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茶室を拵えたい


ずっと探していた引越し先が、ようやく決まりつつある。築50年の団地。
虫が出そうで嫌だと言って今の部屋からの引越しを考え始めたのに、築古を通り越した築古物件で、もう俺も俺が何を考えているのかわからない。
でも、虫が出ない家は俺の貧しい懐では諦めて、虫が出ても許せる家を選んだつもりである。
団地は好き。それに、虫と対峙しても逃げることができる広さがある。

一人暮らしで2LDKである。あまり物も多くないので持て余すが、せっかくなので一室ある和室を茶室として使おうかと考えている。
DIYは自由にやってくれとのこととはいえ炉を切るわけにはいかないだろうが、茶については全く素人のなんちゃって茶室なので細かいことは良い。茶を飲むためだけの部屋であれば、それは茶室だろう。
だいたい、いわゆる茶室というのがあまり好きではないのだ。まず床の間が嫌い。俺は合理性しか帯びていない空間が好きで、だから団地も好きなのだが、そういう貧乏くさい感性からすると床の間なんてものは理解に苦しむ。ハレとケの、ハレにあたる部分らしいが、ケの要請だけで構築されたものこそ美しいのだ。もっと言えば、合理的に設計されながらも、避けがたく情念を抱えてしまい、それでもなお表面的には合理的なままであるねじれの美しさ。
俺は団地で幼少期を過ごしたのだが、他でもなく思い出の詰まった団地と、見ず知らずの初めて訪れる団地が同じ姿をしているのを見るたび、とても深い感動を覚える。
そうだ、漫画のナルトだって、白・ザブザ篇が全篇中で最も感動的なのは、合理的表面と、その底にある情念が描かれているからだろう。なお、白・ザブザ篇がベストエピソードだと認めない意見については、端的にアホなのでここでは考慮しない。

茶を習いたい。
母にその話をすると、昔から言ってる、と言われた。高校時代にも習いたがっていたらしい。
そんな記憶はないが、茶についての思い出は一つだけある。
文化祭で、茶道部に茶を飲ませてもらった。茶室という空間に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。
友人と、涼みたくて何気なく入った。茶を点ててくれたのは、教室では声を聞いたこともない物静かな女の子だった。そこでもほとんど言葉は交わさなかったけれど、所作だけで、親切な心配りを感じた。茶にも、そしてもちろん彼女にも、深く惹かれた。
おかげでそれから、教室でしょっちゅう彼女を目で追うようになってしまった。
美しい思い出にしておきたいので、どんな目で見返されたかについては思い出さない。思い出さないったら思い出さない。

その頃、結局なぜ茶を習わなかったのかは覚えていないが、今現在なぜ躊躇しているかは明確である。
茶道教室なるものの生徒は、おそらく女性が大半だろう。そこにお邪魔させてもらうのが、気が引けるのだ。茶道と言うと、茶碗を回し飲みすることぐらいは無教養な俺でも知っている。そんな場に俺のような、坊主頭で髭は伸びっぱなし、人見知りでぼそぼそとしか物を言えない、不審者めいた、というか不審者そのものである男が入り込んで良いはずはない。
そんなわけで、きっと独学になるのだろう。茶道みたいなものを独学と言うと、それはもはや独学ですらない(人との交わりありきの学びだろうから)と思うが、まあ良い。かわりに自由勝手である。抹茶も煎茶も好きに飲んでやる。

団地に住むから部屋を持て余すと友人に言ったら、何人かで金を出し合って全自動麻雀卓を買おう、麻雀と茶の会を定期的に開こうという話になった。しかし、小汚い男たちで麻雀ついでに飲む茶って、なんなんだ。俺の、茶に出会った高校時代の話は我ながら麗しいものだと思うのだが、あの清純たる憧憬の行き着くところが、これなのか。
まあ、それも俺という人間の器である。仕方ない。雑な茶を愉しもうと思う。

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