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【397球目】プレーヤー時代

スタ★アトピッチJapanの4分の為に、今までの棚卸をしています。

当然、私にも純粋なプレーヤー時代がありました。4分のピッチには出てきませんが、私のプレーヤー時代に考えていたことを今日は紹介していきます。


明石工場での請負開始

2008年10月1日に28組立職場2ラインと28バフ研磨職場の請負がスタートしました。組立職場は中国へ行き、バフ研磨職場は森友工場へ移管しています。28は工場の名称です。2008年はゼファーが生産終了した年でしたし、VN1700が立ち上がった年でもありました。

三陽工業として初めての構内請負職場がスタートします。

そこから半年後、2009年4月1日には24バフ研磨職場がスタートします。この時の24バフ職場の職場長は現在の森友工場の工場長。28バフ職場の職場長が副工場長。28組立職場の職場長は愛知県の子会社である太田工業所で副社長をしています。3人ともに私よりも社歴が長い先輩です。ありがたいですね。構内請負がスタートした時、会社としてもやったことがないことですから試行錯誤の連続です。とても助かったのは、作業しているメンバーがほとんどそのまま残ってくれていたことです。

請負開始の瞬間に、ベテランの三陽工業のメンバーや他社からの派遣のメンバーが数多くいました。そんな中で、川重の仕組みの中に組み込まれて請負職場がスタートしています。ここではとても多くの学びがありました。川重のものづくりの流れを感じることが出来ましたし、要求元の部署や調達ともやりとりをする機会が一気に増えました。この時の川重の調達の担当の方は現在森友工場で仕事をしてくれています。これもまたご縁です。ありがたいです。

毎日、色んなことが起きます。

力不足であることは痛感をしていましたが、必死でした。今振り返ると必死さしかありませんでした。そんな中で、仕事を出来たこと、そのまま自社工場への移管となっていく訳ですが、この時の経験は今でも忘れることの出来ない貴重なものになっています。


高砂事業所

続いて高砂事業所です。

ここも派遣での開始から1年10ヶ月後に請負開始という流れになりました。自社工場のエース級3名を率いて派遣で取引開始がスタートです。自分としては、初めて会社の看板が無い状況の中での仕事です。というのも、明石工場では当時でもそれなりの歴史がありました。そんな中で初めましての三菱重工です。三陽工業の名前を知っている人がいない状況の中での取引開始です。

先方とやり取りをするのは私のみ。ですが、3名の信頼できるメンバーがいました。1人は家業を継ぐために退社しましたが、2人は今では製造部のツートップです。この時も必死でした。必死な中でも少しの経験値がありましたから、思考の幅は広がっていました。課長や係長は忙しくて日中なかなか話が出来ません。

人の提案は全て早朝でした。朝、ほとんど誰もいない工場の事務所にいくといらっしゃるのです。当時係長が窓口でしたから、係長の机の前まで行って(当時はまだ行けました、今は絶対にダメです)お話をさせて頂いていました。

初めて三菱重工の売上が立ってその支払い明細を見た時は嬉しかったですね。5月25日スタートで末締めだったので10万ほどでしたが、その嬉しさはよく覚えています。3人では完全に赤字でしたけどね(笑)エース級3人ですからね、当然と言えば当然です(笑)

夜勤明けの面談はAM5時。朝一で高砂までよく行きました。請負が始まってからは、作業にも入ります。対して役には立ちませんが、出来ることはありましたので、作業を分解して、私にも出来る仕事をやっていました。必死でしたね。お客様と口論になったこともあります。それも貴重な経験です。

私が作業をしているので別の職場から手伝いに来てくれる社員もいました。1回も来なかった人もいました(笑)本当に色んなことがありましたが、全てが良い経験です。

この高砂での経験は自分自身を強くしてくれました。そして、ほとんど退社が出ていないこの職場は私の誇りであり三陽工業の誇りです。それは現在の高砂事業所と研磨第2工場に受け継がれています。棚卸しをしていて改めて実感することがあります。自分は人との縁に恵まれているんだなと。10年以上前の縁もそうですし、最近の縁もそう感じます。本当にありがたいことです。感謝です。そんな縁を大切にしながら、未来へ向かってシンカを続けていきます。

本日もありがとうございました。

明日もよろしくお願いします。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!