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花器雑感


骨董の類に、ハマりかけて、ハマらないでいる。
見るのは楽しくて仕方ないが知識が一向に蓄積されない。店や市にたびたび足を運んでいるが、初めて小壺を買った昨年の秋から変わらぬ同じ目で、飽きることなく物を見るばかりだ。
だいたい、万事につけ俺はこんなふうで、要は不勉強で、なにかにハマりかけてハマれないのが常である。

殊に花器が好きだ。
花器を選ぶ時には、どのような花を入れるか、イメージしながら選ぶと良い、という話を何度か聞いたことがある。
その通りに品々を眺めてみると、なるほどこれは、賢く買物をする、無駄な物を買わず自分に必要な物を買うための知恵として役立つばかりではない、と思う。それ以上に、器をより美しく見る方法である。
幻の花の姿を重ねると、器の美しさが鮮やかになるのだ。

手元の器に、時々だが、花を入れる。
俺は虫が嫌いで、自然を連想させるものは部屋になるべく置きたくないのだが、それでも花が一輪あるだけで室内の空気が冴える。
土師器に白山吹を入れた時のことである。
その幽かな清らかさに癒され、枯れかかるとその萎れた姿にも仄めくような誘惑を覚え、長いこと置いていた。
日が経ち、花がやがて腐り果てた。
器から抜き出し、屑入れに捨てる。すると、雑多なゴミのうえにはらりと落ちた花がなんとも言えず美しい。
野に咲くでも器にいけるでもなく、屑入れに捨てた姿が美しいとは、妙なこともあるものだとしばらく眺めた。
それから空になった花器を振り返れば、こちらも花があるよりも一層美しく目に映るのである。

俺はじいっと器を見た。
枯れるまでそこに眺めた花の姿が欠けて、器はただひとりになりいよいよ輪郭が明るみになる。
器が、それ自体で充実した存在としてあるのではなく、花を失い、空虚を抱えた物としてある。虚無に洗われて、器の姿が鮮明になるのだ。ちょうど、死者の遺した言葉が生者の耳に美しく響くように。
こういうことがあるのか、と眺めるうちに、これは買う前の姿と同じだ、と思い至った。どのような花を入れようかと胸に描きながらかつて見た表情が、再び現れているのである。
未だ無い幻の花を重ねた姿と、かつてあった花の失われた姿とが、通じている。
ここに、花器の美の原理がある、と言えば言い過ぎだろうか。
永遠の初学者のくせにそんなことを考えながら、今日も器を眺めている。

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