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気持ちと肉体そのものはどちらが大きいか(映画「FLEE」を見て)

という題をつけてみたが、題の通りの内容になる自信がない。
ともあれはじめてみる。
映画「FLEE」は日本では2022年6月10日公開だそうだ。さっそく見てきた。愛知県の三好市まで遠征した(となりの県だけど)。MOVIX三好はイオンに併設されている。いわゆるイオンシネマのチェーンは静岡県西部からすると遠征するしかない。けっこう、ネットフリックスが申し訳程度に劇場公開するやつとか、こうTOHOとかUNITEDのシネコンではかからない系のものをやってくれるので好きだ。まえには板橋にも行ったなあ。
さてなぜそれを見たかといえばTBSラジオ「アフター6ジャンクション」の金曜のお楽しみ、ムービーウォッチメン(パーソナリティの宇多丸氏が毎週自腹で映画批評するコーナー)の宿題がFLEEになったからだ。
私にとってのこのラジオは映画をみることの指針のひとつになっていて、それは自分がその映画を見たあとに、ツイッターで、同じ映画をみた多くの人の感想を読んだり、そしてラジオをきいて宇多丸氏の視点を聴いたり、そうやってひとつの映画が多角的視点から眺められるから好きなのだ。
ついさいきん「マイスモールランド」がお題になっており、これとFLEEの共通点は”難民の苦しみ”である。簡単にくくるなと言われるかもしれないが共通しているのは事実である。
なかなか我々というか私の生活に難民は登場しない。
日本における難民認定の、あきれかえるほどの少なさ、入管の非人道的行動とそれが裁かれないこと、多くの問題があり、解決への遠さで眩暈がするほどだ。だからそんな、気分が暗くなるようなことをわざわざ映画でみる、のはどうしてだろうか。
なにか、ラジオのお題になったこともあるのだが、こう、50年を過ぎてまだ生きている身として、自分のことも十分にマネージメントできてはいないが、それでも子供もなく配偶者もなく今後端的には死んでいく身として、せめてなにかこの世でやることがあるかといえば、やることは他人への何かである。自分自分でやってきて、それでも、直接的なヴォランティアとか寄付とかなんでもいいけど、他人に向けてのなにかが、できないものかと考えることがある。まあ「社会参加」すること自体が他人へのなにかだと言えなくもない。社会参加とか大げさだと言われるかもしれない。でも私のように、無職の期間を何回も経験したり、フリーターだったり、まるで社会に参加していない期間を多く感じていると、社会と自分との間には遠い溝があるんだなあと実感することが多いのである。社会、それは他人の集合である。
他人様へのコミュニケーションを諦めないとか(だからこそこうやってWEBで公開される文章を書いている)、社会の中で苦難の身にある人のことを知ろうとする態度、せめてそのくらいはしてもいいというかしろよ、と、私自身が私に向かって言うのである。なんとか生きてるんだから生きているうちはなんかしろよ、と。
それで映画をみた。
FLEE
は、アフガニスタンがムジャヒディンの支配下になるころに、かろうじてアフガンを脱出した男の子の話である。その後、彼は長い年月を経て、多くの苦難を経て、なんとか北欧で生活できるようになっている。そして彼はゲイである。
性的マイノリティーであること、そして難民であること(家族も政治的に迫害を受けて長くバラバラに暮らしていた)、両方ともに、大きい声で人に言えないと彼は自らに制限をかけた。
映画はそれをおして彼が告白~というか映画製作者の、まあ友人に対して、何回かに分けて語るという構造をとっている。

さてやっと表題にたどり着くのである。

人に言えないことがある。そして、警察に(理不尽にも)尋問とかされないように、なるべく静かに身をひそめて暮らさないといけない。そのような生活は、彼の気持ちを、悪くしていく。
内向きの気持ちであることが常態になっていく。
人に対して、自分の本当の気持ちを言うことが、禁じられており、そんなことはできないと、自らが自分に縛りをかけるようになる。
心理的拘束ということだと思う。
それは、他人との暖かい、こころを通わせる交流ができないということであるし、常におちつかない気分のまま過ごすということだ。

そこで私は思ったのだが、このような、心理の中での多くの苦難、くるしみ、これこそが人間の生活を悪くするものなのではないか。
栄養とか運動とかのフィジカルな要素よりも、ずっと悪くさせるのではないか。

というか、そもそも人間の存在は全体としてひとつのまとまりなので、本来はどっちが大きい要素かなんてことは考えないほうがいいのかもしれない。気持ちが肉体に影響し、肉体は気持ちに影響する。
社会的な状況は気持ちに影響する、その気持ちは肉体に影響する。
栄養状態は肉体に影響する、肉体はサインを出す。
それはたとえば「おいしいものをたくさん食べたい」などだ。

おいしいものをたくさん食べると肉体に栄養がいくだけではなく気持ちも満足していいい気分になる。

単純にいってしまえば食が満たされるとだいたいのことは解決する。

それはある意味で「動物」としての人間の機能ということである。生存につながるのは栄養が第一であり、飢えというリスクが一旦離れれば安心もするだろう。

しかし、じゃあ難民には食事を十分に与えればいいのか。そんなわけがない。食事だけでは救われない。
そこに必要なのは気持ちの満足であり、それは何かといえば、社会の中に生きる人間としての誇りである。

FLEEにおいて主人公の彼は言う。故郷とはー安全な場所。出ていけと言われず、そこにずっといていい場所。難民として、ロシアにある意味閉じ込められた状態になり、身動きがとれず、脱出をこころみては送還されるという現実からすれば、故郷という場所が彼にとってどのくらい大きい価値をもつのかよくわかる。そしてそれは真の意味で安心をもたらす。
それが気持ちの満足であり、また、誰からも拘禁されたり追いかけられたりせず、人間としての誇りを失わずに生きていけるということだ。

ところで私はいま、なかなかに無職からの脱却が進まない立場にいるのだが(職業訓練校に通っています)、別に自分の立場を難民に置き換えるなどということをするつもりではないのだが、どうしても「誇り」とか、社会における自分の立場、など、考えてしまうことはある。
つまり、働いていない人間に与えられる誇りなどそんなに大きくはないし、多くもなく、他人に向かって胸を張って「無職です!えっへん!」と言うことも現実にはなかなか憚られるという現実だ。
そのうちになにか資格とか職とかを得ることはなんとかできるだろうという見込みにすがって生きているということでもある。未来になにか、なんらかの希望は、多分あるだろう、くらいのあやふやな観測である。
自分に置き換えるとしたら、もし自分がモスクワでビザが切れた状態で暮らしていて、メキシコのメロドラマをTVで見るくらいしかやることがない状況に置かれたとしたら、はたして正気を保っていられるだろうか?と考えてしまうのである。これは想像力の問題だ。
自分には能力がある、自分はムダなダメな人間ではない、それを証明したい、自分は社会の一員だと言いたい。
しかしもし難民であればそのようなチャンスはその国では得られない。

モスクワにおける彼らもそうだったが、日本における宙ぶらりん状態の難民だっておなじことだ。ニュース等でそれほど取り上げられないからあまり身近に感じないとしても、現実として仕事をすることも禁じられてしかし祖国は政治的な迫害しかないような、そんな立場の難民が日本にもたくさんいるのだ。
彼らがいかにして精神の平衡を保っていられるのか。

たかが映画をみただけで難民問題について考えていますと言うことほど下らないこともない。自分が愚かな存在であることはわかる、しかし何も知らないことや何も知ろうとしないことのままでいるよりは、僅かでも知りたいと思ったり、この問題のなにか解決につながるような運動はできないものかと思ったり、自分がそのような立場におかれたらどうだろうと考えてみたり、あるいはそこから自分の身のまわりにもいる多くの外国籍の人(静岡県の西部に住んでいるので周囲にたくさん外国籍の人は見ます、ブラジル系、ベトナム系、フィリピン系、中国系、パキスタン系、マレーシア系・・・)はどのように暮らしているのだろうかと考える、考えることだけは元手の資金がなくてもできることだ。そして調べることも。ネットの中からのはじまりだとしても。
そして社会と政治のことを考えはじめる。

自分自分のことばかり考えるのもいいが、さきに書いたような理由で、社会のことや他人のことも考えてみたい、それは私が、空腹を満たすことと同じように、脳が考えることのバリエーションの広さ、多方向性、自分がここでひとりでネットに向かっていることの向こうにもたくさんの人間がいるということ、そう感じて脳が感じることは、食事とおなじくらい、私の充実感を満たすことがある、ということだと思う。

他人の深刻な問題で充実感とか不敬だ、と言われる可能性はある。

社会問題に熱心に取り組む人の心には無私の清い精神だけしかないとでも?

そんなわけがあるか。皆、そうしたいからそうしているのだ。

したいことをすれば充実感があって当然だろう?

問題は多岐にわたっており、整理されていないまま公開するのはまったく恥であるが、なにもしないで胸にしまっておくよりは出したほうがいいのである。それは精神の健康にとってよい。肉体は栄養を必要として、精神は新たな話題や真剣に考えるべきイシューを必要としているのである。マッチポンプで課題を生み出したいわけではない。もうこの世にいくらでも解決されていない問題がある。どれから手をつけるかは好みの問題である(4022文字)。


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