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書かれた風景


よく人と会っている。近頃は元気なのにかまけて、来る誘いを全て了承して、ときどき疲れ切る。なにをしてるんだろうと思う。
しょっちゅう人と話していると、文章が書きにくい。社交で言葉を使い切るのだ。そして、書きにくいのに書こうとしていると、なんで書く必要なんてあるんだろうという疑問に突き当たる。なんで書くのかなんて、悩んだこともないし、今更悩もうとも思わないけど、端的にそういう気分になる。

花見の誘いがあったので、行った。前日に連絡があって、当日の昼過ぎに電話して場所を決めた、気まぐれな約束だった。
いい加減に決めた場所だったけど、最寄駅を降りてすぐ、ここにして正解だったと思った。小さな駅の改札を出ると、目的地の公園は目の前で、賑わう老若男女と、その頭上に満開の桜が広がっていた。大阪には珍しく、坂が多い街。駅へ戻ってくる人々、あるいは出ていく人々がたくさんいて、しかしごった返しているというほどでもない。どこを見渡しても、なんとも華やいでいる。
持ってきた文庫本を開き、ちょうど短編を一つ読み終えた時、相手もやってきた。
彼女が駅前を見回して、東京みたいだと言う。俺はなんとなく「新海誠っぽい」という印象を持っていたから、要は同じ感想だなと嬉しくなる。公園に向かう坂を歩きながら、舞い降る花弁を指して「桜の落ちるスピード知ってる?」と言ってみたが、彼女は新海誠は君の名はしか見たことがないらしく、単に気障な感じになってしまった。
公園には屋台がいくつか並んでいて、二人とも食事がまだだったから、真っ先に並んだ。花より団子の恥ずかしいぐらいの実践だ。鉄板から流れてくる焼きそばの香りを嗅ぎながら、視界を鮮やかに染める桜の木々を眺める。
自分たちの番が来るまで焼きそばが残ってることを二人で祈って、そういえば数年前にも、一緒に屋台に並び同じことを祈ったという話になった。

それは、春ではなく夏で、昼下がりではなく夜だった。大阪ではなく神戸で、花火を見に行った時のこと。
彼女の家で浴衣を着て、電車で行った。俺も彼女も、まだ19か20だった。
乗り換えで、どこかからモノレールに乗った。夕刻の神戸の街と海が車窓から美しかった。モノレールという乗り物にあんまり馴染みのなかった俺は、その道中だけで随分と浮かれた覚えがある。
花火を見た後、終電がなくなるまで三宮の街中で飲み歩いた。いつのまにか俺の浴衣の尻が破れていて、どこだったかで新しい服を買って着替えた。
飲み過ぎと慣れない下駄でふらつく彼女を支えながらホテルを探した。しかし祭り帰りの客でかどこも満室で、諦めてネットカフェに泊まることにした。そこでも鍵のついた個室はいっぱいで、部屋の上部は筒抜けの半個室のような部屋にしか泊まれなかった。
苦しいからと彼女は帯を解き、乱れた浴衣姿ですぐに眠った。
俺は泊まる場所を探すので必死になったせいかいまいち眠れず、ずっと、彼女の寝顔をぼんやり見ていた。もとからあどけない顔が、一層あどけなく見えた。普段は幼さの上に刻まれている苦労が、眠りのなかでは洗い流されるように消えていた。
周囲の部屋から寝息がいくつも聞こえた。すぐそばにある彼女の寝息をひときわ細やかに聞いた。俺の脚を枕にした彼女の、呼吸のリズムを感じていた。
明かりの落ちたネットカフェのブースは母親の子宮のように狭かった。俺は、しばらく歩いてきた三宮の街の、眩い光を脳裏に浮かべた。モノレールから見た巨大な都市の、夜を迎えて燦々と輝く光の片隅に、この自分と彼女の体がある。なんとも不思議で、言いようもなく不安だった。

屋台の順番が次まで回ってきた。焼きそばは俺たちまで残っていそうだった。
彼女が、三宮で行った、一軒のバーについて話す。カラオケがあって、バーテンダーが未だに思い出すほど歌が上手かったと。俺は、バーテンダーはもとより、そのバーについてすら、よく思い出せなかった。
ネットカフェで過ごした一晩について話そうとしたが、やめて、翌朝行った喫茶店のことを話した。ネットカフェからすぐそばの、大きな駅の一階にあって、そこでモーニングを食べた。二人ともまだ少し酒が残っていて、ほとんど喋らなかった。ガラス張りの壁に光がきらきらと撥ねていた。その向こうで、よく晴れた平日の朝の、清らかで騒々しい街を夥しい人が行き交っていた。
あの朝の美しい風景を話すと、覚えていないと彼女が言った。
そう言われて、俺も少し、息をのんだ。覚えていないと言われれば、俺も記憶への自信が揺らいだ。なにせ、数年前の、酔っている間のことだ。
そんな朝はなかったのかもしれなかった。
あの朝を美しいと思ったことは確かで、けれどだからこそ、どこかでどんなふうにか形を変えて文章にしたのかもしれない。アイスコーヒーを飲みながら見た、あの光る街は、本当に見た風景か、俺が書いただけの風景か、もはや自分でもよくわからない。



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