか」の方が大切なんだ。と僕は思った。

これらの話は、僕一人の設定の話、一人の「まあ今のところいいんじゃないですか」の自己満足な感想文だけども、個人的には、自分自身を仮想敵とし、過去の自分をやっつける。もっともやりたくないことをやり続けた結果として、一定のスキルを手に入れることができたのではないかと考える。
皆さんが一生に一度味わうかどうかな地獄は、年に何度かは見た。人の醜いところや素晴らしいところも。

このあとおそらくフェーズは変わり、挑戦の継続はするものの、秋の収穫の季節、今まで積み上げた幅広い再生と売上獲得の知識を深く掘り、伝搬していくフェーズになると思う。

とまあ、色んなことを成し遂げた後はなんとでも言える(笑
ただただほんとうに、僕はラッキーだった。
このペース、リズムで自分に課題を課し続ける。こんなことが出来たのは本当にラッキーだった。

魔法はないけど、魔法のように、なりたい自分になれる方法は共通のルールがある。
敵は誰でもない、自分の心だ。

be the change you want to see inthe world
見たいと思う世界の変化にあなた自身がなりなさい

ガンジーは、国が変わらないのを見て農村を歩いて勝ち取った。
「変化に」「なる」

大概のことは、周りの人にお願いしたら叶えてくれる。僕はそう信じてる。

最早、色々やってみて思う、最初あったはずの「こうなりたい」は霧散して、「自分を抜く」そのものが目標になっている。人生の目標を全く失っているような、それともこれこそが自由なのか。そこの回答も最早どうでも良くなる。これがまずまずの満足ならそれでいいではなかろうか。
周りの目が気になる。周りの人のアラが気になる。自分のこれまて気になる。とはいえ今の場所以外でどこまで通用するかがわからない。
それは、そのようにポジティブとネガティブを都合よく使い分ける優秀な眼を持ち合わせてしまってるからだ。
通用しなかったら、しょうがないからほかんするように頑張るだろうし、通用したら、まあまあ結構なことじゃないか。いよいよダメなら、またかよって思いながら仕切り直せばいい。それも含めて一つのサーガだ。なる前にごちゃごちゃ考えず、なってから考えたらいい。

きくあの法則
きそわない
くらべない
あらそわない

言うのは簡単、やるのは困難

我ながら、へたくそな生き方だなと思いながらもこの人生を繰り返して、それに意味があるのかどうかは、いつかゆっくりするときに考えようと思う。

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